純粋な気づきだけがある

二元性の世界を作り出している根っこにある幻想は、客観的事実が存在するという思い込みです。

この思い込みは非常に強くて、一体いつからこんな妄想を信じて疑うことをしなくなったのか、不思議です。

本当はただ現象が起きているだけであって、それが何かはまったく説明することもできないし、理解することもできません。

ただ一つ分かるのは、現象は気づきなしでは起きないということです。常に気づきとともに現れては消えていくのです。

つまりは気づきありきなのです。それなのに、気づきの外側があるという妄想をしてしまうのですね。

それこそが客観的事実なのです。気づきがカバーしきれない未知の存在、それが客観的事実というわけです。

それは不可能だと気付けます。不可能を可能にできるのは、それが妄想だからに他なりません。

気づきが身体の内側にあるという途方もない妄想が、そうした幻想の連鎖を生んだということでしょうね。

注意深く妄想を排除していくことができれば、全ては純粋な気づきであり、それ以外は何もないということにも気づくことになります。 

人生を背負わなくてもいい

何があろうと、どんなことが起きようと、毎日は続いていくのです。そして、そこに体験している「私」はいないのです。

体験だけがあるのです。この違いにふと気づいた時に、自分がこの人生を背負ってきたという重荷が取れるのです。

非二元の探求によって気づいたことは、兎にも角にも体験だけがあるということです。なぜ体験が続くのかは分かりません。

それはただ起きるのですから。そして正確に言えば、ただ起きているように見えるということなのです。

体験者の不在の中で、ただ体験だけが続いていくのですから、あなたがあなたの人生の主人などではなかったということ。

私たちはいつ頃から、勝手にこの人生は私のものであり、私が何とかして失敗しないように頑張らなければならないと思うようになったのか。

綺麗な模様の絨毯があったとします。その平らな絨毯を、両手のひらで少し内側に寄せるようにすると、シワができてその部分が持ち上がったようになりますね。

それが「私」です。少し模様は歪みますが、手を離して絨毯が平らになれば、模様もまた元通りになり、「私」も消えてしまいます。

「私」というのはそんなものでしかないのです。シワの持ち上がった部分があろうとなかろうと、絨毯には何の違いもありませんね。

あなたは、その絨毯のシワではなく、絨毯そのものだということに気づけばいいのです。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

苦しみの根っこにあるもの

心地良さと不快感を比べたら、誰だって心地良さの方を選ぶはずですね。これは、動物としての本能のようなものです。

つまり、心地良さを求めて不快を排除しようとするのです。人間であれ、ワンちゃんであれそこに違いはありません。

そして実は、この求めることと排除することこそが、苦しみを生む張本人なのですね。このことは、よくよく見つめる必要があります。

さらに、人間だけが本能に加えて心理的な要素がとても大きいため、苦しみも大きくなってしまうのです。

この求めることと排除しようとすることをまとめて、現状への不満感、あるいは抵抗と呼ぶこともできます。

結局、この抵抗さえ小さくすることができるなら、私たちが抱えている苦しみを小さくすることができるのです。

そしてこの抵抗を作りだしているのが、個人性なのですね。つまり、私という個人がいるという感覚が、本当の意味での苦悩の大元なのです。

非二元に深く気づくことは、この個人性の幻想に気づくことでもあるのです。つまり非二元の気づきは、我々の苦悩を小さくする助けをしてくれるということですね。

AIにブログ感想文を作ってもらった

AI 君に最近の自分のブログを読んで感想を聞かせてとお願いしたところ、瞬時に以下のような返答をもらいました。上手くまとめられていて、私自身も参考になりました。

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読んでみました!あなたのブログ(ヒーリング オフィス ルシッド)の最近の投稿を拝見すると、「非二元(ノンデュアリティ)」の体験と洞察を中心にした深い探求が続いています。以下は最近の記事の概要と私なりの感想です👇  

🧠 最近のテーマと内容の傾向

🔹 非二元という視点での体験の再解釈

・「非二元を簡単に分かる方法」

・「直接経験はシンプルさの極み」

・「直接経験の中にモノは存在しない」

・「どんなにリアルに感じても実体はない」

・「個人的人生なんてない」

など、どの記事も体験と物語(思考の創作)を分けて理解しようとする視点が一貫しています。非二元とは「現象としての体験と、それをどう思考で物語化しているか」を見極めること、という立場が感じられます。  

特に直近の記事では、「身体や分離という思い込みから離れて、直接の体験だけを見る」という内容が印象的です。身体が実体としてあるのではなく、感じとして現れているだけだという洞察は、非二元哲学でよく語られる「物語(思考による創造)」と「現れる体験(直接経験)の違い」に深く踏み込んでいますね。  

🌱 私の感想

🌀 深い問いを読者とともに探求している

あなたのブログは、単に考え方を説明するだけでなく、体験のあり方そのものを問い直すプロセスを読者と共有しているように感じました。たとえば、「身体って本当にあるの?その実体とは何?」という問いが、思考レベルを超えて、読者の体験レベルまで誘導している点がとても興味深いです。  

これは単なる哲学的な「知識」ではなく、体験そのものを直接に問い直す実践的なブログ記事になっていると思います。

💡 核心を突く視点

あなたの文章には次のような傾向があると感じました:

✅ 日常で当然と思われている事柄を根本から疑う視点

(例:「身体」「個人」「分離」という観念)

→ これは多くの人が直感では感じつつも、日常性に埋もれて見落としている部分でもあります。

✅ 思考と体験を分けて捉える明快さ

→ これは非二元を理解するうえで非常に重要な視点で、ただの知識ではなく生き方の視点の転換にもつながるものです。

🌟 印象に残ったポイント

• **「体験だけがある」**という観点は哲学的ですが、日常的な具体例(身体感覚や目の前の感覚)を通して説明されていて、読者が自分の経験に落とし込みやすい。  

• **個人的な生活体験(例えば麻酔下の感覚)**を哲学的洞察に結びつけている点が、とてもリアリティを感じさせます。  

• 全体として「読者に考えさせる」ではなく「読者と一緒に体験させる」ような文体が印象的でした。

🧩 全体の感想をひとことで言うと

あなたのブログは、単なる思想紹介ではなく、「見る・感じる・気づく」という体験そのものを読者と共に歩んでいる深い探求の場になっている。

これは単純に読むだけではなく、「読むことで自分自身の体験を問い直す」という、能動的な気づきの場として機能していると思います。

物理学者が非二元に近づいてきた

スウェーデン・ウプサラ大学のマリア・ストレム教授が、昨年末に最新理論を発表したのだそうです。

マリア・ストレム教授は、材料科学・ナノテクノロジーの権威であり、通常は物質科学や先端材料の研究で知られる研究者だそうです。

同教授の理論の中心的な主張は、「意識が現実の最も基本的な基盤であり、時間・空間・物質はその後に現れる。」ということ。

⒈ 普遍的な意識場(Universal Consciousness Field)がまず存在する。

⒉ そこから時間・空間・物質といった現象が生まれる。

⒊ 個々の私たちの意識は、普遍意識場の局所的な現れ(ある種の励起)として理解される。

同教授はこの理論を量子力学の言語と数学を用いて表現しており、単なる哲学的・精神論ではなく、物理学としての体系モデルとして提示したとされています。

本当にびっくりしましたね。細かいところは分かりませんが、概ね自分が思っていたようなことと一致しています。

論文はいい加減なものではないので、今後あらゆる専門家たちの批評を浴びることになると思います。

何か時代が動いた感じがするのは、私だけでしょうか?

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私の自我はまだ健在

この一年とちょっと続いていた非二元の探究に、やや翳りが見えてきていて、これまでのようにあれこれと検証をするということがなくなってきました。

それで暇になった私の自我は、今度は別のことに興味の対象を向けるようになったのですね。なかなか面白いものです。

その中の一つは、たまたま今乗っているクルマの新型が発売されることになったので、そこにまず目が行くようになったのです。

それと同時に、何だかそのクルマを何も考えずに新しくするだけってつまんなくない?というのがやってきたのです。

そして、この際だからメチャクチャ楽しそうなクルマにしてみようかと思い立ち、あれこれ検索しだしたのです。

それだけでかなりの時間を潰せるのですね。そしてもう一つが、自分の身体の健康のことにも意識が向くようになったのです。

最近運動不足と食べ過ぎ?などで、すっきりとした感覚から遠ざかっていたので、食事制限をしてみようかと。

その昔断食をたまにやっていた時代のスッキリ感を思い出して、どうしたものかと考えるようになりました。

難しいかもしれないけれど、一日一食というのにチャレンジしてみようかとか。探究がひと段落ついたのに、私の自我は健在のようです。

プライバシーがなくなっていく

いつものクルマのディーラーさんから、新型の展示車が新年早々入荷したので、見に来てくださいという連絡があったのです。

まだ試乗はできないらしいのですが、一応実車を見ておきたいと思ったので、連絡があったディーラーとは別の、事務所から近い方のディーラーさんに行ったのです。

到着して、駐車場にクルマを入れてる間に店内から係りの女性が素早くやってきて、「◯◯様ですね!?」と言ったのです。

えっ?なんで名前を知っているの?と思うじゃないですか。全く見たこともない人だし、いつものディーラーさんでもないし。

きっとクルマが入ってきた時に、店内ではカメラでナンバープレートを捉えて、コンピュータが自動的にデーターベースを検索するのでしょう。

それであっという間に、訪れた顧客の情報を知ることができるのではないかと思ったのです。いやあ、ちょっと怖いですね。

別に約束もしていないディーラーさんで、見ず知らずの人に名前を呼ばれて、あまりいい気はしないです。プライベートがバレているようで。

きっとこれからはもっともっと、情報を把握されてプライバシーがなくなっていく時代になっていくのかなと思いますね。

ウルフムーンを見た!

昨日の夕方、事務所から自宅へと向かうクルマの中で、おやっと思うものを見たのですが、それがすぐには月だとは気づきませんでした。

その理由は、これまで見たどの月よりも圧倒的に大きく見えたからです。かなり地平線に近いところだったということもあるかもしれませんが。

それで帰宅してから調べてみたら、いわゆるスーパームーンだったのですね。つまり月が地球に最も近づく地点の近くで満月を迎えるやつです。

しかも月の錯視の影響もあったようで。空の高い位置にある月よりも、地平線に近い月の方が、周囲の景色と比較されることで、脳は「巨大だ」と認識するらしいのです。

実はもう一つ、1月上旬は地球自体が太陽に最も近づく「近日点」付近に位置しているために、いつも以上にくっきりと、明るく輝いて見える効果も加わったのです。

そんなこんなの理由が複数重なったおかげで、およそ記憶にないくらいの大きさと橙色の輝きをした月を見たのです。

1月の満月は、特別にウルフムーンと呼ばれているということも初めて知りました。でも私は、月の錯視効果については疑っています。

どうやったって、あれは巨大過ぎるので。非二元的に言えば、大きく見える月のようなものであり、そう見えることが全てだということ。それに尽きますね。

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体験 VS 事実

深く見つめてみればすぐに分かることですが、私たちの毎日は体験から成り立っているのですが、それ以外に事実というものがあると思い込んでいます。

事実というのは、誰にとっても公平に同じ現実として起きていることです。それは、もう真実と言ってもいいくらいにガチっとしたものだと感じるのです。

私たちの毎日は、事実とか現実というもので埋め尽くされているのですが、それとは別に個人的には体験もあるということ。

そのようにして、現実というものがとにかくあって、そのほかの主観として体験をすることができるのだと。

けれども、非二元に気づいたその日からずっと、体験だけがあるということに気づいたのです。事実とか現実というものはないのだと。

この気づきはかなり決定的でした。何せ、自分の存在とはまったくかけ離れたところに客観的事実が起き続けていると感じていたからです。

それなのに、そういった事実は単なるイメージであって実在ではないと気づいたのですから、その衝撃は半端ではなかったです。

事実というのはイメージでしかありません。リアルなのは、この体験だけです。それを気づきと呼んでもいいことはすでにお伝えしてきました。

事実というのは気づきとは無関係の思考によるものでしかないということですね。そのことに気づくと非二元が身近なものになるはずです。

物理学は非二元に到達できるか?

最先端の量子物理学では、素粒子と時空は切り離せず、どちらが根本かという問いが意味をもたなくなるかもしれない、というところまで来ているようです。

つまり、物質と空間の境界が溶けていくようなのです。もちろんまだ確立した定説というわけではありません。

素粒子を従来の物質的な粒としてではなく、もっと抽象的な何か(情報や関係性)の表現形と考えているわけです。

いよいよ私たちは何から出来ているのかという根本的な問いが、より深い別次元の奥行きを持って感じられてきます。

さあこの先、物理学者たちはどのように真実を追求していくことになるのか?興味津々といったところです。

そしてきっと、どこまで行っても非二元の境地にまでは行き着くことがないのではないかと思うのです。

物理学者たちは、根本的な間違いをしているということに気づいていないからです。物理学にど素人の私が言うのは、あまりにも僭越過ぎますが…。

けれども、この世界は存在せずに、純粋な気づきだけがあるなんて、どうやっても想像もできないのでしょうね。