こだわりを捨てると人生から苦しみが消える

私は長い間、「こだわり」というのは人生に潤いを与えてくれて、毎日をより楽しいものへと変えてくれる大事なものだと思っていました。

服装にこだわりを持っている人はオシャレだし、素敵だなと思うし、本人もそのことを楽しんで生活していることが伺えます。

私には皆目分からないことですが、ビンテージものの古着とかを何万円もかけて購入して、悦に浸っている姿をよく見ますね。

私自身にも幾らかのこだわりがあって、新居の設計をするときに床材とか壁などにかなりこだわって、選んだつもりなのです。

棟梁からは、大工さんが大変だったと愚痴られたくらいですから。それでも、やはりその出来栄えを見て間違ってなかったなと。

けれどもその逆もあって、こだわった部分が自分の思っていたようにはできていなかったりすると、こだわった分だけ落胆もひとしおなのです。

こだわりを持つと、喜びもやってくる反面、それが望み通りに行かない時の反動も大きくなってしまうわけです。

それと同時に、たとえこだわって望み通りになったとしても、その喜びや満足感がどれだけ続くかということ。

きっと、長くて数ヶ月。一年も持たないのではないかと疑っているのです。だとすると、初めからこだわりなど持たないでいたほうがいいのではないかと。

こだわること自体を楽しむことができるならいいと思います。そうでないのなら、こだわりを捨ててやってきたものとの出会いを楽しむほうが賢いのかなと。

こだわりを持つというのは、別の見方をすると視野が狭いということも言えるかもしれません。

ブッダのように、最大の視野を手に入れた存在からすれば、どんなこだわりも子供のような視野の狭さのなせる技だと感じるのかもしれませんね。

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誰もが夢を叶えて生きている

私たち人間には、常に望むことと望まないことがあり、そのどちらであるかを判別しながら生活しているのです。

望むように物事が起きれば嬉しいし、そうでなければ辛かったり悔しかったりを経験するわけです。

けれども、もしかすると本当は望んだ結果が今やってきているのではないかと考えることができます。

望んで夢にまで見て、やっと地球ランドへやってこれた。もうこれだけで望みは叶ったのですが、そのことを完全に忘れていると。

今私たちが経験している全てが、望みが叶った結果なのですから、その上で望むことと望まないことを判別しているのは愚の骨頂。

願い事が叶った状態で、毎朝目を覚まして1日を迎えるのです。それを楽しまない手はありません。

ところがどっこい、日々の物語の中に埋没してしまっていると、こうしたことに気付けなくなってしまうのですね。

私たちが本当に望んだのは、どんな物語を体験するかというよりも、この地球であらゆることをあるがままに感じることではないかなと。

悲喜こもごもの出来事がやってくるのは、こうしたことを証明しているような気がします。明日もそれを確認しながら、ゆっくりやっていきましょう。

幼い頃に作った自己イメージの引力圏からどう抜け出せばいいのか?

私たち人間は、本質的には誰もが幼い頃は無邪気な状態で生きているものです。まだ社会の一員になる前の家族という小さな領域で生きているだけだからです。

ある時点から団体生活の中に放り込まれるようになって、少しずつ人と共同生活をするために必要となるルールや知恵を学ぶことになるのです。

そうなったら、無邪気一辺倒ではやっていけないと知るわけです。そして、徐々に大人への道を進んでいくことになるのです。これが平均的な成長の仕方です。

ところが、時として幼い頃から一種大人のような感覚を持って毎日を生きてしまう子もいるのです。その理由は様々ですが。

多くの場合は、過度に敏感な気質で生まれてしまうことによると私は考えています。マインドのある一部分だけ突出して大人びているのです。

そこが邪魔をして、思う存分無邪気に生きることができなくなるだけでなく、その突出した部分は大人になってもそのまま居続けることになるのです。

なぜなら、大人になっても元々が大人びてしまっていたために、それをそのまま踏襲しても大人の自分が違和感を感じずに済むからです。

そのいびつなマインドが作り出した幼い頃の自己イメージが普通ではないのは想像にかたくありませんし、それは当然大人になっても生き続けてしまうのです。

その結果、その自己イメージ通りの人生がやってくることになるのです。それは非常に過酷な毎日を迎えることになるはずです。

尚且つ、なぜ自分の人生がこんなに生きづらいことになってしまったのかの原因が分からないままに苦しむことになってしまうのです。

その大人びた子供が作ったコンフォートゾーンから抜け出すためには、専門家の力を借りることを検討してもいいと思いますね。

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天国も地獄もあなたの内にこそある

今日も osho の言葉から始めてみます。

『それが各時代を通じて人々がやってきたことだ
彼らは自分自身を変えずに、天国にあこがれる
だがどこへ行こうと彼らは地獄を生み出す
彼らが地獄だ
それはどこかに天国を見つけるという問題ではない
自分のなかにすでにそれを持たないかぎり、あなたはそれをどこにも見出すことはない』

そんなことはない、天国に行けば誰だって幸せになることができる、そう感じているとしたら考えが浅いということですね。

仮にあなたのマインドの中が暗くて、嫉妬や恨みなどで占有されていたとして、それにそぐわない天国に行けたとしたらどうでしょう?

しばらくの間はいいでしょう。あなたはやっと憩いの場所を見つけることができた、やっぱり天国に来れれば誰だって幸せになれる、そう思うかもしれません。

けれども、やがて時が経つにつれてあなたのマインドの中の内容物がドロドロと外側へと染み出してきて、あなたの周囲を変えていくのです。

人は必ず自分のマインドに見合ったコンフォートゾーンを作り込んでしまうのです。もしもそれができないとしたら。

今度は、あなたが自ら天国から逃げ出して元いた場所へと戻ってしまうでしょう。それが心理的ホメオスタシスの働きです。

私の表現を使えば、「エネルギーは友を呼ぶ」ということになります。あなたの周囲に起きている事象というのは、あなたのマインドの投影なのです。

時間差は起きるかもしれませんが、早晩いつものあなたに戻ることになるはずです。外側ではなく、内側を見つめることですね。

全ては淡々と通り過ぎて行くだけ

今日も osho は端的に、そして明確に表現してくれています。

『達成における幸せとは、
強化され拡大した、その「私」の幸せだ。
だがこの「私」は、決して完全には満たされない。
それはまさにその本性からして、飽くことを知らない。
だから、幸せとはそこにあるように見えるにすぎず、
現実には決して手に入らない。』

この「私」というのはご存知「自我」のことですね。どういうわけか、私自身若い頃から達成感が少なかったために、こうしたことに気づきやすかったのかなと。

自我は達成することが大好きなのですが、かと言ってそれで満足することなど到底できないのですから、可哀想なものですね。

どれほど努力したところで、ご褒美の飴玉を一つ貰っただけで、すぐさま次の問題へと向かっていくことになるのですから。

幸福感、満足というのは残念ながら頭の中にだけある妄想だったということです。現実にはそんなものは存在した試しはないのです。

これを書いていて、今またとても深くこのことに気づくことができた感じがします。物事を達成しても達成しなくても、何も変わらないのです。

自分自身が何をどうしたのかというよりも、やはり万事塞翁が馬なんですよね。今日もまた一つ、それを実感するような出来事がやってきたので。

瞬間瞬間、やってくる物事から逃げずにさりとて戦うこともなく、淡々とともにいるだけで全ては通り過ぎていくのですね。

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意識的でいれば視野が広がる

ほぼ毎日クルマを運転する身としては、なるべく全体がスムーズに効率的に動けるようにしたいと心がけています。

例えば、交差点では右折する対向車を発見した場合、そのクルマの後ろに複数台クルマが待たされてしまうようなら、自分が譲るようにしています。

自分が譲ったところで、前方のクルマにはあっという間に追いつくことは明白だからです。誰も損をしないわけです。

ところが、こんな簡単なことができない人が大勢いるのです。理由はいろいろあるのでしょうけれどね。

何か考え事をしているとか、心に余裕がないとか、そんなところかなと。なぜそう思うかというと、明確な理由があるのです。

それは、我々が左脳(マインド)優位になっている時というのは、必ず視野が狭くなってしまうという特性があるからなのです。

仮にあなたが深く考え事をしていたら、視野はほとんどなくなってしまい、誰かが近づいてきても気づかない可能性すらあります。

その一方で、思考が緩み、意識的になっている時というのは視野が広がると同時に視点が高くなるのです。

だから、運転していて全体を見渡すことができるのですね。すると当然、事故を起こす確率も小さくなるわけです。

最近よく思うのですが、自転車に乗っている人って、そのほとんどが無意識的なんだろうなと。もう諦めてますけどね。

呆れて笑うしかないネタ

今日仕事を終えて、やや遅くに帰宅してみると部屋に何やら怪しげな発泡スチロールの箱が置いてあったのです。

なんらかのナマモノが冷凍状態で届いている感じで、思い当たるものが何もないので恐る恐る中を見たら、何としばらく前にオーダーしておいたステンレス製のゴミ箱だったのです。

自分の部屋のミニキッチンがステンレス製なので、それと同じようなゴミ箱を購入して、いつ来るのかなと期待して待っていたのです。

一体どこの国から輸送されてきたのやら。気を取り直して、ミニキッチンと洗面台の18cmの隙間に置いて見ようとしたら、なんと入らない。

えっ?実測してみたら20cmもある。購入履歴をみてみたら、やはり幅17cmと書いてある。これはひどい。

高さも測ってみたら、44.5cmのはずが、40cmしかない。つまり、タケは小さくなってやや小太りになったものが届いたわけです。

こんなものを堂々と配送してくるあたり、これは日本人には到底できない芸当だなと。商品のレビューページをみてみたら。

私と全く同じ目に遭った人がいて、返品を求めたらしいのですが、一円が戻って来たりと、驚きの内容が書いてありました。

つい最近の書き込みなので、私が購入する時には参考にできなかったのです。う〜ん、残念。さて、この不運はどのようにして吉に転じてくれるのか?

見ものだなあと、そんなことを思ってこのブログを書いているうちに、もうどうでも良くなってしまい、ブログのネタを一つくれたんだなと思って寝ることにします。

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「塞翁が馬」を直接経験させてもらった日

今日はとても不思議な1日でした。というのも、やったあ!よかった!と思うことが起きると、その次にはやばい!ということがやってくるのです。

ある人からのメールに、安堵したと思ったらそのすぐ後に同じ人からのメールの内容に気落ちさせられたり。

朝からこれは面倒なことになったかもな、と思ってどうしたものかと思案していたら、実際に先方に電話をしたら取り越し苦労だったと分かったり。

今日は長く待たされるだろうと覚悟していたら、その真逆が起きてすんなりと用を済まして帰ってくることができたり。

クレジットカードの更新の時期がやってきていて、サーバーの会社のサイトに入ってカード情報を更新しないと面倒なことになるなと。

そう思って気は重かったのですが、作業に入ったと同時にかつての自分が忘れないために更新の仕方をメモっていたことに気づいてみたり。

例の「塞翁が馬」を勉強させられたとしか言いようがないのです。その言葉の意味は、ネットによると次のようなものになります。

「不運に思えたことが幸運につながったり、その逆だったりするため、幸運か不運かは簡単には判断できない」

同じことがちょうど近くにいた友人の身にも起きたりして、今日は丸ごと「塞翁が馬」を教えてもらった大切な日でしたね。

子供の頃のコンフォートゾーンから抜ける

クライアントさんとのセッションを通して、私がやろうとしている心の癒しというのは、シンプルに表現するならどのようなことなのでしょうか?

それは、幼い頃に作ってしまったコンフォートゾーンから抜け出すことなのです。コンフォートというのは、居心地がいいという意味です。

それなのに、なぜそこから抜け出さなければならないのかというと、誰しも大人になっていく段階で自分のことをより知るようになるからです。

右も左も分からない子供の時というのは、例えば親の奴隷として生きている場合すらあるのです。

それでも、その子にしてみたら奴隷状態の中で何とかして自分の居場所を見つけようと頑張るのですが、そこが自分の居場所だと感じるわけです。

なぜなら、その子が生きているコンフォートゾーンの外側を知ることができないからです。コンフォートゾーンの内側がホームなら、外側はアウェーなのです。

大人になるにつれて次第に視野が広くなってゆき、奴隷生活などまっぴらごめんだと理解するようになるのです。

けれども、大人の自分が子供の頃のコンフォートゾーンから抜け出そうと頑張ってみても、そう簡単に親の引力圏から抜け出せなくなってしまっているのです。

一時的に外の世界の空気を吸って、ああ気持ちいい、自分は自由になったと感じたとしても、心理的ホメオスタシスが働いて、あっという間の元の木阿弥。

慣れ親しんだホームとしてのコンフォートゾーンへと強制的に戻されてしまうのです。だから、癒しの途中で何度ももう駄目なんじゃないかと思うわけです。

でもいずれは、見えない力が働いて新たなコンフォートゾーンへと旅立っていくことになるのだと思いますね。

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心に大きな傷を与えるのはトラウマだけではない

トラウマとは、個人で対処できないほどの圧倒されるような体験によってもたらされる心の傷のこと、とあります。

確かに、このような大きな心の傷と向き合うのは、とても勇気のいることなので、長いこと目を逸らして生きてしまうことにもなり得ます。

けれども、見方によってはトラウマになるくらいの体験というのは、本人にとって分かりやすいという点はあるのです。

逆に、本人は全く気付かぬうちにとても大きな心の傷を負ってしまう場合もあるのです。その多くは、幼い頃の日常的な親との関係性です。

子供のうちは家庭内の経験が常識化されてしまうので、どのような親子関係であれ当たり前になってしまいがちです。

例えば、子供にとって安心させてもらえないような家庭環境であると、大人になって不安が強く残ってしまうのです。

あるいは、親との心の交流が十分に与えられてなければ、困った時に助けてもらえないという信念が出来上がるのです。

こうしたことは、記憶に残るような大きなイベントがないため、大人になって過去を遡ってみても問題を見つけにくいのです。

その反面、その影響は非常に大きなものとなる可能性が大なのです。このような場合、セラピストとクライアントさんとの間に、認識の差が出てしまうことにもなります。

心にダメージを与えてしまうのは、トラウマのような一過性の体験だけでなく、日常的な毎日の経験の中にもいくらでもあるということを知る必要があるということですね。