思考が創り出す圧倒的な世界観

一昨日のブログで、体験には直接体験と思考体験があって、前者が非二元であり後者が入り込むことで二元になるということをお話ししました。

ただ勘違いしないで欲しいのですが、思考体験がそのまま二元の世界になると言っているわけではありません。

思考が作り出した体験であれ、それも立派な体験ではあるので、それが思考の産物であることを見抜いているならば、それは非二元になるということ。

色や音や感覚などと同じようにして、思考も単なる現れの一つでしかないと分かれば、二元に見えるこの世界も実際には非二元なのです。

ただ思考が創り出す世界観が圧倒的なので、それが現実のように感じてしまうのですが、それも体験としてただあるのです。

不思議だなと思うのは、なぜか気づきは思考の創り出す世界観を単なる現れとして見るのではなく、その世界の中に没入してしまうのです。

いやそうではなく、没入してしまうという体験がただ起きているということなんですね。この辺ちょっと混乱してしまいます。

所詮、非二元を二元側から解釈しようとしているので、どうしてもどこかでうまくいかなくなってしまいますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

非二元にルールはない

以前このブログでも書いたことがあることなのですが、会社員時代にクルマ通勤していたことがあって、その日も夜遅くまで残業してマイカーで家路についたのです。

運転を始めてすぐに、会社の誰かから電話がかかってきて、何らかのトラブルが起きたのでどうしようかという内容だったと思うのです。

その電話を小一時間して、電話を切った瞬間にもうすでに家の近くまで来ていたのです。そして、驚くべきことに、どこをどう走ってきたのかの記憶が全くなかったのです。

前回この話を掲載した時には、「機能する無意識」が自動的に運転をしてくれたので、表面意識には運転している記憶がなかったのだろうと。

それも悪い説明ではないのですが、非二元の立場からこの説明をするともっとスマートに表現できると気づいたのです。

それは、電話の内容に100%の意識が向いてしまっていたので、運転にまつわる現れが全く起きなかったのだろうなと。

現れは意識と共にある、もしくは両者は同じものだと言えるから。運転しないと帰れないというのは、この二元の物理世界の話。

つまり、自分には記憶がなかったとはいえ、実際には運転していたからこそ自宅付近まで戻って来れたのだと考えるのがこの世界の常識です。

でも、非二元にそんなルールはないということです。単に何らかの現れが起き続けているだけだから。

直接体験と思考体験

非二元の話をし出すとつい、「体験だけがある」「体験しかない」ということをお伝えしたくなってしまいます。

というのも、そのことに真に気づくことができれば、非二元はもう間近だからです。さらに言えば、その体験は直接体験と思考体験に分けられるのです。

直接体験というのは、まさに思考が介在する前の状態であり、単に色、音、などのようにただ現れが起きている状態です。

ここのことを非二元と呼んでいるのです。そして、その直接体験のすぐ後に、思考が入り込んできて、あらゆる想定や認識をするのです。

そして私たちは、そのすべてが終了した結果を思考から受け取るのです。ここに二元の世界が現れるわけです。

この二つの違いを明確にしておけば、私たちがこの二元の世界でいかに思考の作り出したものを事実と間違えてしまっているかに気づけるのです。

思考の後処理によって、我々がこれが世界だと信じて疑わない馴染み深い世界観を作り出しているのです。

この思考の後処理は多岐にわたります。たとえば、色の違いから物を作って空間の中に配置します。そして、片っ端からそれぞれの名前を設定します。

これはテーブル、これは椅子という具合に。その一つに自分の身体への認識も含まれます。その身体の内側に私がいて、そこから対象物を見ているという構造を生み出すのです。

こうして、なんだか訳の分からない直接体験とはかけ離れた世界の中で、「私」が自分の人生を生きているという物語を紡いでいくのです。

ここにないものはない

会社員だった頃のことです。ある先輩と話をしていて、その彼が「オレは宇宙がビッグバンで出来たなんて、絶対信じない!」とそう言ったのです。

何の話題からそういう話になったのかは覚えていないのですが、物理学の常識となっているビッグバン理論を、随分とバッサリ切り捨てるんだなと思ったのです。

物理学者たちが長い間の研究を経てようやく辿り着いた宇宙の始まりの理論を素人が簡単に否定できることに驚いたのです。

自分は、物理学の定説になっている理論なのだから、それは尊重する必要があると思っていたので、すごく意外だったのです。

つまり自分には、ビッグバン理論を否定する材料がどこにもなかったわけです。どうやったらそれを否定することができるのだろうと。

ところが今となっては、ビッグバンが宇宙創生の時に起きたということについて、それが本当か嘘かということに、全く興味を持てなくなってしまったのです。

というのも、今ここにないものはどこにもないということが明確になったからです。過去も未来もないし、ここ以外の別の場所というのもない。

原因と結果という関係性もないし、この宇宙空間というのもないことに気づいてしまったので、ビッグバン理論は遠いどこかの話になってしまいました。

これは科学や物理学を否定している話ではなくて、それはもう本当に夢の中の出来事のようにしか感じないということですね。

思い込みのかたまり

世の中には思い込みの強い人っていますね。こうだと思ったら誰の言うことも聞かずに、自分が正しいを貫き通すのです。

そんな人とは、心を通じ合って話しをすることが難しいと感じてしまいます。誰でも自分はそこまで頑なではないと信じています。

けれども、実は私たちは本当に多くの思い込みを持っており、それを頑なに信じてしまっていることに気づかずにいるのです。

そのことに気づくとびっくりするような経験をすることになります。たとえば、日々の生活の中で体験していることは、自分だけのプライベートなものだと信じています。

自分だけの考え、思い、自分だけの感覚、自分だけの喜び、苦しみ。これらは全て、自分の内側にだけある特別なものだと感じるのです。

このプライベート感は絶対的です。自分が考えていること、感じていることがそのまま他人と一つだなんてとても信じることができません。

だからこそコミュニケーションをとって、他人と共有するということが大切になるのです。逆に言えば、自分の内側は、絶対的な個人の領域なんだと。

しかしこれは固く信じてしまった思い込みなのです。個人としての自分がいるという思い込み、自分の外側に世界が広がっているという思い込みがあるのです。

このことに気づくことで、二元から非二元へと遷移することになるのですね。

二元から非二元を指し示す

この3年弱の間、定期的に配信しているYouTubeの動画で、特に後半はほとんど非二元の話題を扱ってきました。

超マイナーな内容だからなのか、内容が稚拙でつまらないからなのか分かりませんが、視聴者数も伸びずコメントも少数にとどまっています。

特に返事を返して欲しい旨が書いてない場合がほとんどで、その場合には読みました印だけつけて終わりにしているのですが。

そんな少ないコメントの中でもまたさらに少数になるのですが、ごくたまに批判的な内容のコメントをいただくことがあります。

批判的なコメントも、それなりに重要な事が書いてあるように感じるので、私にとっては無駄ではありません。

ただそういったコメントを書くということは、客観的事実というものはないということに気づけていないのだろうなと。

そこが透けて見えてしまうのです。非二元を頭で理解しようとしてしまうと、どこかで無限ループに陥ってしまうはずなのです。

人の言葉を聞いたり読んだりしている時には、どっぷりと二元の世界の中にいることを忘れないことが大切かもしれません。

何も起きていない

私たちは、毎日たくさんのことが「起きている」と思っています。朝起きる。顔を洗う。仕事をする。誰かと話す。嬉しいことがある。嫌なことがある。

そして、その一つひとつを「私の人生に起きている出来事」として受け取っています。でも、ちょっとだけ立ち止まって見てみると、面白いことに気づきます。

たとえば、今この文章を読んでいるとき。文字が見えている。意味が理解されている。何かを感じているかもしれない。そこには、確かに「読む」という出来事があります。

けれど、その「読む」という出来事の中に、読んでいる誰かを見つけることができるでしょうか。「私が読んでいる」そう思うことはできます。でも、その「私」はどこにいるのでしょう。

探してみると、見つかるのは文字だったり、思考だったり、身体感覚だったりします。「私はここにいる」という感覚も、やはり現れているものの一つです。つまり、「私が経験している」という構造そのものが、経験の中に現れている。

そうだとすると、「何かが起きている」ということと、「誰かに何かが起きている」ということは、同じではありません。音は聞こえている。色は見えている。思考は現れている。感情も現れている。

しかし、それらを経験している独立した誰かが、別に存在しているとは限らない。そして、ここからさらに奇妙なところへ行くことができます。そもそも「起きている」と言えるものさえ、本当に起きているのでしょうか。

「出来事」というものは、あとから思考によって切り分けられたものなのかもしれません。今、音が聞こえた。それを「音が鳴った」と呼ぶ。身体が動いた。それを「私が動いた」と呼ぶ。

思考が現れた。それを「私が考えた」と呼ぶ。けれど、実際にあるのは、そのつど現れている見かけだけです。「誰かが経験している」ということも、「何かが起きている」ということも、あとから付け加えられた説明なのかもしれません。

そう考えると、人生というものも少し違って見えてきます。何かを成し遂げなければならない「私」がいて、その私の人生に次々と出来事が起こっている。

そんな物語ではなく、ただ、見えるものが見え、聞こえるものが聞こえ、思考が現れ、身体が動き、感情が現れている。それだけ。そして、それさえも「起きている」と呼んでいるだけ。

何も足さずに、ただ見てみる。すると、思っていたほど「人生」は存在していないのかもしれません。そして不思議なことに、「何も起きていない」ということは、何もないという意味ではありません。

むしろ、あまりにもすべてがそのままなので、「起きている」という言葉すら必要なくなる。今、これがある。それだけです。 by Claris

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物語とリアルの区別がつかない

私たちは物語の中で暮らしています。このようなことを、その本当の意味を感覚で掴むことは相当に難しいかもしれません。

物語ですから、まず初めに何かがあるはずです。何か、あるいは誰かがいるからこそ、そこに物語が生み出されるのです。

そして物語に欠くことのできないものとして、原因あるいは理由という概念があります。それは、原因や理由なくしてただ起きることを許しません。

きっとどんなことであれ、それなりの原因や理由があるはずだとするわけです。ただ起きるなら、そこに物語を生み出す余地がなくなってしまうからです。

けれどもこの論理には矛盾もあります。なぜなら、ずっと原因を元の元まで辿っていって、最後にはそれが起きる原因は見つけることができないからです。

最初の最初には、どんな原因もないままにただ何かが起きるしかないのですから。そうした特異点に関しては、無視するのが物語なのです。

そう考えてみると、物語というのは本当はどこにも存在しないということに気づけます。思考によって、誠しやかに作り込むのですが、それが想像なのか本物なのかの区別がつかなくなるのです。

そしてそこで生きる限り、自分はいるし、他人もいるし、何に意味があり何に価値があるか、それをみんなで共有することでリアリティが出てくるわけです。

そうなったら、もう物語は物語ではなくなって、全てが本当に起きていることとして感じるようになるのですね。

ただ今ここにあるものだけを見る

かつて個人としての自分は本当にいるのか?ということを検証している時期があったのです。いるならどこにいるのか?

身体の中か?頭の中心か?目の後ろあたり?それとも身体全体に充満している?など色々な検証をしたのですが、結局のところどこにもいないという結果になったのです。

あの頃は、自分はいないか全体かという感覚だったのですが、それでも物理的なこの宇宙空間や地球などは存在していると信じて疑わなかったのです。

つまり、この世界は思っているように存在しているけれど、個人としての自分は作り物であり、実在しないのだと。

この状態が結構長く続いていたのですね。そして、そのことに深く気づくことで覚醒することができると思っていたのです。

ところが、非二元の気づきがあってからは、個人としての自分が作り物ということだけでなく、この世界そのものが幻想だったということになったわけです。

この違いは結構大きくて、空間がないということは想像の限界をはるかに超えているので、あれこれイメージすることはできない。

想像することを諦めて、ただ今ここにこうしてあるものだけを見るということに徹することで、真実が見えてくるのですね。

シンプルさの極地

誰にとっても、その人の人生の中心にはその人自身がいると思われていて、その人生で起きるあらゆる事柄はその人にとってのものだと考えているのです。

すべての経験は、その人が経験しているのだと。その人が見て、聞いて、感じて、その人が考えてそれに従って行動を起こすのです。

その全てがその人の経験値として蓄積されていくのです。その膨大な経験の所有者として、人生を進めていくのです。

ここが人生の要のように思えてきます。ところが、非二元の立場からすれば、大きく膨れ上がったその人の経験は、実は誰かのものではなく、ただそれが起きただけだったと。

全てはただの現れとして起きているのだと。そこには、現れとは別の誰かなど存在したためしはないのです。そんな異物などありません。

中心と呼ばれる特殊な構造のようなものは存在しないのです。全てはただ起きているように見えるだけ。

因果のような関係も、互いを参照するようなどんな関係性もありません。これほどのシンプルさがあっていいのかと驚くほどです。

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