敏感な子供の反応に注意する

敏感体質で生まれた子供と言うのは、親自身がまったく自覚していない親の心の奥にあるネガティブな感情のエネルギーを体感してしまうのです。

ですから、親と子の間に大変な認識のズレを生じてしまい、会話がギクシャクしてしまうことも当然なのですね。そのような場合、子供は自分の感覚を理解してもらえなくて辛い思いをするのです。

以前にもこのブログに書いたことがあったと思うのですが、私が小学生の頃、父親の実家から家族全員でクルマで帰宅途中に、ガス欠になってクルマはエンコしてしまったことがあったのです。

夜の11時くらいだったかなと思うのですが、日曜日ということもあってガソリンスタンドは閉まっていて、父親がどうにかガソリンを手に入れて戻って来るまでの間、残された車中で不安だったのです。

母親も姉も従妹のお兄さんもいるから、子供の自分はただ父親が戻って来るのを待っていればいいだけなのは分かっていたのですが、とにかく不安で不安でたまりませんでした。

その様子を見た母親が、みんながこうしているのだから安心していいのに、どうして不安に感じる必要があるの?と子供の私に問いかけたのを憶えています。

私は、その時の自分の気持ちを、「生きた心地がしない!」という言葉で表現したのを、今でもはっきりと記憶しています。ずっと、自分がただ臆病だからだと思っていたのですが、今その理由が分かるのです。

それは、家族のみんなも本当は不安だったのでしょう。でも、彼らは理性によってその不安を打ち消して、理屈によって自らを表面的にだけ安心させていたのです。

子供の私は、彼ら全員の本音としての不安のエネルギーをまともに吸い込んでしまったために、生きた心地がしない状態になっていたということです。

こういうことは、どこの家庭でも頻繁に起こっていることではないでしょうか?親は子供たちが訴える心の状態をただ疑問視するのではなくて、何かを察知しているのだということに気づいてあげることですね。

子供は、ただ分かってもらえるだけで安心を取り戻すことができるのですから。

疑問がなくなる日

自我(エゴ)の生い立ちやその働きを深く理解することで、人類が共通に持っている苦しみや痛みなどの根源を知ることになるのです。

個人としての自分がここにこうしているという自覚、この思いこそが苦悩を作っている張本人だったと知ることになるということです。

その後、人は必ずと言っていいほど、何で人はそんなエゴに翻弄されて、辛い毎日を生きるようになってしまうのだろうか、という疑問が湧いてきます。

生まれてきた本当の目的とは一体何なのだろうか?なぜ、エゴなどというものにかかずらって、一度しかない貴重な人生を台無しにしてしまうのだろうか?

けれども、こうした疑問を持つのは誰なのか?それこそがエゴなのだと気づくことができれば、あるときにすべての疑問から解放されることになるのです。

疑問は思考の産物であり、真実はそんなエゴの疑問など相手にするはずもないのです。この世界には、エゴが考えるようなどんな目的も、意味も、何ひとつないということ。

その感覚がやってきたときに、エゴとの距離を感じられるようになるのです。あなたという個人は、最初の最初から存在していなかったという事実。

エゴはそれを決して認めないでしょうけれど、すべてはただあるがままに在るだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。

ただ起こることが起きているだけ。エゴにとっては、受け入れがたいことが真実なのですね。

親のエネルギーが人生を規制する

今日もシンプルに…

何だか人生を楽しむことができないと

感じているあなた

もしかしたら、幼い頃から

親から「喜ぶな、楽しむな!」という

エネルギーを受け取ってきたかもしれません

だとしたら、癒しを進めて行かない限り

何をやっても変わらないはずです

以上

対等な人間関係を作る

子供が幼い頃から対等な親子関係を築けるかどうかは、一重に親の生き方にかかっていると言えます。子供は、その親がどういう人間関係を築くのかということに、完全に依存してしまうからです。

人と人との関係を、存在対存在と見ることができるなら、それがどんな二人であろうとも必ず対等な関係性が生み出されると言って間違いありません。

親子と言えども、親は単に親という役割を持っていて、子供は子供という役割を持っているにすぎないのです。そのことに気づき、あくまでも存在と存在の関係であろうとすれば、そこにはどんな上下関係もありません。

子供は、親が作った関係性の中に引きずり込まれてしまうため、それがどんな関係であっても、それを気づかぬうちに受け入れてしまうのです。

親が上で子が下という関係になってしまうと、子供は親は絶対という感覚を持つことになります。そうなると、子供の自由な自己表現、感情表現が抑圧されることになるはずです。

結果として、子供は自己犠牲を続けることで怒りを溜めることになるのです。そして、その子供は未来にわたって、対等な人間関係を作ることが難しくなるのです。

結局、下から目線を継続するか、逆転して上から目線になるのか、この二つのどちらかで関係を作るようになってしまうのです。

下の立場では、相手に必要以上に気を使い、我慢を強いられて場合によっては、鬱を発症することになるかもしれません。

またそれが反転したときには、相手を上から見下して、コントロールしようとすることになるのです。つまり、相手やその時の精神状態などによって、上になったり下になったりするということです。

自分は対等な人間関係を作りにくいという自覚があるなら、幼い頃の親子関係を洗い出してみることです。そして適切なセラピーを受けることをお勧めします。

ないこと尽くし

今日もシンプルに…

やらねばならないことが何もない

やるべきことが何もない

やりたいことも何もない

ないないないのないこと尽くし

ただ意識としてここに在ることの奇跡を感じつつ

理由のない至福と共に…

以上

意識と思考のお話し

多くの人は、意識と思考の違いについて、それほど真剣に探究しようなどとは思わないはずですね。そもそも、意識とか思考って本当は何なの?というのが実情です。

実際、思考とはこの世界で起きるあらゆる現象の一つであり、一方すべての現象を支えているのが意識だと考えると比較的間違っていないはずです。

このことを理解すれば、思考は一過性である一方で、意識は永久不滅であることも分かると言うものです。そもそも、思考と意識を互いに比べること自体が、ひどい見当違いだと思うのです。

例えばの話しですが、思考が映像だとすれば、意識はその映像を映しているスクリーンだと思えば、違いが明確になるのではないでしょうか。

その違いは果てしないものです。だから、思考が緩んできて、自分の意識に注意を向けていると、意識としての自己が果てしない彼方に在るという感覚がやってきます。

思考からすれば、意識ほど謎に感じるものは他にないでしょう。考えれば考えるほどに意識から遠ざかるのですから。思考が消えたときに、意識が現れるのです。

意識だけが真実であり、あなたの本質であり、完全な無なのです。残念ながら、こんなことを文章にして書いているのは思考であり、それを支えているのが意識です。

人物としてのあなたを支えているのは思考であり、その思考を現象化させているのが意識です。分かりにくいかもしれませんが、大丈夫。こうした言葉がすべて方便であって、真実ではないということは確実なのですから。

自分の年齢が分からない

今日もシンプルに…

急に暑さがやってきたからか

午前中にふと小学生の頃の

夏休みの時の感覚が蘇ってきました

あの頃と比べて何が変わったのだろう?

何にも変わってない(笑)

これホント!

以上

自分を楽しんで生きる

今日もシンプルに…

あなたは何かが足りないというふりをして

生きていませんか?

そのふりをやめなくてもいいから

ただそのことに気づいていることです

それはいずれゲーム感覚になるはずです

そうやって、どんな自分も

楽しんでしまえばいいのです!

以上

苦しみからの解放

今日もシンプルに…

誰もが最も嫌うもの

それは苦しみですね

その苦しみから完全に解放される

方法が一つだけあります

もうお分かりですね

 

それは…

 

 

 

 

 

 

 

 

思考の外に出ること!

以上

内側も外側もない

今日もシンプルに…

もしもあなたが自分の外側の世界と内側の世界があると感じているなら

是非とも内側の世界にできるだけ意識を向けているべきです

なぜなら、内側を深く見ることによってのみ

内側と外側という区別はないと気づくことができるから

以上