何も構わずにそのままにしておく

大切なことって、多くのことが逆説的になってしまうんだなということについて、書いてみたいと思います。

どういうことかというと、例えば「今ここ」にいるように努力しようとすればするほど、その努力が邪魔をして、「今ここ」から離れてしまうということ。

痒いところを掻かないように我慢すればするほど、掻きたいという衝動が強くなってしまうということ。

自分のことを否定してしまう習慣が良くないと思えば思うほど、それが自分を否定することになってしまうとか。

リアルな生との同期が外れているので、何とかして同期しようとすればするほど、その努力が同期から外れてしまうことになる。

明日朝早く起きなければならないので、少しでも早く寝なければと頑張れば頑張るほど、寝ることから遠ざかる経験は誰もがしたことがあるはず。

こうした逆説的なことって、本当に数限りなく思い付きます。今この瞬間何がどうであれ、それに構うことなしにいられたらいいのかもしれないですね。

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直接の体験に留まろうと心がける

アラン・ワッツという人の言葉で次のようなものがあるそうです。

「問うべきは、それを手にするためにこれから何をすべきかということではない。自分が今何をしているせいで今この瞬間にそれが認識できなくなっているのか、それを問うべきだ。」

この文を読んで、ハッとしましたね。これ完全に自分のことを言われてるじゃないかって。一番痛いところを突かれたような。

そうなんですよね。日頃、コレしかないということを言っていて、そのことについてもっと明確な体感を得たいと。

そのためには、これから先自分は何をすべきか?といつも思っていたところに、上記の言葉が刺さるわけです。

そうじゃないでしょと。何かをもっと手に入れなければ、それに気づけないというのが間違った発想だったと。

それこそが邪魔をしているだけで、その邪魔者を外すだけでいつも変わらぬコレに体感として気づくことになるのだと。

ここに留まろうとすることに関していえば、まったくできてないなということです。必要なのは、たったそれだけなんですけどね。

全ては何も起きてもいない

大人になってからずっと言い続けていることとして、「時間が経つのが早過ぎて…」というのがありますね。

そしてそれが歳を取るにつれて、加速度的に速くなってきている感じがしています。それこそ、半年、一年があっという間。

もっと身近な足元を見れば、今日一日が瞬時に通り過ぎていく。そして、特に何の変わり映えもしない毎日。

やっぱり、どこかへと到達したいと願っているような気がしますね。そんなことは、決してないともうはっきりと気づいているはずなのに。

こうしたことをつらつら考えていて、ふと気がつくと今この瞬間しかないのになということです。それをすぐに忘れてしまう。

自分という個人の存在やその自分の人生を生きているということが、どうしても幻想とは思えないのも、もどかしい限り。

生きていると感じている間に真実に気づいて、無意味な人生ではなかったということを証明したいのだろうなと。

そんなことも全ては消えていくんですけどね。 

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気づいてはみたものの…

非二元の探求を通して、さまざまな思いもよらないびっくりするような真実に気づくようになったのは事実です。

自分が一番大切にしてきた自分と、自分の人生が、その根本からして完全なる幻想だったというのは、まさに驚き以上のものでした。

ところが、これまでの長い人生の中で培ってきた生き方や考える元となっている信念、そうしたものがすぐに崩れ去っていくことはないのです。

これこそ本当に驚くべきことなのですが、「それはそれ」として毎日が過ぎて行くのです。何事もなかったかのように。

自分の人生はこれからも続いていくに決まっているし、何も変わる必要なんかないよというのが絶大な力を持っているのです。

それが丸々空想の中だと言われようが、どれだけ偽物だと理解しようが、そんなことにはお構いなしに、人生は続くんだと。

呆れてしまうくらい、根強いのです。リアルな生は、自分という個人的なもののためにあるのではないんだと。

それはどんな目的も理由も意味もなく、ただあるということを繰り返し刻み込んだとしても、なかなか浸透しないものですね。

この痛みも不快感も、気分も気持ちも何もかもが自分のものではないということが、はっきりしているのにそれを見ようとしない。

という、きょうはちょっとした泣き言でした。

無抵抗のまま溶けていく

究極的な話をしてしまうと、私たちの苦しみの原因とは「求めること」であるということなのですね。

個別の存在としての自分が、独自の目的を掲げて人生を生きているのですから、そこで必要とするものを求めるのは当然のこと。

誰もが欲しいもの、必要とするものを求めつつ生きているのです。そんな当たり前のことが、実は苦しみの原因だと。

そんなことを言われたとしても、おいそれとああそうですかとは言えないですよね。欲しいものを欲するのは悪いことではないと思っていますから。

でもここでよくよく考えてみると、欲しいものが手に入ったとしても、私たちは一瞬の喜びを得られるだけ。

それはすぐに次に欲しいものへと移っていくのです。つまり、欲しがること、求めることは際限がないのです。

それなら、本当に求めているモノとは一体何なのか?それはきっと、変わらぬ安らぎや平安、そして自由の感覚なのではないかと。

それは実は固有の人生を生きているという幻想に気づいて、リアルな生の中に無抵抗のまま溶けていくことなんだろうなと。

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リアルな生と同期が取れてない

スピリチャルなどの言葉で、今にいるとか今に生きるといったことが盛んに言われていますが、そのことを本当に理解し実践することは難しいのです。

というのも、リアルな生というのは一瞬一瞬に変化をしており、私たちは本当にはそれをそのままに気づきとして受け取ってはいるのですが。

その時点では確かに今にいることになるのですが、実際にはここからすぐに逸脱してしまってしまうのです。

その理由は、私たちが生で起こるあらゆることがらを認識するのは、そうした直接の体験の後だからです。

直接の体験と認識とは必ずズレが生じてしまうのです。これがリアルな生と同期が取れていないということ。

認識した時には、もうすでに次の生が起きてしまっているからです。ということは、今起きている生に対して、どんな抵抗もできないということ。

それはすでに起きて終わっていることだからです。逆にいえば、生と同期が取れている状態では、どんな認識もありません。

つまり、無抵抗になるということです。この無抵抗の本性に気づくことがきっと本当の安らぎや自由に気づくことになるのでしょうね。

言葉を変えれば、それこそが生を生きている幻想の「私」から、生そのものだったということに気づくことになるのでしょうね。

「私」は概念

非二元の探求?を続けている間に、何がリアルで何がイメージなのかを見極める練習をいつもするようになったのですね。

リアルでないものとは、記憶、イメージ、幻想、妄想、概念、観念、信念、作り物、でっち上げ、いくらでも言葉が出てきます。

つまり、このくらい私たちの毎日というのはリアルではないものに囲まれているということ。それなしでは生きられない。

誰にとっても一番大切なもの、それは「私」ですね。これもイメージなんです。生物、動物、人間というのもみんなイメージ、概念なのです。

もちろん個人というのも概念。人生というのも概念なのです。仮想的に作られて、みんなで共有しているだけで本物のように感じてしまうのです。

リアルなもの、概念ではないのは、直接の体験だけ。直接の体験に留めておくことができれば、リアルのなんたるかに気づくのです。

あのバラの花は綺麗だなあ、と口をついて出る前の感覚。その後の思考の答えを受け取らないようにする。これだけがリアル。

そしてそこに常にあるのは、「ただある」ということ。言葉を変えればただ「気づいている」ということになります。

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生は何処にも向かってはいない

若い頃というのは、自分の人生はどうなっていくんだろう?という不安のようなものをいつも抱えていたように覚えています。

日々教育されてきたことと言えば、いつも必ず前進するという文化があるように感じていたように思います。

生物の歴史を見れば、絶えず進化の道を進んできた結果、現在の人類まで到達したわけです。後退した歴史というのは記憶がありません。

人類の歴史を見ても、それが文化的なことであれ科学的なことであれ、産業革命にしてもAI革命にしても常に進化の道を辿ってきたのだと。

つまり、いつも昨日よりも今日、今日よりも明日という具合に、必ずどこかヘ向かって進んできたという印象です。

だからこそ、自分自身の人生にしてもただ漫然と毎日を暮らすというよりは、どこかへ向かってより良い人生を目指して生きること。

こうしたことは、ごく自然と作り出された生き方のように思うのです。ところが、それが唯一の生とは異なるものだったのです。

リアルな生は、どこにも向かっていないし、それこそ自動運転によってただ瞬間瞬間の変化を起こしているだけ。

そこには、どんな意味も価値も目的も何もありません。自分の人生があると信じたお陰で、そこに意味や価値を見出そうとして、目的に向かって進むということ以外考えらなくなってしまったのですね。

このずれを解消しない限り、本当の意味での安らぎや平安、そして自由を感じることができないのでしょうね。

生き方を変える難しさとは?

自分の生き方を変えようと思ったところで、私たちはそう簡単には変えることができないのです。それはなぜなのか?

簡単に言ってしまえば、生き方を規定しているのは過去に作った信念だからです。信念というのは、ある種命懸けで作ったものです。

たとえば、お父さんに対して口答えをすると物凄く痛い目に遭うことになると。だから、自分を守るためには絶対的に黙っていなければならないと。

このように、自分を守るために作ったルールがある場合には、自分の命がかかっていると感じるので、簡単にはそのルールを取り除くことはできないのです。

そして、成長してさまざまな人との繋がりの中で、お父さんとタイプの似た人に対しては、あの時作ったルールを充当することになるのです。

本当は、お父さんではないのでそんなルールは無用なのですが、そのルールを作った時の幼い自分が大人を乗っ取るわけです。

そのエネルギーは、幼い頃に溜め込んだ恐怖や怒りのエネルギーなのですね。現在の大人の自分にとっては過剰防衛になってしまうことも気づかずに。

そうやって、幼い頃の生き方を変えることなく大人になってもずっと続けていくわけです。それは、苦しみになりますね。

こうしたことを、大人の自分が客観的に気づく必要がどうしてもあるのです。その意味でも、大人の自分を成長させることがとても必要になってくるのですね。

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生は自分についての事ではなかった

本当にリアルなのは、いつも言っているように常に今ここにあるコレであり、コレしかないしこれを生と呼んでもいいのかなと。

この生は、誰もいないのに一人でに常に現れが起きて、見かけ上次々と変化していくものなのですね。

ところが、私たちは幻想を何重にも重ねた結果、自分は自分の人生を生きていると、自分の人生の主人公として生きていると思い込んでしまったのです。

だからこそ、個人としての自分は独自の考え、独自の人生の目標、独自の欲求を持って主役としての劇を演じ切ろうと頑張るわけです。

これがどれほど馬鹿げたことか。リアルな生のことを一切顧みることなしに、幻想の自分の生をせっせと生きるのです。

そうなったら、リアルな生との整合性が取れないのは当然であって、それが私たちの苦しみを生み出すことになるのですね。

リアルな生は、自分についてのことではないし、一度も自分のことであった試しなどないのですが、そこに気づくことがないのです。

こうしたことに気づいたなら、一刻も早く間違った主役の座から降りて、肩の荷を下ろして楽になることです。

この生は全自動であって、自分という幻想などには一切構うことはありません。意味もないし、価値もないし、目的も全くないのです。

架空の人生を手放して、この中に溶けていくことができれば、本当の安らぎ、平安、そして真の自由を感じることができるようになるのではないかと思うのですね。