探究がやめられない

昨年の暮れあたりで一度探究が終結した感じになったのですが、それでも完全にやめたとはなっていないなと思っています。

というのも、それまでの探究では非二元についての様々な基本的な気づきがやってきていたのが、一応終わりを告げたようになったのです。

ところが、今度はそれを定着させるべく少しずつですが忘れないようにするための実践などをやるようになったのですね。

だから、何もしなくなったというわけではないのです。逆にしつこく非二元への気づきから離れないようにしているのです。

そんな中、特にアンテナを張っているわけでもないのに、巷からやってくる情報の多くが「探究をやめよ!」というメッセージ。

コレなかなか不思議なんです。これまでもそう言った情報はあったのですが、最近特に多くなったなあと。

探究をやめられない理由は、本当に探究をやめたらどうなってしまうのだろうと思っているからなんでしょうね。

今一番心に響くのは、「黙って座れ」とか、「何もするな」と言った言葉なんです。探究を取り上げられたら、今の自分は何をしたらいいのだろうと路頭に迷う感じですね。

非二元の視点でいると

最近は、夜一人で部屋で過ごしている時には、なんと表現したらいいのか分からないようなちょっと異質な感覚になることがあります。

それは、まるでこれまで生きてきたすべての経験が、単なる妄想でしかなかったというような感覚とでも言えばいいのか。

他の言葉で表現すると、この世界に生まれて生きてきたと思わせている全ての記憶が偽物だったと言った感じ。

何も信じることができないし、信じられるものがない感じ。物語はどこにも存在しないし、そんなものは最初からなかったかのような。

コレしかないということが本当のことに感じられてくるわけです。そしてその中に個人としての私など存在しない。

嫌な感覚ではないので何も問題はないのですが、まだどこかに釈然としないものを感じているのも事実です。

やっぱりまだまだ本当のことに気づきたいという欲求があるのでしょうね。知られるべき何物もないと分かってはいるのですが。

非二元の視点でいられることが増えたのかもしれません。

「無常=存在」って?

初期仏教の長老と呼ばれている人が、あるYouTube動画の中で無常について解説しているものを観たのですが。

その中で、最終的には「無常=存在」であるというようなことを言っていたのですね。なんだかよく分からない話だなあと。

とりあえず初期仏教においては、無常を本当に深く理解することができたら、それが悟りだということを伝えていたのです。

その時は、そんなものなのかなあで終わっていたのですが、つい最近ちょっと気づいたことがあったのです。

それは、もしも無常がなかったなら、つまりずっと同じ状態が続くことが仮にあったとしたら、それは存在を認識できないはずだと気づいたのです。

何かが存在すると認識するためには、常に「在る/なし」というのを繰り返している必要があると分かったのです。

簡単に言えば、変化しないものは存在すると認識できないということです。例えば、ある音がずっと鳴り続けているとします。

普通は、その音はまったく変化していないと感じてしまうのですが、実は音は全て「在る/なし」を繰り返しているのです。

これは、オシロスコープなどで波形を見れば明白です。その波形は、常にプラスだったりマイナスだったりしているのです。だから、その音が鳴っていることに気づけるのです。

かなり低音の音であれば、その断続を感じることができます。そうした経験は誰でもしているはずなのです。

これは非二元の立場とは関係ないことかもしれませんが、万物が無常であるなら、変わらずにあり続けると思っている「私」は幻想だということになりますね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

この世界は夢のようなもの

子供の頃から、この世界は何となく夢のようなものなんじゃないかな?と思っていたのを覚えています。

他の言葉を使えば、何だか現実感が足りないような感じとも言えます。そして、いつかはこの夢から醒める時が来ると。

それが死んだ時なんじゃないかといつの頃からか思うようにもなっていました。夢というのは、実在しないということ。

そして、作り物だというイメージも含まれています。ただし、誰かが作っているという意味ではないのですけど。

だからと言って気楽になれたかというとそんなことはなく、だから夢みたいなものと思っても何のご利益もありませんでした。

ところが、この年齢になって子供の頃のこの感覚が、間違っていなかったのではないかと思えるようにもなったのです。

つまり、非二元の気づきと探究を経て繋がったわけですから。そして、年齢を重ねてきたことも加味されて、気楽さは増してきましたね。

この世界の中で個人として生きているという夢、この夢の正体が何なのかはさっぱり分からないままですが、分かる必要もないことにも気づいています。

コメントのあるある

このブログのコメントにしても、YouTube のコメントにしても、内容に興味がある人がそれを見にきて、自分の考えや思いを書く場としてあるわけです。

そもそも興味のないブログや動画を読んだり見たりすることは、ほとんどないはずなので、これは当然のことだろうなと。

分からないことなどを丁寧に質問してくる人とかは、好感が持てますし、なんとかしていい回答ができたらなと思ったりもします。

そんな中、非常に批判的な内容だったり、否定するようなコメントを書く人は、そのブログや動画の内容に思い入れが強い人なんだろうなと。

それと自分の意見を誰かに伝えたいという人も多いかもしれません。一番厄介なのは、自分の知識をひけらかしてくる人。

あるいは、そのような知識によって優位な立場になろうとする人。そういう人は、自分は覚醒に近いということを表現したいのかもしれません。

こういうタイプの人の自我は強力だし、その分、煩悩も強く残っている可能性が高いように感じてしまいますね。

自分はどこにもいない

私たちは、子供の頃のどこかで人体について勉強します。頭の中には脳があって、消化器系はこうなっていてという具合に。

自分の身体の中が空洞だと思っている人はほとんどいないはずですね。内臓やら筋肉やら骨などがみっちりと詰まっていると知っています。

ここでちょっと考えて見て欲しいことがあるのですが、そんな肉の塊のような身体の中に自分が潜んでいるとしたら、非常に変な感じがします。

脳みその中だろうが、内臓の中だろうが、人体のどこの部分だろうと自分がそこにかくまわれているとは到底思えないはず。

そのなのに、一方では自分はこの自分の身体の内側にいるという感じがどうしてもしてしまうわけです。

この自己矛盾をどうしたらいいのでしょう?多くの人は、このことを真剣には考えないようにしてスルーしているのです。

でも逃げずに向き合うとどうなるか?結果は明らかなのですが、身体の内側にいる感じがするだけで実際にはいないのだと。

ここまできてようやく、自分はどこにもいなかったということに気づくことになるのです。身体の中に限らずどこであろうと、一度も自分に出会ったことはないのですから。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

それはただの音でしかない

事務所にいると、毎日幾度となく緊急車両がけたたましいサイレンの音を発して通過していくのが聞こえてきます。

セッション中もそれなりにちょっとは邪魔になるし、YouTube動画を撮影している時には、一旦中断を余儀なくされてしまいます。

急を要する事態だろうから仕方がないことですが、それにしてもこの事務所のある界隈は色々なことが起きるのだなと。

サイレンと言ってもいくつか種類があって、パトカーなのか、救急車なのか、あるいは消防車なのかの区別はいまいち付けづらい。

サイレンが聞こえてくると、咄嗟にどの車両なんだろう?というように考える癖がついてしまっているのですね。

その車両はどこからどこへ向かっているのだろうか?とか、もしかしたら緊急手術のための輸血が必要な病院へと急いでいるのかなとか。

そこで「はた」と思い出すのです。本当はただ音という感覚が起きているだけだと。それなのに、この音は消防車だろうとか、どこかで火災があったのか?などを連続して考えてしまうのです。

そうやって、知らぬまに人生物語の中へと引き摺り込まれてしまうのです。直接の経験に留まるなら、それはただの音でしかないと気づくことになるのですね。

非二元の話はタブー?

この世界には、タブーと言われることが多々あります。タブーというのは、共通して知られていることだけど、それに触れてはいけないというものです。

例えば、フリーエネルギーを発明すると、オイルメジャーによって消されてしまうらしいという噂があります。

あるいは、比較的身近なことで言えば、私たちは死についてあれこれと話題にあげることを避けて生きていますが、あれもタブーの一つですね。

誰もが承知していることだけど、それをあからさまにしないでおこうという暗黙の約束みたいなものとも言えます。

それに触れると、いいことはないし、誰にとっても得になることがないと思われていることは、タブーとみなされるのです。

そういう意味では、非二元の話も場合によってはタブー視される場合があるように感じています。

「この世界には誰もいない」と言ったことを話すと、そんなことは言ってはいけないというニュアンスの反応をする人もいます。

きっと何か都合が悪い感じがするのでしょうね。そして、そういう反応をする人は、非二元に深いところで気づいているということです。

もしも非二元の話しを聞いて、タブーに触れているような嫌な感じがするとしたら、その人は非二元に気づいていないふりをして生きているということかもしれないですね。

非二元を別の切り口で表現すると

日頃お伝えしている非二元のことを別の切り口で見ると、次のような表現になったりもします。

普通は「私」が音を聞いている。でも実際には、音楽が流れている瞬間、「聞いている私」を探す暇がない。

映画に没入している時、主人公と観客の境界が薄れる。泣く場面では、「私は今、感情移入しています」とは普通考えない。気づけば、映画そのものになっている。

「私が呼吸している」と思っている。でも少し観察すると、奇妙なことに気づく。次の息を、誰が決めている?

寝ている間も呼吸は続く。つまり呼吸は、「私がしている行為」と言うより、世界が勝手に起こしている運動に近い。非二元は、人生全体がそうだったと気づく感じ。

波は「自分は独立した存在だ」と思うかもしれない。でも波をよく見ると、海から切り離された瞬間がない。生まれる前も消えた後も海。

波という「形」が一時的に見えているだけ。非二元では、「私」というものも、海面に立つ一瞬の模様に見える。

言語の癖として、「私が見る」、「私が考える」、「私が選ぶ」のように、言葉は全部、中心に「私」を置く構造になっている。

でも直接の経験を見ると、思考は勝手に現れ、感情も勝手に変化し、音も自然に聞こえ、景色もただ現れている。

「私」は文法の中心にはいるが、経験の中心には見つからない等々。このようにいくらでも非二元の事例を上げることができますね。参考になったらいいのですが。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

コントロールできるものなど一つもない

私たちの毎日は、決断と選択の繰り返しで推移しています。今日は、体調がいいから、スポーツクラブに行こうとか。

ガソリンが減ってきたので、途中でガソリンスタンドに寄ろうとか。今日のブログの題材は何にしようかな?

そうだ、アレを使おう等々。全部自分で考えて自分で決断してそれを実行に移していると言う感じがします。

けれども、本当にそうでしょうか?その決意はどうやって思いついたのでしょうか?その選択はどのようにやってきたのでしょうか?

その辺りをじっくり見つめてみると、ほとんどがどこかから心の中にやってきたものであることに気づくことができます。

加えて、あなたは次の思考を選ぶことができるでしょうか?やってくる感情を選択することができるでしょうか?

このように見ていくと、まったくもってこの自分がコントロールしているものなど一つもないと気づくことができます。

これがいつも言っているこの世界は全自動ということです。コントロールしようにも、する方法がないからです。

コントローラーとしての自分も発見できないし、コントロールできるような「何か」などないからです。あるのは、常に現象として現れているコレだけなのですから。