私たちは自分のことが関心事の一番であるときは、心が満たされた感じがしないのです。もっとも簡単な例としては、何もすることがなくて退屈だなと思うときには、その退屈をもてあましている自分に意識が向いているということです。
駅で電車が来るのを待っているときとかに、何もすることがないよりは、ケータイでゲームにでも興じていれば退屈はしのぐことができますが、それは自分から意識が離れてゲームに向いているからです。
自分は夜寝るときに、少しでも暑くて寝苦しさを感じてしまうと、なかなか寝付けなくなってしまいますが、その場合も暑さを感じている自分に意識が向いてしまうから寝つきが悪くなるとも言えるのです。
勿論、快適さを感じているときや、自分の願いごとや望みが叶ったりしたときには、意識が自分に向いているとしても心は満たされている状態になることができます。
しかし、それは一過性のものであって、しかもその満足感というのは実は幼い頃に欲しいものが手に入ったときのようなレベルであって、心の底から充足するということとは違います。
したがって、しばらくすると、また違うものが欲しくなって、それを手に入れるまで満たされないということが起きて、それを繰り返してしまうことになるのです。
自分が関心を向けるものの中から、完全に自分のことをはずしてしまうということは、とても難しいことです。肉体を持った人間として生きている限り、それは不可能なことかもしれません。
それでも、自分への関心を二の次、三の次に持っていくことはできるかもしれません。それは、誰かのために、何かのために、自分の労力や時間を捧げるということです。
こうしたことが実際に心の中で起きているときには、肉体的な犠牲はあったとしても、精神的な自己犠牲はとても少なくなるために、一過性ではなくて継続的にそれをすることができるはずなのです。
そしてそのようなときには、心はきっと満たされた状態が続くはずです。何かに打ち込んでいるときは、退屈などしないでいられますが、それが自分のためではなくて、自分以外の誰かのため、何かのためであれば、より深い満足感を得られるということです。
その場合の、誰か、あるいは何かというのは、本当に何でもいいのです。ただ、自分以外ということでさえあれば、この心が満たされる法則は成り立つということです。