非二元の探求プロセスの検証

非二元の探究プロセスの中で、体験だけがあるということにはっきり気づけたとするなら、次は体験を以下の二つの種類に分類できるかどうかを見ることになります。

一つは、思考による擬似(物語)体験であり、もう一つは直接(リアル)体験。両者の違いが明確になっているかをチェックする必要があります。

直接体験に「含まれる」ものをあげることができるかどうかを検証してみてください。実際には以下のようになるはずです。

色、形、音などの五感。身体感覚、痛み、痒みなど。そして、一般的には内面と言われる思考、感情、気分などです。

一方、直接体験には「含まれない」もの、つまり思考による擬似体験に含まれるものが明確になっているかどうかも検証してみてください。

概ね次のようなものになります。時間と空間、分離や構造、主体と客体。これらを用いて、この世界の中で物語が起きつつあるように見えるのです。

そして、我々の全ての苦しみはこの物語の中でのみ起きているように見えるわけです。これを見抜くことができれば、苦しみからは解放されることになるはずですね。

体験のない気づきはあり得る?

情報というのは、何かの属性を知るためのデータだということができますが、この世界にはこの情報だけがあるのです。

もう少し正確に言えば、情報だけがあるということ。世界だとか、物質だとか、空間といった対象はないということ。

これが情報だけがあるということの本当の意味です。そして、この情報というのは何かを間接的に知るためのものです。

つまり分離した世界があるという前提でのみ役立つものです。なぜなら、分離がなければ情報の意味がなくなってしまうからです。

分離のない非二元では、情報は意味がなくなり、その代わりに体験、経験だけがあるということになります。

それをもっと端的に表現するなら、気づきがあるということになるわけです。気づきのない体験や経験は不可能です。

けれども、体験、経験のない気づきというのはあるのかもしれませんね。それこそが私たちの本質なのかもしれません。 

具合の悪さは休みたいというサイン

一般的によくある情報として、女の子よりも男の子の方が身体が弱いので育てるのが大変という話がありますね。

ご多聞に漏れず私は子供の頃は年中風邪をひいているような子供でした。そして一度風邪を引くと、1ヶ月くらいは続くのです。

そうしたことは、大人になっても変わらずで社会人になってからは結構苦労したものです。なぜなら、そう簡単に仕事を休むことができなかったからです。

微熱があって身体が何ともダル重い感じのままで、ずっと仕事をし続けていたこともありました。

ところが今の仕事になってからは、あまり風邪を引かなくなったのです。特別何かが変わったということでもないはずなのに。

記憶では、コロナが流行り出す直前で一度風邪を引いたのですが、そのあとはコロナもインフルエンザも普通の風邪も一切罹ってないのです。

気持ちの変化というのは確かにあったように自覚しています。それは、少し変だなと感じた時に、「絶対に風邪を引かない」という宣言のようなものをするようになったこと。

誰に言われたわけでもないのに、風邪を引くことが最大の損をするように思えてきたおかげかもしれません。

病は気からと言われますが、何か辛いことがあって休みたいと願っていると、休むための口実として病気になるということがあるようですね。

これは、いくら理性で病気になりたくないと思っているとしても、心の奥の正直な自分が休みたいと思うと病気を起こす可能性が高くなるということです。

具合が悪くなったら何か自分に無理を強いてないかどうか、じっくりとチェックしてあげることが大切だと思いますね。

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真実に気づいても人生は続いていく

今日12月11日は、9年前に亡くなった父親の誕生日であり、同時に敬愛する osho の誕生日でもあるのです。

子供の頃は、自分の誕生日は何か特別な日という感じがあったのですが、この年齢になるともう本当にどうでもいい感じがします。

我々が気にしている誕生日というのは、母体から物理的に離れた日であって、この自分という自我の誕生の日ではありません。

自分の自我がこの日に生まれたと明確に分かってる人は滅多にはいないでしょうから、それを誕生日にするわけにはいかないのですね。

自我が生まれるというのを別の言葉で表現するなら、自我(自分)に目覚めるということになるでしょうね。

だとすると、私たちはもう一度目覚めるチャンスがやってくるとも言えるのです。それは、自分の本質に目覚めるということ。

これもある日突然ということにはならないのかなと最近思っています。そして、多くの人が想像しているような画期的な出来事ではないのかもしれません。

それは単に真実に気づくということであって、誰もがどこかで無意識に感じたりしているものなのかなと思うのですね。

それがもっと明確になるというだけのこと。自分という自我も作り物だし、この肉体、この世界すら実在しないということ。

そのことに気づいたとて、日常の人生物語は見かけの上ではずっと続いていくのですからね。

非二元に気づいていくプロセス

私が非二元の探究を始めるきっかけとなった最初の気づきは、「実体はない」というものでした。もしかしたら、これはレアなケースかもしれません。

非二元に気づいていくための万人に共通するプロセスというものがあれば、それを用いて多くの人たちが気づいていけるはず。

けれども、人それぞれ異なる考え方で生きているので、そんな都合のいい手段などあり得ないと思っていたのです。

とは言っても、何かそれなりの方法はないのかなとちょっと思うようになったのです。それで、ラフな手順、プロセスを作ってみました。

一つずつ、しっかり腑に落ちるように進めていけば、自然と非二元が身につくのではないかと考えています。

⒈ 毎日の生活は、体験の連続でできている。

⒉ 自分の体験以外のことは、情報として知る以外はない。これを一旦脇へ置く。

⒊ 体験には二種類ある。一つは、思考による擬似(物語)体験、もう一つは直接(リアル)体験。

⒋ 直接体験には、体験主体も体験対象も入ってこない → 実体はない

⒌ 実体はない→全ては起きているように見えるだけの単なる現れでしかない。体験=現れ。

⒍ 実体はない→体験は誰のものでもない。

こんな感じの順番で地道に気づいていけるのではないかと考えています。これをもっと詳細に検証していければいいのかなと思っています。

ウェルカム宣言したらしたで

起きてくる事柄に対して、分け隔てなく一様にウェルカムの態度でやり過ごすという実践をしているというお話を一昨日のブログに書きました。

その時にも、運転中にまつわる様々な出来事が矢継ぎ早にやってきて、へえ〜と思ってどうぞどうぞとやっていたのです。

そうしたら、今日はまた別の理不尽な出来事がやってきて、おや〜となったのでここでちょっとシェアさせていただきます。

いつものように車を駐車場に入れようとしたところ、見覚えのない大きめのクルマが私の所定の場所にしっかりと停めてあったのです。

過去にも何度か知らない人に停められていたことがあったのですが、久しぶりにそれがまたやってきました。

これ、個人的に本当に苦手なことで、一体どういうつもりで他人の駐車場にクルマを停めて平然としていられるのか?

すぐにウェルカムなんかできな〜いとなったのですが、それでも普段よりもかなり静かな物言いで済ますことができました。

ここで気づいたことが一つあるのですが、それは言いたい文句を思いっきり言えないでいると、何か損をしたような気持ちになるのです。

そうなのね、文句が言いたいという人格がいるのねと、文句を言って相手をギャフンと言わせたいらしいのです。

そんなことでウェルカムを邪魔されるのであれば、そっちの方が大損だとしっかり気づけばいいということですね。

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フェイク動画に騙される

ある動画を観ていたら、それは自分の目を引くようなもの凄く魅力的な2シーターの新型車の情報をいち早く伝えてくれてるものでした。

これはと思って超期待に胸膨らませていると、それはホンダのかつての名車であるS800を最新技術で生まれ変わらせたものだったのです。

どこから見ても理想的なもので、うっすらとした噂レベルのものは聞いていたのですが、まさかこんな姿で甦ってくるなんて。

そのフォルムの素晴らしさ、軽量スポーツ車の典型のようなコンセプトで作られたことが一目でわかるのです。

とうとう今の自分にとって最もマッチしたクルマが手に入るかもしれないと。価格もかなりリーズナブルで、これは買いだなと。

そう思って、AI君にその情報の真偽を聞いてみたところ、ああやっぱり。誰かが AI を使ってデザインしたものだったのです。

この手のフェイク情報には、騙されないように気をつけようと思っていたのですが、やっぱりそそられるものにはつい気持ちが前のめりになった分だけ、騙されてしまうようです。

生成AIのクォリティが脅威的に上がってきているので、本物と間違えないように気をつけたいものですね。

心がけている二つのこと

非二元の探究から端を発した最近の自分の流行りなのですが、次のような主に二つの事柄に注意して過ごすようにしています。

その一つは、日々起きているように見えることは、そのどれもが自分に対して起きているわけではないと気づいていること。

そして二つ目は、何が起きているように見えたとしても、それらに対して分け隔てなくウェルカムな態度で受け止めること。

そうすると、すかさずの今朝の出来事。事務所までの片道たった20分程度のクルマの運転中にやってくるさまざまな事象の数々。

それは、想像が難しいありえないような危険な自転車と歩行者のオンパレード、週末だからかな?それと季節外れの道路工事の荒れよう。

事務所近くの駐車場にクルマを留めようとしたら、大型の引越しトラックに妨害されて、にっちもさっちも行かない。

最後のトドメは、昼食後に歯磨きしていたところ、数年前に治療した奥歯の詰め物が取れてしまい、あ〜あという反応が起きたこと。

夕方すかさず歯医者さんに行って、苦手な治療の際も、その全てをウェルカムし続けたら、身体の緊張は確かに緩んでお得感あり。

こうした起きているように見える出来事と、内面で起きているように感じる自分の反応のどちらに対しても、同じだけの歓迎をもって受け止める。

そんな自分をイメージするだけで、ちょっとした笑いが込み上げてきますね。

体調がいいのは嬉しい

子供の頃というのは、何をやるにしてもすごくその中にどっぷり入り込むことができるので、自分の体調の良し悪しなどには、あまり頓着せずにいられるのですね。

その辺は基本的には大人になっても変わらないようで、何かに熱中している時には、多少の具合の悪さなどは忘れていられるものです。

かつて、大人がハマるレースゲームに夢中になっていて、あまりにやり過ぎてしまい帯状疱疹を発病してしまったことがありました。

ゲームの中に、24時間耐久レースのようなものがあって、昼夜を問わず夢中でやり過ぎてきっと疲れ果ててしまったのでしょうね。

ところが最近では、全く熱中するものがなくて、とにかく用事のない毎日を送っているので、ほんの少しの体調の変化があっても、すごく気になってしまうのです。

一ヶ月半ほど前にちょっとした入院手術をしたこともあって、常に体調が万全ではなかったのですね。

それがここにきて、ようやく身体の気になるところがなくなって、気持ちよく過ごしていられるようになりました。

この体調の良し悪しというのも、単なる現れの一つでしかないということに気づいたことも、良い影響を与えてくれているのかもしれないですね。

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自我の輪郭が薄くなっていく

体験だけがある、経験だけがあるというのを別の言葉で表現すれば、現れだけがただあるということになります。

この「現れ」というのは、実体というものを伴わない単なる見かけだけということ。それが起きているように見えるだけ。

そこには一切の個別性がなく、あくまでもフラットなものなのです。全ての現れには境界もどんな特別なものもありません。

二元の言葉を使うと、たとえば空に浮かんでいる雲と、自分の内面にあると思える思考や感情、あるいは気分とがまったく同等な現れなのです。

外側も内側もないのですから、個人としての自分などが入り込む余地は全くなくても当然かもしれませんね。

こうした気づきは、自我の輪郭を薄くしてくれるものとしては画期的かもしれません。心の中にどんな反応が起きたとしても、雲やテーブルと同じなんだと。

非二元に気づくまでは、ただ自分の内面に意識を向けておくというワークをすることで、思考よりも意識的であることを心がけていたのです。

けれども、その内面と思っていたものが、ただの現れの一つであり、その他のすべての現れとひと繋がりであることになったわけです。

これをなるべく忘れないようにしていられると、観照者としての視点で居続けられるようになるかもしれませんね。