生き方を変える難しさとは?

自分の生き方を変えようと思ったところで、私たちはそう簡単には変えることができないのです。それはなぜなのか?

簡単に言ってしまえば、生き方を規定しているのは過去に作った信念だからです。信念というのは、ある種命懸けで作ったものです。

たとえば、お父さんに対して口答えをすると物凄く痛い目に遭うことになると。だから、自分を守るためには絶対的に黙っていなければならないと。

このように、自分を守るために作ったルールがある場合には、自分の命がかかっていると感じるので、簡単にはそのルールを取り除くことはできないのです。

そして、成長してさまざまな人との繋がりの中で、お父さんとタイプの似た人に対しては、あの時作ったルールを充当することになるのです。

本当は、お父さんではないのでそんなルールは無用なのですが、そのルールを作った時の幼い自分が大人を乗っ取るわけです。

そのエネルギーは、幼い頃に溜め込んだ恐怖や怒りのエネルギーなのですね。現在の大人の自分にとっては過剰防衛になってしまうことも気づかずに。

そうやって、幼い頃の生き方を変えることなく大人になってもずっと続けていくわけです。それは、苦しみになりますね。

こうしたことを、大人の自分が客観的に気づく必要がどうしてもあるのです。その意味でも、大人の自分を成長させることがとても必要になってくるのですね。

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生は自分についての事ではなかった

本当にリアルなのは、いつも言っているように常に今ここにあるコレであり、コレしかないしこれを生と呼んでもいいのかなと。

この生は、誰もいないのに一人でに常に現れが起きて、見かけ上次々と変化していくものなのですね。

ところが、私たちは幻想を何重にも重ねた結果、自分は自分の人生を生きていると、自分の人生の主人公として生きていると思い込んでしまったのです。

だからこそ、個人としての自分は独自の考え、独自の人生の目標、独自の欲求を持って主役としての劇を演じ切ろうと頑張るわけです。

これがどれほど馬鹿げたことか。リアルな生のことを一切顧みることなしに、幻想の自分の生をせっせと生きるのです。

そうなったら、リアルな生との整合性が取れないのは当然であって、それが私たちの苦しみを生み出すことになるのですね。

リアルな生は、自分についてのことではないし、一度も自分のことであった試しなどないのですが、そこに気づくことがないのです。

こうしたことに気づいたなら、一刻も早く間違った主役の座から降りて、肩の荷を下ろして楽になることです。

この生は全自動であって、自分という幻想などには一切構うことはありません。意味もないし、価値もないし、目的も全くないのです。

架空の人生を手放して、この中に溶けていくことができれば、本当の安らぎ、平安、そして真の自由を感じることができるようになるのではないかと思うのですね。

やっぱり覚醒はない

この夢のような現実から目覚めることを「覚醒する」とか「悟る」とかいうわけですが、非二元ではそれはできないという話です。

以前からお伝えしている通り、非二元というのはこの世界という実体がないし誰もいないという点では夢と同じなんだと。

ただ我々が知っている夢と非二元の大きな違いは、夢は誰かがその夢を見ているということと、その誰かが夢から目覚めることができるという点です。

非二元ではただ夢のような現れがあるだけで、それ以外は何もありません。ということはつまりはその夢から目覚めるということがないのです。

結果として、夢から目覚めた覚醒者とか悟った人というのは、実はこの夢のような表れの中でのことだということです。

表れの中で、ただ覚醒した人、悟った人が現れているように見えるということに過ぎないということですね。

非二元という真実においては、生まれた人も死んだ人も誰もいないということ。この夢から覚めるということは未知なのですね。

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口数が減ってくる

我々のこの二元の世界というのは、言葉による意味の伝達によって成り立っているということを言ってきました。

誰だって意味がないことには興味がないわけです。だからどんなことにも意味を見出そうとしているのです。

ところが、意味というのはリアルではない、つまりは全くもっての作り物、イメージでしかないということ。

だから、非二元ではどんな意味もないのです。そうなると、日々の生活の中で非二元の方に近づこうとすれば、自然と言葉が出にくくなるのです。

つまりは口数が徐々に少なくなってしまうということです。誰と一緒にいても、言葉の洪水のようなところにはいたくなるなるのです。

そしてたとえ一人で過ごしているとしても、頭の中で発生するあらゆる言葉から距離を置こうとするようになるのです。

覚者の元に集まる「サットサン」というものが昔からあるのですが、その一つの形としてただただ静かに坐るというのがあるのです。

それは真実から離れてしまう言葉を除外して、真実の臨在の中で思考を超えて気づきを起こるように促す場として機能するわけです。

この世界では言葉はとても大切であって、なくてはならないものですが、非二元では言葉は単なる幻想を運ぶものだと。

そういった気づきが自然とやってくるようになるのですね。

非二元は全自動?

昔から自分はイメージ能力がないなあと思っていたのです。というのも、何かの形や誰かの顔などを思い浮かべようとしても、明確には出て来ないのです。

これは生まれながらの特徴なんだろうけど、つまらないなあと感じていたのですが、最近ちょっと面白い体験をしたのです。

それはいつになく、目を閉じた中ではっきりとした画像がずっとあり続けていたのです。正確には、自動車のゲームのような感じ。

一台のクルマを少し後ろの上方から俯瞰している感じで、ある一本道を走っているという、いわば動画のようなものだったのです。

それが、ずっと続いていくのです。自分がクルマを運転しているわけではないので、自動運転の状態なのだろうなと。

そしてとても面白かったのは、ずっと続く山道が適当に作り続けられていて、その道を綺麗にそのクルマがトレースしているのです。

一体誰がその山道を作り続けているのかなと。ここで非二元のことを思い出して、ああこれと同じ感じなのかなと。

見かけの上だけなんだけれど、一瞬の休みもなく何かが作られ続けている。非二元の世界も全自動なのかなと。

いや待てよ、見かけだけなので何も変化はしていないとしたら、全自動でもなくなるな、なんてことを考えたり。

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非二元とは非無常だった

仏教の大切な言葉に、「諸行無常」という言葉がありますが、今回はここに鋭いメスを入れたいと思います。

非二元に気づくためには、リアルなものとアンリアル(イメージ)とを見分ける練習をしましょうということを言ってきました。

そして気づくと、実は私たちが認識しているこの世界はすべてがイメージでできているということに気づいたのです。

見分けるどころか、あらゆる事柄がすべてイメージ、幻想から作られていたということです。これは実を言ってショックでした。

リアルなものというのは、単にコレだけなので理解ができないのです。全く訳がわからないものなので、相手にできないのです。

「体験だけがリアル」と言っても、そのほとんどは認識や分析や比較などの幻想になってしまっているのです。

表現を変えて言えば、私たちが認識しているすべてに意味が含まれているのです。ところが、意味というのはリアルではない。

つまり、私たちが暮らしているこの世界とは、意味というイメージによって組み立てられたものだということです。

その世界のことを諸行無常と言っているのは、意味が無常性を作り出していたということですね。これはびっくりです。

ということで、逆に言えばリアルだけを相手にしている非二元というのは非無常だということになりそうですね。

「意味」なんてどこにもない

最近よく言うようになったのですが、この世界というのは伝達ゲームなんだと。情報を共有することが大切だとされているのです。

その伝達にツールとして使われるのが言葉なんですね。一般的に、言葉によって私たちは自分の意思を伝えるのだと思っています。

確かにそうなのですが、もっと深いところのことを言うと、言葉というのは「意味」を伝達するものなのです。

言葉には意味を伝える能力があるということです。その意味を送受信することで意味を共有しているわけです。

ところが、非二元ではその意味というものがまったくないのです。どこにも意味を見出すことができないのです。

なぜなら、意味というのは作り物だからです。意味はリアルではないということ。私たち人間だけが扱う仮想的なもの。

そうした仮想的なものほど、私たちは大切にしているのです。意味とか価値というのは、その筆頭かもしれません。

だからこそ、意味を見つけられない非二元なんて、まったくもって想像もできないということになるのでしょうね。

意味がないからこそ、常に不変のコレがあるということです。変化しているように見えるだけで、起きているように見えることにはまったく意味がないということ。

これは時間が幻想であることにも繋がることですね。

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マイクの使い方って難しい

必要最小限度の機材だけでYouTubeの動画配信を始めたのが、一昨年の暮れのことでした。その時に、どうしても必要ということで購入したのが外付けのマイクだけ。

何を買えばいいのか皆目分からなかったので、お隣のヨドバシカメラで安価に買えるものを選んだのです。

それ以外は、カメラはもちろん iphone を使い、編集ソフトも iphone 上で使えるアプリを使うというお手軽さ。

初期投資をサボったので、録音した音の音量が足りない感じがしたのですね。それでしばらくして、もう少し高価なマイクを購入したのです。

その2代目のマイクをずっと使い続けてきたのですが、音量を下げたくないという思いから口からの距離をできる限り近づけるようにしていたのです。

そのせいで、私の喋り方によって「ボフ」っていう風音が入ってしまうことがよくあったのですね。

気にはなっていたものの、まあ仕方ないかと思って放置しておいたのですが、先日そのことをコメントで指摘されたのです。

それでようやく重い腰を上げて、風防つきのワイアレスマイクを新たに購入したのですが、これが音量は足りないし、音質もあまりよくない。

もともと私の発する声がくぐもっているような感じなので、それが顕著になってしまったのです。

困ったなあと思っていたら、2代目のマイクに付属の風防があったことに気づいて、早速試してみたら、それが良い!

なんだ最初からこれを使えば全く問題なかったのにと。己のアホさ加減に笑うしかありません。

おまけに、いつも使っている安価な編集用ソフト上で、音量の調節ができることにも気づき、問題が解決したのでした。

とはいえ、編集ソフトくらいはちゃんとしたものを使える環境を整えたほうがいいのかなと。そういうケチケチ根性では、いつまで経っても超マイナーなチャンネルのままかもなと。

ただ内容が非二元の話ばかりに終始してしまっているので、機材にお金をかけたところでどうにもならないというのもありますかね。

快も不快もそのままにしておく

身体の痒みが増してきて、なんとかならないかなあという思いが強くなってきたのですが、これこそが生への抵抗なんだろうなと。

痒いところに勝手に手がいって思わず掻いてしまうというのは、動物が持っている本能的な反応に過ぎないと思うのです。

それは問題ないのですが、人間だけが持っている自我による抵抗、痒みと戦ってそれを亡き者にしようとする防衛が問題なのです。

この痒みは個人的なもので、自分だけが個人攻撃されているという思い、被害者の意識が苦悩を生み出しているのではないかと。

非二元の方に意識を向ければ、あるのはこの直接の経験という単純さであって、コレしかないという気づきがやってくるのです。

個人という存在などないはずなのに、自我はなんとか踏ん張って生との戦いを継続しようとしているのでしょうね。

気づいたのは、この痒みが個人的なものではなかったと。不快だからそれを取り払おうとする努力を止めること。

その状態に一瞬でもなると、不思議なことに快を求める強さも小さくなっていくということです。どちらも消えていった時、そこには永遠の平安があることに気づくことになるのでしょうね。

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真実に気づいても苦しみはなくならない

せっかくの非二元の気づきを、普段の生活に生かすことができてないなあというのを常々思うのですね。

それはどういうことかというと、非二元ではリアルなのは今この瞬間にあるこの現実だけだと明確になっているのです。

コレと比べる何物もないし、コレとは異なる別の現実というものもない。このことが本当に腑に落ちるなら、一切の期待が消えてしまうはずなのです。

ところがどっこい、いつでもコレとは違うもっと自分にとって都合のいい現実を探し求めているのですね。

これは自我の自分を守りたいという強い思いからやってくるのだろうなと。私の言葉で言えば、自我の自己防衛なのです。

それがなくならない限りは、どこまで行っても未来に対する希望や期待もなくなりはしないのです。

そうなると、生(現実)に対して常に抵抗していることになり、それが私たちが感じる苦しみを生み出すわけですね。

真実を垣間見たとしても、苦しみや不満がなくならないのは、こうした理由があったということですね。