小学生でやってきた人生の転機

昨日に続いて、もう一つ小学生の頃のとても大きなエピソードを書いてみたいと思います。それは、エピソードというよりも、もっと大きな一大変革をしたのです。

小学3〜4年生の頃というのは、かなり考え方が真面目で、毎日夜寝る前に今日の自分の1日の反省会をするのです。

あれは本当にあれでよかったのか?もっとこうしなければいけなかったのではないか?そんな感じでダメ出しを続けるのです。

そうやって、1日の総括をして、明日はもっと良い自分になれるようにしようと思うのです。すごいですよね。

あの頃は、先生と友達の間に自分がいるような感じがして、どっちつかずの辛い立場にいたように思います。

結構布団に入ってからも反省する日々で、時には泣いたりも普通にありました。今思えば異常な感じさえします。

ところが、5〜6年生の頃の事です。今でも明確に覚えているのですが、なんだかこんな生き方がばかばしいなと思えるようになったのです。

そうして、もっと適当に生きればいいじゃない、というのがごく自然にやってきたのです。肩の力を抜いて、反省会などしなくなりました。

すると、それが今度は普通になるにつれて、すごく楽に生きられるようになったのです。それが今でも続いているのです。

昔ある超能力者の方に、小学校高学年の時に大きな変化がありましたねと、言い当てられたことがあり、その時はすぐには気づけなかったのです。

後になって、あのことを言っていたんだなと分かったのです。あの変化がなぜやってきてくれたのかは分からないのですが、あの変化が起きていなかったらかなり厳しい毎日になっていたはずです。

あれから、普通以上に力を抜く人生を生きられるようになったのですが、その後45歳の時にガンを患って、より自然な生き方ができるようになったのが、大きかったですね。

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所有しないことの爽快さ

この出来事は以前にも書いたことがあったと思うのですが、自分が生まれて初めて所有しないことの清々しさを体験したエピソードだったので、改めてまた書いてみたいと思います。

小学生の3〜4年生くらいの頃の事だったと思うのですが、昔の牛乳瓶には紙製の丸いフタがあったのです。

それを叩いて真っ平にして、みんなで持ち寄っておはじきのようなことをして遊ぶのです。勝った人が負けた人のフタをもらえる仕組みです。

上手な人はどんどん集めることができるし、下手な人はどこかで補充していかなければゲームに参戦できなくなります。

記憶では、とにかく大きな箱の中に数え切れないくらいのフタを集めて、日々対戦していたのを覚えています。

ところが、ある日のこと、急に大量のフタを全部手放したくなって、友達に一枚を残して全部譲ってしまったのです。

そのときの爽快感が、忘れられないのです。身軽になったような感じがして、とにかく気分が良かったのです。

それまでは、とにかく沢山集めて誰よりも多く手にしたいと思っていたのに。自分でもそれが意外過ぎて意味が分かりませんでした。

あれこそが、所有しないということの気持ち良さだったのですね。何も持っていないということは、何がどうあっても問題が起きないのです。

底の状態は心を安定させてくれるということです。集めることよりも、純粋にゲームを楽しむこともできるようになったのかもなと。

より多くを集めたいというのも欲望だし、絶対に減らしたくないというのも欲望であって、どちらも執着であり、それはこの瞬間を楽しむことから遠ざけてしまうことに気づいたのですね。

問題は外の世界にはない

私たちは、なんであれ物事が無難に済んでくれればいいと思う傾向があります。困ったことやトラブルは御免なのです。

けれども、少し冷静になって外界で起こる事象を見つめてみると、そこには問題という問題はないということに気づけます。

つまり、問題があるというその見方こそが、問題を作り出している張本人だったということです。そこに気付けるかどうか。

起きていることは至ってシンプルです。それに対して、尾びれ背びれをつけてすごく大きな問題にしつらえてしまうのです。

そうやって、厄介な複雑な難題を自ら作り出しては、それを何とか解決して安心しようとするのが自我のやり方なのです。

自分の内面が満たされるかどうか、幸せかどうかということは、実際に起きていることとは完全に無関係だと気づくことです。

こうでなければならない、もっと頑張らねばならない、より正しく生きなければならない、自分はあの人よりも劣っている。

こうしたダメ出しをやればやるほど、自我の深部は喜びます。なぜなら、解決しなければいけない難題が消えないからです。

このような仕組みに気づいて、もっともっとリラックスしてゆったりと過ごすことができれば、これといった困った問題など元々なかったと分かるはずですね。

久しぶりに非二元の本を読んでみた

最近めっきり本を読まなくなっていたのですが、あるクライアントさんに教えてもらった非二元の本を読んでみて、驚いたことがあったのです。

その本は、イギリスのあるネット番組の中で「非二元の教師?」のような人たちを対象に行ったインタビューの文字起こしをしたものでした。

その本では、10人以上の人たちへのインタビューが掲載されているのですが、それぞれの経歴や非二元に関連したことを思い思いに話すのです。

私が知っていた数人の人たちは概ね予想通りのことを話していたのですが、その他の人たちはそれぞれに違う内容となっていたのです。

言葉にするのが難しいので、簡潔に質問に答えるだけの人もいれば、非常に雄弁に自分がやっているワーク?の説明をする人もいたり。

なんとなく、私が想像していたような人物像とは違っていたのです。そして、肝心なところは「全く参考にならなかった」ということ。

何か得るものがあるのかなと思う方が間違いだと分かりました。もちろんそれは読み手によるとは思うのですが。

たった一つだけ、皆さんに共通することがあったのですが、それは誰もが数十年以上も探求をされてきた経緯があるということです。

当たり前と言えば当たり前なのですが、世に名前が出るような人たちというのはそれなりの修行をしてきているということですね。

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自分の意見を押し通すと、ろくな事がない

小学生だった頃の夏の暑い日の午後、友達と一緒に近所の道を歩いていると、道路工事のおじさんに話しかけられたのです。

「悪いけど、氷を買ってきてくれないか?」と。工事に使う大きな機械を冷やすための氷が必要なんだと。

そのころは、家庭用の冷蔵庫もブロックの氷を買ってきて、それを使って冷やす時代だったのです。つまり、電気冷蔵庫はまだなかった?

自分と友達は、近くの氷屋さんまで行ったのですが、そこでふと自分の心の中に急にある考えが浮かんできたのです。

あのおじさんたちは、きっとこの暑い中で仕事をしていて、冷たいかき氷が食べたいのだろうと。急に思い立ったのです。

そんなところに、ブロックの氷の塊を買って帰ったら申し訳ないと。それで、急きょかき氷屋さんにいくことにしたのです。

友達は、「えぇ〜!?」と言って反対していたと思うのですが、自分の一存で勝手にかき氷に変更して、それを持っておじさんたちのところに戻ったのです。

すると、おじさんたちの苦笑いが起きて…。ああ、やっぱり自分は間違っていたんだなということに気がついたのです。

機械を冷やしたかったのに、かき氷を買って来るだなんて。うっすらとした記憶では、それでもおじさんたちはちょっとしたお駄賃をくれたのでした。

この思い立ったら人の意見を聞かなくなってしまうやつ、大人になってもたまにやっているかもしれないなと、反省する日々なのです。

握り締めた手を放そう

子供の頃は、自宅のすぐ脇に石神井川が流れていて、台風などのシーズンになると、すぐに床下、床上浸水の被害が起きてました。

でも普段は、その川が子供の遊び場になっていたりして、とても馴染んでいたものです。だから、しょっちゅう川を眺めて生きていました。

川は適当にくねっていて、そのくねりの内側の部分は必ず土砂が積もっていて、降りて遊ぶ場所として使っていました。

また、ちょっとした窪んだところなどは流れてきたゴミが溜まって、悪臭を放っていました。だから、川の水はどんどん流れていかなければ健康的ではないと知っていたのです。

上流から流れてきた水は、絶え間なく下流へと流れ続けることで景観も損なわれないのです。

その反対に、堰き止められたりして澱んでくると、水は腐ってくるのです。これは、人生も全く同じなのです。

未来から流れてやってきたものをそのままに過去へと流すことができれば、人の心は健康的でいられるのです。

ところが、やってきたものを掴んで握ってしまうと、腐敗することになるのです。これが、執着ということです。

どんなものであれ、握ってしまった途端に腐敗することを忘れずに、潔く手を離すことができれば、人生はどんどん好転していくことになるでしょうね。

「何も変わっていない」のに変わるということ

私たちは人生の中で、何かが変われば楽になれると思っています。性格が変われば、環境が変われば、人間関係が変われば…。

そんなふうに、いつも「変化」を求めているのです。ところが不思議なことに、本当に深い気づきというものは、何かが変化したという感覚とは少し違っています。

むしろ、「あれ?何も変わっていない。」そんな印象を受けることがあります。景色は昨日と同じ。聞こえてくる音も同じ。身体も同じ。

けれど、そのすべてを見ている在り方だけが、静かに変わっているのです。今までは「私が人生を生きている」と思っていたものが、いつの間にか「人生がただ起きている」という見え方へと移っていきます。

何か特別な体験が続くわけではありません。むしろ、とても普通です。風が吹けば風を感じ、鳥が鳴けば鳥の声が聞こえ、お腹が空けば食事をする。

それだけです。しかし、その「それだけ」の中から、余計な重さが少しずつ抜けていくのです。

何かを手に入れたからではありません。何かを失ったからでもありません。ただ、「私が握りしめていたもの」が自然と緩んでいくのです。

だから、気づきとは何か新しいものを加えることではなく、本来そこにあった静けさを思い出すことなのかもしれません。

その静けさは、特別な人だけのものではありません。今、この文章を読んでいる、その気づいていること自体が、すでに静けさの現れなのですね。 by claris

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欲しない、求めないが最強

昔のことですが、母親が良く言っていた言葉で、「そんなに沢山はいらないから、もう少しお金があったらなあ。」というのがありました。

その頃10代の若者だった私は、随分と欲の少ない人だなあと思ったのを覚えています。普通は、お金はこれ以上はいらない、なんてことはないはずだと。

いくらでも手に入るならもっとあってもいいと思うのではないかと。私はいまだに、10億円あっても100億円あってもいいなと。

もちろんそんな欲張ったところで、決して手に入らない額のことです。ただ、言ってみるのは自由だというだけ。

父親の給料日になると、母親は夕食後に一人で翌月のお金の分配をやるのです。その間は、あまり話しかけてはならない。

普通のサラリーマンの家庭ですから、少額のお金をやりくりするのが大変だったのだろうなと。それでも、そうした一家の采配をするのが嫌いじゃなかったのかなと。

欲の少ない人の方が、貪欲な人よりも幸せなんだろうなというのは、確かなことですね。今ならその理由もはっきりと分かります。

人間の苦しみというのは、求める気持ちが強ければそれだけ大きくなってしまうからです。分かっていても、欲しない、求めないという生き方は難しいものですね。

静寂はなくならない

非二元に気付いたからといって、日々の人生物語がなくなってしまうというわけではありません。

その物語に対して、強く肩入れするということが減ってしまうということはあるかもしれませんが。

でもその程度のことしか変化はありません。特に、あまり起きて欲しくないようなトラブルを歓迎する気にはなかなかなれるものではないですね。

普段なんでもなく使えていたネットが突然切れてしまうとか、ホームページへのアクセスができなくなるとか。

あるいは、身体の調子がどこか悪くなって、いつものように過ごすことができなくなったりといったこと。

こうした都合の悪い出来事は、いつも通り自分の気分を悪化させることになるのですが、それでもその現れに気付いているようにしてみるのです。

そうすると、二重映しのように嫌な気分とは別の何も動じていない部分があることにも気づくことができます。

どんな出来事がやって来たとしても、深いところにある静寂には気付いていられるようにしたいものですね。

幻想を幻想と見抜くとどうなる?

長く生きていると、長年の夢が叶って自分は今本当に満足している、そう感じたことが何度かあったような気がします。

ところが、そのような外的要因によって満足するのは、ほんのひとときのことであり、またすぐに元の足りないという心の状態がやってくるのです。

私たちが、一瞬でも満足できたと感じるのは、実は欲しいものが手に入ったからではないということに気づいていますか?

実は、欲しいものが手に入ると、個人という幻想によって生み出された欠乏感が一時的に隠されるのです。

その結果、本来の私たちが持っている属性としての満たされた感が表出しただけなのです。この感覚は元々あったものなのです。

つまり、個人であるという幻想から抜けることさえできれば、でっちあげられた欠乏感は消えていくのです。

その結果、なんの理由もない深い満足感に単に戻ることができるということです。これは手に入れるものではありません。

ただ余計な幻想を幻想だと見抜くことができた時に、自然と非二元の親密さがやってきてくれるということですね。

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