「私」は心的活動のプロセス

我々が「私」だと思っているソレには、中心というものがありません。なぜなら、実体がないからですね。

それなのに、そもそもなぜ一塊りの存在のように感じることができるのか?ここが非常に悩ましいところです。

でもよく見つめてみると、ソレは何らかの仕組み、メカニズム、あるいは心的活動のプロセスと言えるかもしれません。

仕組みやプロセスであれば、実体がないのは当然です。何かの働きに過ぎないからです。私たちは自動車を一塊の存在と見ています。

もちろんボディがあるからですが、それにしてもそれ以上の何かを感じるのではないでしょうか?それが車の働きによるものです。

動くというプロセスが起き続けているだけなのですが、そこに何かがあるように感じてしまうわけですね。

けれども、ボディ以外の内部の複雑な部品を一つ一つ解いてバラバラにしたところで、そこには何も見つかりません。

それと全く同じなのでしょう。1人の人間としての機能が起き続けているだけで、それをバラバラに解体したところで、何も見つけられないのと同じです。

たまにですが、自分を一人のまとまった存在としていられるようにしようと、企てていることに気づくことがあります。

自我としては、そうした涙ぐましい努力を裏で行なっているということですね。そうでもしないと、崩壊の憂き目に遭うとも限らないからですね。

「個人性」の嘘を暴く

誤解を恐れずに、非常にシンプルに言ってしまえば、苦しみから解放されるためには、コレ一択しかありません。

それは、「個人性」の嘘を暴くということです。多くの人たちがより幸せになるためには?「ということばかりを考えているのです。

けれども、そこには大きな罠が転がっています。なぜなら、その幸せが一過性では困るということを忘れているからです。

一瞬の快楽、ひとときの幸せでは私たちは満足することはできません。その後にやってくるであろう苦しみを恐れているからです。

であるなら、幸せになるためには?という発想から、どうしたら苦しみから解放されるか?ということを考えるべきなのです。

かつてブッダが言っていた「生老病苦」という人生の苦しみからいかにして解き放たれるかを真剣に考えるべきなのです。

そしてその答えは、たった一つ。冒頭触れた「個人性」が幻想であったことを見抜くこと。これ以外にはありません。

何を手に入れても、どんな自分になれたとしても、そこに個人としての自分がいるのであれば、必ず苦しみはついてくるからです。

そして、私が知っている限りにおいて、この「個人性」は幻想に過ぎないと気づくための最善の方法は非二元に気づくことなのですね。

余計なものを足さない

二元から非二元へと移行するときにピンポイントで理解しておかなければならないことがあるのです。

それは、知覚や感覚というのは単にそれだけでしかないということ。ここが本当に肝になるところかもしれません。

私たちの一瞬一瞬の生活には、知覚や感覚が絶対的に必要です。けれども、多くの人にとってそれにそれ以上の意味を付加してしまっているのです。

それは、例えば視覚について見てみると、「何かが見えている」という視覚が起きているだけなのです。

ところが、そこにまったく異なる次元の事柄を追加してしまうのです。それは、「だからそこに何かが存在する」と。

つまり、「見えている=モノが存在する」という飛躍が起こるのです。「聞こえている=音が存在する」も同じことです。

身体感覚についても同様です。「頭痛を感じている=自分の頭部に痛みが起きている」のようにしてしまうのです。

けれども、真実は「見えている」のは単に視覚が起きているだけだし、「聞こえている」のはただ聴覚が起きているだけ。

「頭痛を感じている」のはただそのような感覚が起きているだけなのです。これ以外はどんな説明もリアルではなくなってしまいます。

真実はあまりにもシンプルなのですね。

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苦しい時こそ非二元は役に立つ

もしもあなたが、何らかの罪悪感に苛まれていたり、自己否定感や自己嫌悪感に悩まされているのなら、非二元を思い出してください。

あなたが何を感じようと、その感じそのものはリアルなものですが、それを感じることになった原因というのは全て幻だと気づくからです。

自分は少しも人のため世のためになっていないと感じたとしても、そうした物語そのものが存在しない妄想なのです。

単なる夢だと理解できれば、穏やかな状態に戻ることができます。昨夜みた悪夢が現実ではなかったと分かれば、なんでもないのと同じです。

もしもあなたが、人生そのものを謳歌しているのでしたら、非二元は不要なものですね。なぜなら、その瞬間がまさに非二元だからです。

けれども、自分への後悔や存在否定のような理不尽な思いを抱いて、そこに閉じ込められているとしたら、非二元が役に立つ可能性があります。

結局は、人生を生きている誰かはいないし、あなたもあなたの人生も幻想でしかなかったと気づけば、全ての問題は消滅してしまうはずですね。

無防備になると人気者になれる!?

風邪の症状が長引いていて何もすることがないので、持て余す時間をどう使おうかと考えたりするのですが、そういう時に限って何もしたくないのです。

それで普段は見ないような長尺のYouTube動画を観たりしたのです。一人は男性で、無人島に行ってたった独りで何泊もするサバイバルドラマもの。

そうしたら似たような動画がおすすめに上がってきて、それは若い女性がこれもたった1人で冬の雪山深くに車で入っていくのです。

そして誰もいない極寒の山中で、車中泊をするというもの。こんなところで、悪者に出会いでもしたらどうするのだろうと、親戚のおじさんのような心配をしてしまうのです。

こうしたやりたがりの若者がたくさんいて、人はそうした人たちの無邪気で無防備な姿に憧れるのでしょうね。

自我というのは面白いもので、自分の真骨頂である自己防衛が目立ってくると嫌な気持ちになるのです。

そして、利己的な人間を忌み嫌うわけです。実はそれこそが自我の本性だということを自らがよく知っているのだなあと。

だからそれと真反対な人の姿を見て、いい気持ちになりたいのですね。そこをうまく突いてあげると、有名なユーチューバーになれるというわけですね。 

正直になると見えてくるもの

生まれた瞬間から、一瞬たりとも途絶えることなくずっと続いている体験だけがただあった、ただそれだけなのですね。これが本当のことです。

ところがある時から、その体験をしている自分がいるという途方もない発想の転換をするようになるのです。

そしてその全ての体験を自らのものとして、成長するのです。親から言われたこと、先生から教えてもらったこと。

友達やテレビやネットから仕入れた新しい情報など、そして本が好きな人はあらゆるジャンルの書籍からの情報を取得するのです。

そして多くの情報に触れて、それをそのままに信じ込んでいってしまうのです。そしてそれが本当のことだと思って生きているのです。

さらには、自分だけでなくてそうしたあらゆる情報を他人と共有することで、その信憑性はさらに高くなるのです。

そうなると、もうそこから抜けることはほとんど不可能になってしまうのです。つまり、本当に知っていることと、情報として得た知識との区別ができないままに、生きることになるのです。

だから、そこのところをあるがままに暴露されたとしても、それを信じようとしなくても不思議なことではありません。

もう分かったと思うのですが、これが初めて非二元の話を聞いたほとんどの人の反応なのです。そんなバカなことはないとバッサリと切り捨てるのも当然なのです。

それでも、自分に対して100%正直になって、知らないことは知らないと認めることができると、新たなものが見えるようになってきます。

これはとても新鮮な体験です。あらゆる「自分の◯◯という所有」が単なる概念だったという気持ちよさ。時間も空間も概念でしかなかったという、どうしようもなさ。

自分という個人が成立しないという深い安心感。その結果、全ての抵抗が止んでいくことになるだろうという、嬉しい予想もやってきますね。

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非二元を思い出せばこっちのもの

この二週間余りの間、ずっと風邪の症状があって熱がなくなってからもダラダラとした何となく気が晴れないという状態なのです。

しかも徹底的に用がない生活なので、終日じっとして時々動画を見たりしてほとんどの時間は横になっているのです。

だからなのか、今度は運動不足になっていたりしてスッキリしないなあ、でも生活は続いていくなあというある種贅沢な悩み。

こんな何もない毎日を過ごしていたら、頭が腐って使い物にならなくなるんじゃないかなと思ってみたり。

そういえば、非二元のあの感覚もちょっと忘れていたなと思い出して、しばらくの間探究をしていた頃の感覚になったのです。

そうすると、やっぱりそれは楽にしてもらえるんですね。ああそうだ、これ全部が幻想だしこの気の晴れない感覚も個人のものではないと。

そこまでやってくると、少し気になっていたあれやこれのことも全く気にならなくなるし、身体の変な感じも割と平気になるのです。

誰もいないし何も起きてはいないというのは、最強だなと。全てはほんのひとときの意識の夢だったんだなと。これ以上の平安はないですね。

風邪が長引いている

風邪を引いてしまったなと思ってしばらく寝込んでいたら、急に体温が39℃になったのでびっくりして病院へ行ったのです。

すると、記憶している限りでは初めてインフルエンザに罹ってしまったようで、5日分の薬を出してもらって、日々静養していたのです。

すると、あっという間に今度は平熱へと下がり、アレこんなものかと拍子抜けするくらいだったのです。

もう治ったと思って、スポーツクラブに行ってサウナだけ入って帰ってきていたら、どうも身体の具合が悪い。

もう大丈夫だと思って、クライアントさんの予約も入れ出したところで、これは万が一にも風邪を移してしまったら大変だと思って、急遽予約をキャンセルしました。

風の諸症状はすでに治っているのですが、どうにも気分がすぐれないのです。一日静かに横になっていたら、わずかに汗ばむような状態に。

セッションを取りやめておいて本当に良かった。自分は問題ないと思っても、相手のあることですからね。

なんだか、風邪を拗らせてしまったのかわかりませんが、もう少しの間ゆっくりと症状と向き合っていようと思います。

いつか探究は終わるもの

積極的に非二元の探究をしていた頃は、日々とにかく気づいたことを何でも動画に挙げたりブログに書いたりしていました。

もうないんじゃないの?と何度となく思ったことがあるのですが、その度にそんな心配はどこへやら。

いつも必ず、これは伝えておきたいと思われるような気づきがやってきたのです。自分でもそれは不思議なことでした。

ところが、やっぱりというのか当然というのか、以前のような探究が影を潜めるようになると、これといった新たな気づきがなくなってきたのです。

それでも何もないということにはならなくて、それなりにああこれを伝えよう、ああこれも書いておこうというのはあったのです。

けれども、この2週間くらいの間ちょうど風邪を引いて寝ていたりしたこともあって、新たに気づくようなことはなくなっていました。

そうなると、わざわざ動画に挙げる必要性がなくなって、このブログでも書かなくてもいいかなとなってしまい。

こうした探究というのは、こんな感じで終息していくことになるのかなあなんて思っています。終わりが見えた感じはまだないのですけどね。

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非二元の探究は健康な時にやるべし

身体は健康である限り、その存在を主張してこないというのは本当ですね。内臓も調子がいいと、どこにあるか分からないくらいだし。

歯なんて虫歯にでもならない限り存在感ないし、目だってゴミでも入らない限りは感覚はないと言ってもいいくらいです。

それはきっと、不具合がある時にそれを知らせるという目的があるのでしょうね。分からないまま過ごしてしまわないように。

ここが悪いということに気づけば、それなりのケアもできるわけで。それと同じなのかどうかは分かりませんが、自我も似たような傾向にありますね。

肉体的にも精神的にも健康を害してしまうと、「私」が目立ってくるのです。「私」の自己主張が激しくなるのです。

それもやっぱりケアして欲しいという現れなのかもしれません。ということは、具合が悪い時にこそ、自我の存在が希薄でいられたら素晴らしいということかと。

心身共に健康的な状態では、自我は比較的静かでいられるということです。このような時こそ、非二元の探究には最適なんだろうと思います。