私たちの本性自体が至福そのもの

次のoshoの言葉ですが、これを信じてしまうなら取り逃すことになります。これはどうしても自分自身で検証する以外ないのですね。

『至福は人間に内在している本性だ。それを獲得する必要はない。それは再発見すればいいだけだ。私たちはすでにそれをもっている。私たちはそれだ。それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。探すのをやめ、内側を見るがいい。そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。』

私たちは概念として、至福というものがいわゆる幸福感のようなものとは異なるということを知っています。

言葉で説明するなら、幸福感はなんらかの理由があってやってくるものですが、至福感はどんな理由もなくやってきます。

理由があるものは、一過性であってそれはいずれは過ぎ去っていく運命にあるのですが、理由のないものは永続します。

理由なくやってくるということは、正確に表現すればそれはどこかからやってくるというよりも、我々自体に由来するものだろうと。

上のoshoの言葉にもそうあります。「私たちはそれだ。」と言っているのですから。私たち自身が至福だということ。

それなら普段それに気づかないで生活しているのには、理由があるはずですね。その理由とは、自分の本性を忘れてしまっているということ。

思考優位となって、自我として生きている以上は、幸福を外側に探し求めることをやめられないのです。

一方で、独り静かにしているだけで、そこはかとない「大丈夫感」のようなものを感じますが、それも至福感の一面なのかも知れませんね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

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