自分が誰かを伝えることはできない

次の osho のいたってシンプルで完璧な言葉を味わってみてください。

『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ。』

自分のことは自分が一番よく分かってる、とうそぶいている人がたまにいますが、そういうタイプの人には上のoshoの言葉は響かないでしょうね。

私たちは、自分のことを他の誰かに向かって自己紹介する時、大抵は生まれはどこで、家族は、仕事は、趣味は、好きなものは…みたいな感じで説明します。

けれども、こうした内容というのはあなた自身のことではないですよね。つまり、自分の外側の情報ばかりを並べ立てるのです。

こういう情報を属性と呼ぶのです。属性をどれほどあげていったところで、それはあなた自身のことを一つも言ってないのです。

つまり、私たちは誰も自分自身のことを説明することができないのです。なぜなら、自分が誰なのかを知らないからです。

私たちが把握している自分というのは、記憶の中にある経験などの蓄積としての自分であり、それは単なるデータです。

仮にあなたが覚醒してしまったとしたら、それはそれであなたはきっと自己紹介など到底できないはずなのです。

なぜなら、紹介する対象としての自己、自分が不在になってしまうからです。つまり、一般人であれ覚醒した存在であれ、どちらにしても自分が誰かを伝えることは不可能だということになりますね。 

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一番近くにあるもの

駐車場に停めてあるクルマのところに戻る時、それが何時になろうが文句一つ言わずにじっと待っていてくれてるその姿に1秒くらいありがとうと感じるのです。

そして好きなように操らせてくれて、どこへでも私を連れて行ってくれるのですから、本当にいい奴なのです。

同じように、何時に帰宅したとしてもいつも変わらずに優しい雰囲気で私を迎え入れてくれる生まれたての家もいい奴。

新鮮な空気と快適な温度でもてなしてくれて、静かで穏やかな気持ちにさせてくれるその胎内で夜を満喫するのです。

人間はもとより、そういったモノであっても愛情を感じることができますね。その嬉しさの中で思考が止まります。

思考が停止すると、普段あまり気づくことができずにいたものが、より明確にその存在を表してくれるのです。

身体よりも近く、マインドよりももっと近くにあって、それがなかったことなどただの一度もなかったもの。

自分の一番近くにあって、どうやっても形容することのできないそれこそが、高次元まで繋がっている自己の本質なのでしょうね。

右脳優位の人々が増える!?

人から聞いた話しなので真偽のほどは定かではないのですが、100人に1人くらいの割合で右脳優位で生きている人がいるのだとか。

私の正直な印象としては、そんなに沢山いるのかな?という感じなのですが、それでも間違いなく一定数はいるんだなと。

さらに言えば、その割合は増えてきているのだとか。今後益々右脳優位で生きる人が増え続けていくのだとか。

それが正しいとするなら、きっと左脳優位の生き方が限界を迎えたということなのではないかなと思うのです。

自然の法則によって、極端な生き方が改善されてゆっくりと左脳と右脳の正常なバランスに戻っていくのではないかと。

それにしても今のところは、ごく少数の人たちなわけですが、きっと彼らは彼らなりに生きづらさを感じているのではないかと想像しています。

なぜなら、左脳が作った現在の社会のあり方に右脳優位の人々が順応できるとは思えないからです。

なんとなく想像できるのですが、彼らの特徴をいくつか挙げてみると、

-テレビを見ない(人々の雑談についていけない)

-残業しない(出世とかを考えていない)

-嫌なことはキッパリ断る(自分を大切にする)

-空気を読まない(そういうことに興味がない)

-人にどう思われるかを気にしない(人と自分を比べない)

左脳をフル回転させて、一生懸命社会に迎合してきた人にとっては、ワガママで扱いにくい人として敬遠されてしまうかもしれません。

けれども、彼らが起爆剤となって社会の奴隷のような生き方をしてきた人に、別の生き方があるのだということを示すことにもなるのかもしれませんね。

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中心が据わる

自分の肉体とは別にエネルギー体のようなものがあるとすると、私の場合その二つが綺麗に重なっていない感じがするのです。

なんでそんなことを思うのかというと、それはその二つが綺麗に重なった時がやってくることがあるからです。

それを体感してしまった時から、普段は結構両者の間にズレが生じているのかもしれないと考えるようになったのです。

実は、瞑想をしていて普段とは違う感覚になってきたなと感じる時に、それはやってくるのです。ピタッと重なるというのか。

他の言葉で表現するなら、中心が据わると言ったようなことかもしれません。身体の軸が中心に来てそれがまっすぐ垂直になる感じです。

だからとても気持ちもいいし、何か無駄がなくなったような感覚とでもいうのか。肉体と自分が一心同体にやっとなったような。

そうなると、浮ついたような感覚が消えてどっしりとした感じにもなるのです。日頃からこの状態でいられたらいいのになあと。

本当のところはどうなのかは分からないのですが、肉体以外の身体もあるというのはこうしたことからも見えてきますね。

書類の整理整頓と向き合う

今日はいつまで経っても苦手意識がなくならない、書類の整理をしてみました。家を建て直すにあたって、まず仮住まいのアパートへの引越しの時に一度。

そして、アパートから新居への引越しでもう一度。引越しのたびに書類の整理をしたつもりだったのですが、昨日まで段ボールの中でした。

今日思い立って、台風に背中を押してもらう気持ちで大嫌いな書類と向き合うこと数時間。今一通り終わってホッとしてこのブログを書いています。

と言っても、本当にきちっと誰がみても完璧に整理整頓ができたとは思っていないのですが、自分としてはこんなものだろうと。

とにかく、どういう分類方法が一番いいのかを考え出すと手が止まるのです。まだA4の形をしている書類はいいのです。

国や役所などからくるものは、封筒などの小ぶりな物ばかりで、これをどのように整理すればいいのかが分からない。

さらに、母親関係のもの、家関係のもの、契約書関係などの様々な分け方があって、それを考えているとまたすぐに空中を見つめることに。

書類の整理中に気が付いたことなのですが、時々は整理整頓をするようにすれば、どんな書類があるのかをある程度把握しておくことができるなと。

それだけでも、少し気分がいいように感じますね。せっかく綺麗に片付いたので、これからはやってきた新しい書類をポイッポイッと棚に積んでいくのをやめることにしようと。

そう気持ちを新たにしたのでした。いつまで続くかが見ものですけどね。

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全ては関係性で成り立っている

「A君とB君が朝落ち合って、互いに楽しくおしゃべりしながら学校へ行く」というのをイメージしてみてください。

この時、主役は勿論A君とB君の2人です。その2人が「落ち合って」、「おしゃべりして」、「学校へ行く」ということをするのです。

これらの行動は、2人の関係性の中で一緒に行われることです。このように分析すると、まず初めに2人の主役の存在があると考えられますね。

その2人がいるからこそ、その2人の間に関係性というものが生まれると。私たちはそのように捉えてしまうのです。

けれども、ブッダが伝えたかったことは関係性というものがあって、その両端にA君とB君がいるように見えるのだと。

これが「縁起」というあらゆる物事の根っこにあるものです。すべての事象は、縁起という関係性によって成り立っているのだと。

つまり、関係性なしに個別の存在などないよということになるのです。これは、自我からするととてつもない失礼なことですよね。

自我は、自分はどんな環境においても存在できると信じているのですから。でもそんな単独で存在できる「モノ」などなかったのです。

ああ哀れな自我さん。残念ですが、やっぱり個別の「私」というものは存在しなかったということですね。

お盆に故人が会いに来てくれるわけ

家内によると、昨年に急死した家内の親友が珍しく夢に出てきたというのです。きっとお盆だからかなと思ったのだとか。

それは確かにそうなんだろうけれど、じゃあなぜ死んだ人がお盆に会いに来てくれるか分かる?と私。

その理由は簡単。生きている人間が、お盆になると亡くなった人が会いに来てくれると信じている人が多いからですね。

つまり、お盆に亡くなった人を呼び寄せているのは、他でもない我々生身の人間だということです。

亡くなった人も元は人間なので、私たちと同じようなことを考えたり気にしたりするとしても、不思議ではないですね。

大学時代の友人が病気で亡くなる直前に、人は死んだ直後にどこへでも一瞬で行くことができるから試してみてねと言っておいたのです。

そして彼が亡くなって確か二日目だったか。彼が私の事務所にやってきたのです。突然置き時計がけたたましく鳴り出し、電子レンジがチ〜ンと音を立てたのです。

びっくりしたけれど、すぐにああ彼が来てくれたんだなと分かりました。その二日後にも、もう一度彼は訪問してくれたのです。

世間はお盆休みで、道路がガラガラでとても気持ちがいいです。たくさんの亡き人々が、懐かしい家族や友人に会いに来れたのならよかったですね。 

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私たち一人ひとりは、上位次元の何かの一側面でしかない

以前ブログに書いたのか、動画で話したのかは忘れたのですが、円柱という形のものを2次元で捉えると、様々な形となって現れると。

つまり、次元が低くなると高次元のものをそのままに捉えることができなくなり、いろいろな形に見えてしまうということ。

仮に円柱を光の面を通過させるとイメージしてください。縦方向に真っ直ぐ通過させると、通過している間その光の面上にずっと円が現れ続け、そして消えるわけです。

また横から通過させると、初めに円柱の高さと同じ長さの直線が現れて、次第にそれが細長い長方形から円柱の直径と同じ幅の長方形を経由して、最後に直線になって消えていくのです。

そしてさらに言えば、円柱をその光の面に向かってランダムに放り投げた場合には、それこそ無数の形へと変化をして消えていくことになるのです。

2次元の人から見たら、この無限に変化する形が3次元ではたった一つの円柱によって作られるなんて、想像することもできないわけです。

これと同じことが私たちが暮らしているこの3次元(あるいは4次元)の空間でも起きているのではないかと。

どういうことかというと、より上位の次元、例えば5次元に存在する単一の何かが、われわれの次元では無数の存在として見えるのではないか。

人間を見た時に、地球上には80億人ほどの人々が暮らしていますが、各々の人というのは単に高次元の何かの一側面なのではないか、とみることができます。

この感覚が明確になってくるなら、上位次元では全ては一つということになり、それこそが純粋な愛ということになるのでしょう。

あなたも私も、全ての人が互いに異なるバラバラな存在として捉えていますが、上位次元のたったひとつの何かの表れでしかないということですね。

自我に矛盾は付き物

人は誰であれ大なり小なりそれぞれの不満を抱えているものですね。不満が多い人ほど、文句をいうチャンスが多いのも事実です。

極端な例としては、目の前の現実を見ずに頭の中の妄想の中で白日夢のようなものを見て、ずっとぶつぶつ小声で文句を言っているような人がいますね。

そういう人を見れば、文句ばかり言っていれば決して満たされる人生などやってくるはずがないと分かるのです。

けれども、いざ自分自身のこととなると、やはり何らかの不満に対して文句を言いたくなってしまうわけです。

これは一体どうしたことでしょうか?幸せになれないと分かっているのに、決して文句を辞めようとしないのですから。

シンプルに言えば、満ち足りて幸せになりたい自分と、ずっと不満のままでいようとする自分がいるということ。

この相反する真逆の2人が、同時にマインドの中に存在しているということです。それが一般的な私たちのマインドの姿なのです。

こんな自己矛盾を抱えながら人生を生きているのですから、頭を抱えてしまうことがあっても当然かもしれません。

こうした事実をしっかり認識していれば、それほど思い悩むこともなくなっていくはずです。自我に矛盾は付き物ということですね。

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症状を見ていても問題の本質には気づけない

セラピストになって、まだ2〜3年くらいの頃、難しい症状をお持ちのクライアントさんとのセッションで悩んだことがありました。

それは、いわゆる強迫性障害とか、恐怖症などと呼ばれるような症状なのですが、その症状を緩和することさえできればいいのですが、セラピストとしてはその原因を知りたいと。

クライアントさんによって、具体的な症状は様々だったので、その症状ごとにどういった原因があるのかを検証しようとしたのです。

ところがその途中で、あることに気づいたのです。ああこれは、症状そのものを追及したところで、そこには意味がないなと。

要するに、そういったご本人にとって甚だ困ってしまう症状がやってくることで、人生を快適で気持ちの良いものから遠ざけることが目的なんだなと。

そう気づいた時に、これは私がずっと言い続けている「問題行動」(問題視してもらうための行動)の一種なのだなと分かったのです。

それが理解できたので、あとはもうずっと文句を言い続けているインナーチャイルドがいると、ご本人が気づくことが大切なのです。

その不満が解消されない限り、本人を幸せにしてはならぬ、と訴えているのですから。個別の症状をどれほど検証してみたところで、問題の本質には近づけないわけですね。