自分を放っておくという生き方

昨日のブログでは、「自分を放っておく」ということについて書いたのですが、この感覚になったことはこれまで一度もなかったのではないかなと。

実際に、自分以外でそのように生きているだろうと思われる人はいるにはいるのですが、あまりにも自分自身とかけ離れていたので、それほどリアルに捉えてはいなかったのです。

もちろん今でも自分を放っておくことが、この自分に本当にできることなのか?あるいはできるとしてもどこまでできるのか?

そういった疑問は満載なのですが、それでもそういう地平が見えてきたということは自分としてはちょっと驚きなのです。

これが非二元の探求などによって、自然とやってきたことであればとても喜ばしいことですが、そこはまだ不明です。

何せ自分としては非常に真新しい感覚なので、しっかりと気づいているようにしなければ、すぐに元に戻ってしまうのです。

ここで自分の自我はこのことをどのように見ているのか?そのことにもとても興味がありますね。今のところはノーリアクションのようですが…。

とにかく放っておく

自分の自我が強い理由がちょっと分かった感じがしました。というのも、自我の思い入れに肩入れしていたことに気づいたのです。

自分の好みというものを、とても大切にするという傾向が強いのではないかと思っていたのですが、そのことにしっかりと気づきましたね。

自我に物凄く力を与え続けてきたということにようやく気づいたのです。うまく言葉にすることができないのですが。

それで、これからは自分が大切にしてきたものをごく普通のことのように接することにしようかなと思うのです。

特に自分の気分がすごく大事なわけですが、これもできる限り放っておくようにできたらいいなと思うのです。

それと、繰り返す思考やそこからやってくる感情なども、そのままにして相手にしないでいられるようにしたいなと。

なんで今頃気づいたのかは定かではないのですが、自分を異常に特別視していたことに気づいたのですね。

これでは生きている限り自我にエネルギーを送り続けることになるのです。自分にまつわることで、大切なことなど一つもないと明確に断言するといいかもしれないですね。

被害者のままにしておかない

久しぶりに癒しの話を書こうと思います。癒しのプロセスの途中で、クライアントさんに必ずお伝えすることがあるのです。

それは、自分の身に起きたことは自分がそれを起こしているということ。もちろん幼い頃のことは例外としてです。

それでも、あの辛い出来事の台本を書いたのが自分だとは、到底信じられないと感じるのは当たり前のことですね。

けれども、どこかでこれをある程度は受け入れることができないと、その人の癒しはそこでストップしてしまうのです。

つまり、苦しみを自分以外の誰かのせいにしている限り、それ以上は進めなくなるということなのです。

癒しの最初の頃にお伝えしないのは、これを知ってしまうことで、自分を責めてしまったりして感情をそのままに感じることが難しくなるからです。

特に、怒りを味わうときに自責があるとブレーキになってしまうのです。ある程度、感情の解放ができるようになった時に、次の段階へと進む時に必要な知識なのです。

誰かのせいにするということは、自分を被害者の状態で置いておくということなので、確実に人生はうまくいかないままになってしまうはずです。

誰も悪くない、もちろん自分自身も。この感覚になることができて初めて、気持ちが軽くなってこの世界が優しく感じられるようになるのですね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

仏教の縁起とは…

「すべてのものは、単独では存在せず、条件(縁)がそろうことで成り立っている」という見方をするのです。

例えば、火は「薪・酸素・温度」などがそろって起こるし、雨は「雲・気温・気圧」などの条件で降る。私たちの感情も「出来事・記憶・体調」などで生まれる。

つまり、何かが単独で“それ自体として”存在しているわけではないということです。原因と結果というより、相互に依存しあうネットワーク的な関係です。

この教えが重要なのは、単なる理屈ではなく固定された「自分」はない(=無我につながる)、すべては変化し続ける(=無常につながる)、という理解に直結するからです。

本質的な表現で言うと、世界は「もの」ではなく「関係の現れ」であり、実体ではなく「出来事(プロセス)」とも言えますね。

あなたが普段見ている「これはこれだ」という確かなものも、よく観るとすべて条件の束でしかない。それを見抜くのが縁起の洞察なのですね。

非二元とは似て非なるものがある様ですが、私は仏教徒ではないので本当のところは分かりません。いつか、わかる時が来るといいのですが。

無常には因果がある?

無常というのをキーワードとして、初期仏教と私が見ている非二元の関連性を検証してきたのですが、ここで決定的な違いを発見しました。

それは、因果についてです。仏教では物事の起きる全ては因縁によっているという言い方をしますね。

つまり、原因があって結果が起きているという見方なのです。瞬間ごとに現れが変化するというところは分かるのです。

けれども、前の現れが次の現れの原因となっているというのが、どうにも分からないのです。私の感覚では、その連なりはない。

一体全体、現れ同志の繋がりってどのように起きるのか、これは是非仏教の長老に説明をして欲しいところです。

相手は悟った人ですので、どうやったってむこうが真理を突いているということなのでしょうけれど。

そこの仕組みが分からないのです。こうした謎も、少しすると解決してしまうのかもしれませんけれどね。

「持続する現在」はない

昨日のブログでは、無常の前提として時間というものがあるというのは妄想であって、実際には時間は変化を説明するための概念だという話をしました。

だとすると、「今」というのは一体なんなのでしょうか?私たちは通常、今というのは過去があって未来があって、その間の一点が「今」だと思っているのです。

言ってみれば、時間の線の上の点なんだと。でもこれはすでに思考が作ったモデルに過ぎないということ。

実際には、観察によってわかることは「これが今だ」と指させる固定点などどこにもないということです。

「今」を掴もうとするとどうなるのか?「今だ」と思った瞬間、それはもう記憶になってしまっているのです。つまり一歩遅れている。

だから、「今」は対象として捉えることはできないのです。実は「今」というのは、現れていること自体(プロセス)なのです。

どんな今も次の瞬間にはもう別のものになってしまうのですから、「持続する現在」という考えが崩れることになるのです。

となると、「持続する私」というのも当然不可能になってしまいます。やっぱり私はいないことを示していますね。 

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

時間は前提ではなく、派生物

仏教でいう無常というのは、時間の流れの中で絶え間なく起き続ける変化のことを言っていると普通は思うはずです。

逆に言えば、時間の流れがなければ変化はないんだと。だから、無常というのは時間の流れが必須なのだと。

ところが、観察の精度が上がっていくと、そうではなくなるのです。よく観ると、直接わかるのは、現れが起きる→消える→別の現れが起きる、なのです。

ここには、まだ時間というものは出てきていないのです。実際の体験としてあるのは、変化(生滅)の連続だけなのです。

そしてここから肝となる部分なのですが、時間というのは変化を後からまとめて説明するための概念だということ。

無常を深く見るということは、「変化している」という事実を徹底して見ることです。だから、当然時間という枠組みよりも変化そのものがリアルになるのです。

その結果、時間は前提ではなく、派生物になるわけです。変化は時間の中で起きているのではなく、変化の連なりを時間と呼んでいるだけなのですね。

モノが動いているのではない

クルマが向こうからやってきて、走り去って行ったというとき、私たちはクルマが移動していると感じるのです。

ところが実際には、現れだけが起きているという立場に立った時には、全く違うことに気づくはずです。

それは、見えているものが映像だと思えば分かりやすいのです。ただ単に映像が変化しているだけなのです。

クルマが向こうにあるときの映像と、通り過ぎる時の映像では違いがあるわけですが、それこそが変化なのです。

どれほど強固なボディを持ったクルマをイメージしたところで、それが映像だと分かれば瞬間瞬間に変化していることに気づくのです。

仏教の無常に通ずることです。全てが現れでしかないということに心底気づくことができれば、そこに無常があるだけなのです。

仮に目の前に設置されたテレビは、それ自体も硬いし全く動いてもいません。それでも実は常に変化しているのです。

あなたがそのテレビを見る角度を少し変化させただけで、テレビの形は変化するし、場所も変わって見えるはず。

それこそが無常の本質なのですね。

現れを連続である必要がないと体感する

仏教では、苦しみの原因は「執着」だとされています。だからその執着は何に対して起きるかを見る必要があるのです。

それは、変わらないと思っているもの、コントロールできると思っているもの、そして自分のものと思っているものに対して起きるのです。

でも「無常」を本当に見るとどうなるか。当然のことながら、上記の三つのものがそもそも存在していないことに気づくだけではないのです。

そんなことは、論理的に考えてみれば誰にでも分かる当たり前のことです。本当に無常を見るとは、体感として執着の構造を見破ることなのかも。

それは、この世界(現れ)を「連続した物語」としてではなく、「瞬間ごとの発生と消滅」として見る訓練なんだろうなと。

これは大変なことかもしれません。非二元の話の中で、体験には物語を作る思考体験と、直接の体験があるということを言ってきました。

この直接の体験を徹底的に体感し続けることで、ようやく真に無常を知ることができ、その結果が自動的にやってくるのかなと。

不可能に思えるけど、映像の1フレームごとを不連続なものとして体感できるということ?いや、そういうことではないのかも。

むしろ、連続しているように感じていたものが、連続である必要がなくなるってことなのかもしれないですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

この世界は不要だった!

非二元のことをお話ししていると、どうしてもこの「世界はない」という表現をしてしまうことがあるのです。

この言葉を聴いてどう感じるかは人それぞれでしょうけれど、さすがに遠慮会釈のない表現だなと思うのです。

あるいは、どうやって世界はないということを証明できるのか?と質問されたら、明確には答えられない面もあるのです。

丁寧に答えるとするなら、この世界があるともないともどちらとも言えないというのが本音かもしれません。

というのも、この世界があろうがなかろうがどちらであっても関係がないからです。つまりは不要だったということです。

なくてはならないもの、なければ毎日が成立しなくなるものでもないということです。この辺の表現も難しいのですが。

目の前の空間に、ピンクの小さな象がぷかぷか浮いていたとしても、それが見えないし聞こえないし触れられないなら、あってもなくても同じなのと一緒なのです。

ここには、必要なものも意味のあるものも、価値あるものも何もないのです。ただ現れが起きては消えていくのみですね。