このブログを書き始めてすぐの頃に、「幸せとは何だろう」というタイトルの文章を書いたのを覚えています。その中で、本当の幸せとは、永続的な心の平安であると述べました。そして、そのことはこのブログでその後もしつこく何度も繰り返し述べてきました。
それは、目指すものが、ホンモノの幸せでなければその人の人生は決して幸せにはなれないということを訴えたいからです。どんなに努力しても目標となる幸せがニセモノであれば、それは無駄な悪あがきになってしまいます。
永続的な心の平安は、完全に満たされている心の状態であるとも言えますね。自分には何も足りないものはない、不満がいっさいないという状態が続いているということです。
そして更に大事なことは、それが永続的だと自分で自覚できるということです。今日は満たされているけれど、これがいつまで続くか保証の限りではない、というのでは未来に対する不安が出てきてしまいますので、ホンモノではないということです。
自分には不足しているものは一切ないということは、一般的に自分が一人の人間として生きているという大前提からして、あり得ないことだと誰しも感じるはずです。
確かにそう思って当然なのですが、実はその理屈そのものが本当の幸せではない自分がこしらえた論理でしかありません。
物質的なあるいは物理的な世界観をベースにした理屈のワールドでは、完全というものは存在しません。完全な円とか、直線とか、そういったものはイメージの世界でしか存在しないのと同じですね。
したがって完全に満たされた状態というのも架空の世界での話しということになってしまいます。しかし、そういった理屈を超越したところにこそ、真の幸せがあるということなのです。
観念の世界、想念というのはあらゆる理屈を超えたところにあります。そして、そこにしかホンモノの幸せというのはあり得ません。すべては一つ、自分はすべてであるという想念こそ愛であり、それこそが完全に満たされた心の状態にしてくれる唯一のものなのです。
それを目指すとは具体的にどうすればいいかというと、愛という想念をできるだけ自分に体験させてあげることです。求めるのではなく、与えることによって愛に近づくことができます。