空(くう)とは無限のポテンシャル

皆さんは、「般若心経」ってご存知ですか?作者は不明だし、いつ頃のものかも曖昧なままで本当のところは分かってないらしいですね。

けれども、その中にある一節「色即是空」という言葉は聞いたことがある人もいると思います。

これは、万物はこれ全て空(くう)であるという意味です。つまり、この世の一切合切には実体がないということです。

私がいつも言っている非二元の話と同じなんですね。この空(くう)というのは、無ということであって、何もないということ。

それを聞くと、なんだか空虚な感じがしてきませんか?でも実は、その感覚というのは空間があるというのが前提なんです。

空間が無限に広がっているのに、中身が空っぽだと言われた気がするので空虚とか虚無を感じてしまうわけです。

けれども、全てが空(くう)というのは、空間さえも無いということなので、決して空虚ではありません。

あえて表現すると、無限に凝縮した無限大の可能性ということになると思います。つまり、空(くう)とはポテンシャルなんです。

何もなさとは、あらゆるものがそこから発生する無限の可能性を秘めているという感じです。なんとなく分かってもらえたらいいかなと。 

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非二元を簡単に分かる方法 その2

昨日のブログでは、経験だけがある、体験だけがある、という話をしました。それがそのまま非二元へ繋がるのだと。

これをそのままに分かる人もいるかもしれないし、納得できないという人もいていいと思うのですが、納得できない場合について解説したいなと。

一般的な私たちの想定というのは、自分という個人がなんらかの経験をし続けていることは了解できるのです。

けれども、一方では自分の経験が及ばない世界がいくらでもあると考えているのです。自分の他に80億人の人々がいて、それぞれが別の体験をしているのだと。

あるいは、自分は夜眠っている間に、太陽は地球の裏側を照らしていると。それは自分の体験外で起きている事実じゃないかと。

こうした発想は、ごく普通のものですが、それがこの広い世界の中で小さな自分が生活しているというイメージからやってくるものなのです。

これが単なる思考による思い込みであるとは思えないということなんですね。でもやはりこれは事実ではなく、イメージでしかないのです。

自分がこの広い世界の中で暮らしているという根深いイメージを脇に置いて、ただ体験だけに注意を向けることができるかどうかです。

それができれば、全ては体験だけだったということに気づけるはずですね。そこからは、非二元が間近で待ち構えていますよ。

非二元を簡単に分かる方法

非二元の気づきがやってきてから、様々なことをお伝えし続けてきたのですが、その中でも一番シンプルなこととは、「経験だけがある」なんですね。

これって、二元、非二元に関係なく、誰にとっても現実なのですが、それを分からなくさせているのが思考による「世界」という幻想なのです。

私たちは、通常自分の周りにはこの世界が広がっていると思っていて、ほぼ間違いなく固く信じ込んでいます。

けれども、自分の身体の外側の世界のことなど、どうやって分かったというのでしょうか?私たちの毎日は、経験の連続だけです。

起きているのは、全て経験です。それ以外は決してありません。経験だけが連続して起きているだけなのに、世界があると信じているのです。

不思議なことですよね?そして誰も、信じていることに気づかずに、世界があるのは事実だと思い込んでいるのです。

自分の今日の1日を思い返してみて欲しいのです。そこに、経験以外が入り込む余地などないことは明白です。

朝目が覚めたという経験、朝食を食べたという経験、身支度をしたという経験、職場に行ったという経験、仕事をしたという経験。

これがずっと続いているだけです。経験以外は起きていないと分かりますか?こんなシンプルなことなのです。

だからいつも言っているのです。経験だけがあると。世界があるとか、自分という個人がいるとか、そんなつもりになる経験は起きているかもしれませんが…。

直接経験はシンプルさの極み

子供の頃にある本を読んでいて、それには人間の心というのは顕在化して気づいている部分と、奥深くに潜在して無自覚の部分があると書いてあったのです。

その構造にとても興味をそそられて、それが強く印象に残ったのでしょうね。この仕事をするようになって、またそのことと触れ合うこととなったのです。

そしてずっと長い間、そうした心の構造をベースにしたセッションをしてきたのです。その構造は事実に違いないとして。

人間の内面というのはそのようにできているのだと。ところが、それは単なる思考によるイメージに過ぎなかったのです。

ただしイメージであったとしても、この物語の中ではそれがうまく活用できるのです。その構造が事実であるかのようなことが起きるからです。

けれどもそれは、あくまでも物語の中でのこと。直接経験の中へと注意を向けていくと、そんな構造は物語とともに消えていくのです。

そこには内面などというものは存在しなかったのです。外側とか内側といった分け隔てもないのでその両者ともに存在しないのです。

直接の経験では、イメージの世界で作られたいかなる構造もないのです。だから、複雑さは全く見当たらず、それはシンプルさの極みですね。

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直接経験の中にモノは存在しない

この数ヶ月間、非二元の説明をしてきて思うのは、最もシンプルで決定的なこととは「直接経験の中にモノは存在しない」ということ。

ここからあらゆることが派生していって、最終的には何もないし誰もいない。時間も空間もこの宇宙もないというところまで行ったのです。

だから、非二元に気づきたいということであれば、この根っこの部分である「直接経験の中にモノは存在しない」が分かればいいのです。

いつも言っているように、目の前のリンゴを見るという実験をするときに、思考の前に起こる視覚の経験に注目するのです。

それは、色の経験です。色の変化が輪郭となって、それが見かけの上で形というものを生み出すわけです。これ以外の経験はありません。

もう一度繰り返すと、視覚というのは単に色の経験が起きているだけ。それ以外のどんなものも直接捉えることはできないのです。

二元的な言葉を使えば、「自分が見ているか見ていないかに関係なく存在するリンゴ」というものを視覚が伝えることはないのです。

こんなシンプルで当たり前のことに気づくだけで、そこから紐解いて行けばこの世界が非二元であることに気づくはずですね。 

どんなにリアルな感じがしても実体はない

もうかれこれ20年近く前のことになるのですが、あるセミナーに参加しているときに、自分はこれまでの自分とは違うと感じたことがありました。

自分の名前を心の中で呟いた時に、若干の違和感があるのを感じたのです。ああ、ここが人生の一つの区切りになるのかなと思ったのを覚えています。

だからと言って、人間を辞めたわけでもないし、人生はこれまで通りに続いていくことに違いはないのも分かっていました。

その事と似たようなことを最近また感じるようになったのですが、ただそれは似て非なるものとも言えるのです。

というのも、自分の名前を唱えた時の違和感があるまでは同じなのですが、今度は人間としての自分が遠いものに感じられるのです。

この世界、この自分の人生というものが全て幻想だという感覚がとても大きくなってきてしまったような感覚なのですね。

意識が拡大している感覚が、個人であることを忘れさせるというのか、個人としての自分が小さくなったような。

決して嫌な感じではないですが、かと言って爽快な感じがするというわけでもなく、特別な感じは何もない。

下の画像のような目に鮮やかな景色を間近でみて、そのリアル感を感じても、それでもその実体のなさはもう拭えない。

身体が不調になると、また戻されもするけれど、もうこの感覚がなくなってしまうということはないのでしょうね。

個人的人生なんてない

YouTubeで動画をあげるようになって、そろそろ2年が経ちます。投稿動画数が400本を超えました。

当初は、癒しに関する内容のものが中心だったのですが、この一年というものはほとんどが非二元の内容になっています。

人間て分からないものですね。40代半ばまでは、あまり何も考えずに会社員生活を淡々と送っていただけでした。

それが突然のように、その生活にピリオドを打ってまったくジャンルの異なるセラピストとして人生を転換したからです。

自分でもとても意外だったし、親しい人たちからも「なんで?」という反応が当たり前のようにありました。

話を元に戻して、ということは残り少なくなってきたこの人生で、今後また何が起こるのか分かったものではありません。

動画を撮ることに少しのマンネリ感が出てきた感じがするので、これまで1日おきにアップしていたのを週2くらいにしようかなと。

そこからまた何か新たに見えてくる景色があるのかもしれません。ここまで書いてなんなのですが、実は今この瞬間だけしかないということも分かっていて。

だから人に歴史あり、みたいなことを言う人もいますが、実は人生そのものが架空のもので、これまでも今後もないことも分かっているんです…。 

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思考は勝手にやってくる

これまでにも何度もこのブログで話題に上げたことですが、「人間に自由意志はあるか?」ということについて包括的な説明をしたいなと。

もうすでに動画では明確に結論を言ってしまっているのですが、端的に言って人間に自由意志などないということです。

あなたが何かを選択しようとするときに、どれを選ぶかという明確な理由があったとしても、それでも自由意志はないと断定できるのです。

たとえば、今からあなたにやってくる思考を見て欲しいのですが、それはあなたが選択しようとせずとも自動的にやってくるはずです。

どこまで遡ったところで、最後のところでも思考は勝手にやってきているのです。そしてそれをベースに選択が起きるだけ。

そうなんです。選択はするものではなく、起きるものであって、それも自動的に起きてしまうことに気づけばいいのです。

ところが、多くの人はその選択は自分が引き起こした個人的なものだと信じてしまっているので、そこで後悔や罪悪感がついて回るのです。

非二元的な表現をすれば、気づきの中で全ての現れは自動的にやってきては去っていくだけ。あなたがそこに立ち入る術はないということ。

そして決定的なのは、どこを探しても思考や選択をする主体としてのあなたの存在を見つけることができないということですね。

非個人でいることの清々しさ

非二元の質感を感じたくて、気持ちにゆとりがあってその気になった時には、できるだけ気づきの視点に立てるようにしています。

見えているもの、感じているもの、その全てがいつもと何も変わらないのに、その上でダイレクト感が露わになってきます。

身体の中にいる感覚がありながらも、身体とは無縁の気づきの場に全てが現れているのがなんとなく分かるのです。

そこには、無粋な肉体や個人という特殊なものはどうやっても見つけることができないのです。どこにも境界がないのですから。

すると、我々の持つ苦しみというものも実は幻想だったと分かるのです。非個人であるなら、苦しみは不可能なのですね。

非個人においては、大きさも形も場所も何も持つことができないので、比較ということもできないと分かります。

身体なんてないのに、頑張ってどうしても身体と共にいるようにして個人性を作り出していることも見抜けましたね。

個人であるために、かなり骨の折れる努力をずっとしているということにも気づけます。一瞬でいいのでそれをやめてみたらどうかなと。

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抵抗しないための最善の方法

昨日のブログでは、「抵抗すると、それは存続する」というお話をしました。今日はその続きをお話ししたいと思います。

抵抗するということは、コレでは嫌だということですね。言い換えると、これ以外の別の何かを求めるということでもあります。

結局、それは非二元でいうところのコレだけがあるという事実に対しての抵抗となるので、それが苦しみとなるわけです。

そして、それが存続してしまうのですから、これを何とかしてやめることが肝要なのですが、では実際にはどうしたらいいのか?

私が思う一番効果的なやり方は、非二元の実践でいつも言っている「直接の経験」に注意を向けるという方法なのです。

すぐに思考に飛びついてしまう代わりに、直接の経験に寄り添うこと。起こっていることすべてをそのまま好奇心とともにただ見て経験すること。

なにが起こっているかという考えを見るのではなく、この感覚は何なのだと考えるのでもなく、どんな感覚なのかに注意を向けるということ。

感覚がどう感じられるかということに名前を付けることもしないで、ただ感じるのです。これを気づいた時に実践するのです。

結局のところ、非二元の探求がそのまま苦しみからの解放に繋がることになるということですね。