深刻さから笑いへ

他の動物にはなくて、我々人間にだけ備わっている能力の一つに「笑う」ということが挙げられると思います。

馬とか犬や猿などは、もしかしたら短い時間なら笑ってるかも?と思える場合もあるかもしれませんが、それでも人間とは違います。

この笑うということが、生きる上でとても大切なものだということを、かつて osho が言っていたのを思い出したのです。

笑いながら激怒したり、号泣するということはできないし、深刻になることもできません。つまり、そこには明確な違いがあるということです。

屈託なく笑うことは、自我にはできないことなのですね。だから、自我のパワーを強くするようなこととは一緒にはできないのです。

特に自我を強くする深刻さというのは、どうやっても笑いのエネルギーとは共存できないことは明白です。

何が起きてもそれを笑い飛ばしていられるなら、自我は力を失っていくでしょうね。実際、osho がいつも微笑んでいたような記憶があるのです。

聞いた話ですが、覚醒する前にずっと笑っていた人もいるとか。なんで笑ってるのか聞いたら、全てが滑稽に思えたということです。

自我が生きる原動力にしている、もっと頑張らねばとか、負けてはならぬ、より良い自分、正しい自分にならねば等々、全てが笑いからは遠い感じがします。

何があっても、何はなくても、笑いのエネルギーで満たされるようになるなら、もう覚醒も何もどうでも良くなりますね。

内側も外側もない

常識的な感覚として、私たちは自分の肉体の外側にはこの広大な世界が広がっていると信じています。

また一方では、肉体の内側こそが自分自身であり、そこにあらゆる感覚や思考、感情その他の心の状態などがあると思っています。

つまり、外側で起きた事象に対して内側で反応をするということを毎日繰り返していると感じているわけです。

けれども、それが違っていたと気づく時がやってくるかもしれません。というのも、非二元の気づきによって、内側も外側もなかったと分かったからです。

自分の思考、感情、感覚、気持ち、気分などが身体の内側にあるという妄想から抜け出る時がやってくるのです。

あるがままをそのように見ると、ここにはどんな境界も見つからないことに気づいてしまうのです。

肉体の表面が境界となって内と外を作っているという馬鹿げた考えに、囚われにくくなっていくのです。

全てが一つになってしまって、これはここに、あれはあそこに、ということが言えなくなってしまうのですね。

その一様さの中に、自分という個人がいるということの方が異常な感じがしてくるのです。私たちは、身体の内側にも外側にもいないのですから。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

気づきの視点でいることを忘れない

昨日のブログでは、情報だけがあるという内容のことをお伝えしました。でもその情報が一体どこからやってくるのかには触れませんでした。

私は個人的にそれを知りたいと思う気持ちがあるのですが、でもそれは決して知ることはできないのだということも分かっています。

というのも、それは次のような例えを考えてみればいいのです。映画や動画を観ているとき、その動画の中にはその動画のネタ元を見つけることはできません。

あるいは、毎晩見る夢も同じです。その夢の中をどれほど探し回ったところで、その夢がどこからやってくるのかを見つけることは不可能ですね。

そういったことと同じなのかなと。私たちはある意味、この現実世界という夢の住人として、生かされているのです。

だとしたら、これを生み出している情報、あるいは経験、体験がどこからどうやって起こされているのかを知ることはないのです。

とはいうものの、その大元に意識を向けつつ生活するように努めることは可能なのかもしれませんね。

そしてその方法が、非二元をできるだけ意識し続けて忘れずにいるようにすること。別の表現をするなら、気づきの視点でいるようにするということですね。

この世界は情報で出来ている

私たちの誰もが自分の外側には世界が広がっていると思い込んでいます。自分はその世界の中で暮らしている小さな存在なんだと。

今からこの嘘を暴きます。これが単なるイメージだと気づくと、非二元がいきなり身近になるはずです。

そもそも私たちが外の世界をどのように認識しているかといえば、当然ですが五感による以外ありません。

見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わうことで世界はこのようなものだと見当をつけているだけなのです。

なぜなら、何人といえども外の世界を直接的に知ることは不可能だからですね。ここまで異論がないはずです。

外の世界は間違いなくこうなっているよと思っているだけなんです。ということは、外の世界があるというのも想定に過ぎません。

五感というのは、それぞれの感覚情報です。視覚情報、聴覚情報、触覚情報、嗅覚情報、味覚情報ですね。

それだけが頼り。さあここではっきりさせましょう。世界がこのような実体を伴ってできているというのが想像であり、あるのは情報だけだったのです。

この世界は情報で出来ているわけです。でもそれをもっと正しく表現すると、情報だけがあるということになります。

その情報のことを別の表現を使えば経験とか体験となるのです。つまりは、経験だけがあるといういつもの非二元の表現になるわけです。

綺麗にまとまりましたね。そういうわけで、いつもお話している非二元というのは、なかなか深い洞察が必要だったということですね。

空(くう)とは無限のポテンシャル

皆さんは、「般若心経」ってご存知ですか?作者は不明だし、いつ頃のものかも曖昧なままで本当のところは分かってないらしいですね。

けれども、その中にある一節「色即是空」という言葉は聞いたことがある人もいると思います。

これは、万物はこれ全て空(くう)であるという意味です。つまり、この世の一切合切には実体がないということです。

私がいつも言っている非二元の話と同じなんですね。この空(くう)というのは、無ということであって、何もないということ。

それを聞くと、なんだか空虚な感じがしてきませんか?でも実は、その感覚というのは空間があるというのが前提なんです。

空間が無限に広がっているのに、中身が空っぽだと言われた気がするので空虚とか虚無を感じてしまうわけです。

けれども、全てが空(くう)というのは、空間さえも無いということなので、決して空虚ではありません。

あえて表現すると、無限に凝縮した無限大の可能性ということになると思います。つまり、空(くう)とはポテンシャルなんです。

何もなさとは、あらゆるものがそこから発生する無限の可能性を秘めているという感じです。なんとなく分かってもらえたらいいかなと。 

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こちらの動画もぜひご視聴ください。 

 

非二元を簡単に分かる方法 その2

昨日のブログでは、経験だけがある、体験だけがある、という話をしました。それがそのまま非二元へ繋がるのだと。

これをそのままに分かる人もいるかもしれないし、納得できないという人もいていいと思うのですが、納得できない場合について解説したいなと。

一般的な私たちの想定というのは、自分という個人がなんらかの経験をし続けていることは了解できるのです。

けれども、一方では自分の経験が及ばない世界がいくらでもあると考えているのです。自分の他に80億人の人々がいて、それぞれが別の体験をしているのだと。

あるいは、自分は夜眠っている間に、太陽は地球の裏側を照らしていると。それは自分の体験外で起きている事実じゃないかと。

こうした発想は、ごく普通のものですが、それがこの広い世界の中で小さな自分が生活しているというイメージからやってくるものなのです。

これが単なる思考による思い込みであるとは思えないということなんですね。でもやはりこれは事実ではなく、イメージでしかないのです。

自分がこの広い世界の中で暮らしているという根深いイメージを脇に置いて、ただ体験だけに注意を向けることができるかどうかです。

それができれば、全ては体験だけだったということに気づけるはずですね。そこからは、非二元が間近で待ち構えていますよ。

非二元を簡単に分かる方法

非二元の気づきがやってきてから、様々なことをお伝えし続けてきたのですが、その中でも一番シンプルなこととは、「経験だけがある」なんですね。

これって、二元、非二元に関係なく、誰にとっても現実なのですが、それを分からなくさせているのが思考による「世界」という幻想なのです。

私たちは、通常自分の周りにはこの世界が広がっていると思っていて、ほぼ間違いなく固く信じ込んでいます。

けれども、自分の身体の外側の世界のことなど、どうやって分かったというのでしょうか?私たちの毎日は、経験の連続だけです。

起きているのは、全て経験です。それ以外は決してありません。経験だけが連続して起きているだけなのに、世界があると信じているのです。

不思議なことですよね?そして誰も、信じていることに気づかずに、世界があるのは事実だと思い込んでいるのです。

自分の今日の1日を思い返してみて欲しいのです。そこに、経験以外が入り込む余地などないことは明白です。

朝目が覚めたという経験、朝食を食べたという経験、身支度をしたという経験、職場に行ったという経験、仕事をしたという経験。

これがずっと続いているだけです。経験以外は起きていないと分かりますか?こんなシンプルなことなのです。

だからいつも言っているのです。経験だけがあると。世界があるとか、自分という個人がいるとか、そんなつもりになる経験は起きているかもしれませんが…。

直接経験はシンプルさの極み

子供の頃にある本を読んでいて、それには人間の心というのは顕在化して気づいている部分と、奥深くに潜在して無自覚の部分があると書いてあったのです。

その構造にとても興味をそそられて、それが強く印象に残ったのでしょうね。この仕事をするようになって、またそのことと触れ合うこととなったのです。

そしてずっと長い間、そうした心の構造をベースにしたセッションをしてきたのです。その構造は事実に違いないとして。

人間の内面というのはそのようにできているのだと。ところが、それは単なる思考によるイメージに過ぎなかったのです。

ただしイメージであったとしても、この物語の中ではそれがうまく活用できるのです。その構造が事実であるかのようなことが起きるからです。

けれどもそれは、あくまでも物語の中でのこと。直接経験の中へと注意を向けていくと、そんな構造は物語とともに消えていくのです。

そこには内面などというものは存在しなかったのです。外側とか内側といった分け隔てもないのでその両者ともに存在しないのです。

直接の経験では、イメージの世界で作られたいかなる構造もないのです。だから、複雑さは全く見当たらず、それはシンプルさの極みですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

直接経験の中にモノは存在しない

この数ヶ月間、非二元の説明をしてきて思うのは、最もシンプルで決定的なこととは「直接経験の中にモノは存在しない」ということ。

ここからあらゆることが派生していって、最終的には何もないし誰もいない。時間も空間もこの宇宙もないというところまで行ったのです。

だから、非二元に気づきたいということであれば、この根っこの部分である「直接経験の中にモノは存在しない」が分かればいいのです。

いつも言っているように、目の前のリンゴを見るという実験をするときに、思考の前に起こる視覚の経験に注目するのです。

それは、色の経験です。色の変化が輪郭となって、それが見かけの上で形というものを生み出すわけです。これ以外の経験はありません。

もう一度繰り返すと、視覚というのは単に色の経験が起きているだけ。それ以外のどんなものも直接捉えることはできないのです。

二元的な言葉を使えば、「自分が見ているか見ていないかに関係なく存在するリンゴ」というものを視覚が伝えることはないのです。

こんなシンプルで当たり前のことに気づくだけで、そこから紐解いて行けばこの世界が非二元であることに気づくはずですね。 

どんなにリアルな感じがしても実体はない

もうかれこれ20年近く前のことになるのですが、あるセミナーに参加しているときに、自分はこれまでの自分とは違うと感じたことがありました。

自分の名前を心の中で呟いた時に、若干の違和感があるのを感じたのです。ああ、ここが人生の一つの区切りになるのかなと思ったのを覚えています。

だからと言って、人間を辞めたわけでもないし、人生はこれまで通りに続いていくことに違いはないのも分かっていました。

その事と似たようなことを最近また感じるようになったのですが、ただそれは似て非なるものとも言えるのです。

というのも、自分の名前を唱えた時の違和感があるまでは同じなのですが、今度は人間としての自分が遠いものに感じられるのです。

この世界、この自分の人生というものが全て幻想だという感覚がとても大きくなってきてしまったような感覚なのですね。

意識が拡大している感覚が、個人であることを忘れさせるというのか、個人としての自分が小さくなったような。

決して嫌な感じではないですが、かと言って爽快な感じがするというわけでもなく、特別な感じは何もない。

下の画像のような目に鮮やかな景色を間近でみて、そのリアル感を感じても、それでもその実体のなさはもう拭えない。

身体が不調になると、また戻されもするけれど、もうこの感覚がなくなってしまうということはないのでしょうね。