by リチャード・ラング
他の人と私が一つであることは、私の存在の深みにあります。この一つであることは、表面的に起こるどんなことによっても、脅かされません。
もし誰かがあなたにひどい振る舞いをしても、私はそれでも彼らと、「顔対顔がないもの」であり、まだ彼らに対して受容能力です。
私の意識は彼らの意識でもあります。これが真実です。しかし、自意識のある大人として、私は自分の体と彼らの体の間にある境界と、自分の人生と彼らの人生の間の区別に、また気づいています。
一つであることと違うことは、共存しています。ですから、私が奥深いところで、彼らであるからといって、私が他の人たちがすることや言うことに、同意する必要はないのです。
もし必要なら、私は自分自身や自分のまわりの人たちを守るために、行動することもできます。自分とは本当に何かを見るとき、境界にも個人的アイデンティティにも無知な、自意識のない赤ん坊のように、私が退化してしまうわけではありません。
また私は、あらゆる欲望、好み、そして人生さえからも完全に離れて、喜んで他人に自分の人生を踏みつけさせるような、ある種の聖人というわけでもありません。
私は個人でもあり、自分自身を守ることもできますし、自分自身のユニークな意見も表現することができます ─ そう願っています。
それにもかかわらず、誰かが私にひどい振舞いをしていて、私が自分自身を守っているとき、それでもまだ私の存在の土台では、私はその人のための受容能力です。
この土台に注意を払い、頼りながら、その人と私が融合していることに気づき、しかも、自分自身の世話をする必要にも気づいているとき、私は何をしたらいいのでしょうか?
状況が起こるまでは、私にはわかりません。気づいていることは、より多くの行動のルールを導入するわけではありません。
気づいているおかげで、あなたが頼ることができる、あなたの内部にある賢明で愛情深い場所を意識するのです。 源泉を意識して、自分が何をしたらいいのか、発見してください。一人一人の行動は違うことでしょう。