人生は迷路のようなもの

最近、視野とか視点の話をすることが増えてきたように感じていますが、今日もその視点の高さに関する内容です。

視点が低い状態とより高い状態では、後者の方がより多くの情報を見渡せるということは、直感的に理解できます。

例えば、迷路をイメージしてみればいいのです。迷路が楽しいのは、試行錯誤しながらやっとゴールに辿り着く、そのプロセスを楽しむわけです。

これは、迷路が存在する視点と同じ高さでのみできるゲームです。もしも、迷路を高い視点から眺めてしまったら。

最初から出口が見えているわけで、どの経路を通ったら最短でゴールに辿り着けれるかがすぐに分かってしまいますね。

これが視点の高さによる圧倒的な違いです。楽しみは減ってしまいますが、ゴールを目指すということに関しては有利です。

迷路を人生そのものに置き換えて考えてみると、視点が高い人ほど人生をスムーズに進めていくことができると分かります。

3次元空間に張り付いている我々自我が、人生を迷路のように感じてしまうのももっともな話な訳です。

けれども、より高次元の高い視点から見下ろしている意識の情報とコンタクトすることができれば、迷わずに人生を泳いていけそうです。

そのためには、自我という思考を頼りにするのをやめて、上位次元と繋がっている右脳優位で生きるようにすることですね。

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意識はこの3次元のものではない

人は死にゆくときに、それまでずっと人生で「これが自分だ」と思っていたものから離れていくのだと、oshoが言っています。

私自身もその通りだろうなと思うのです。実は、意識というのはこの3次元のものではないからです。

多次元に渡って繋がっているものなのだろうなと。この3次元をそのままに知覚するためには、より上位の次元でなければならないからです。

そのことについて、一つ次元を下げて説明してみます。2次元が平面であることは、周知の事実ですね。

2次元の紙の上に何かの文字を書くとします。その文字を文字として把握するためには、3次元空間から眺める必要があります。

2次元の中に住んでいる人からすると、視点によって変化してしまう複数の線分のようにしか見ることができません。

文字を書いた紙の面に水平に見れば、そうなることは想像できますね。つまり、2次元に書かれている文字を認識するためには、3次元が必要なのです。

それと同様にして、我々がこの3次元を認識するためには、時間を含めれば5次元以上の次元から見なければならないわけです。

これが、私たちの本質が5次元以上のものであることを物語っているのです。死んで肉体が滅びれば、残ったものは3次元から離れていく感覚になるはず。

そのことをoshoは説明してくれていたのですね。 

期待とは毒

私たち自我の人生というのは、「一瞬の喜びや快楽」と、その一方で「継続する欲求不満」とで構成されています。そのことにまず気づくことです。

あれこれと期待するので、それが叶った時にはその期待に見合った喜びや快感がやって来てくれるわけです。

けれども、それも束の間、あっという間にまた次のターゲットがやってきます。なぜなら、そういった満足というのは一過性のものだからです。

おっと危ない、喜びや快楽は一瞬だということに気付かれてはまずいとばかりに、すぐに次なる期待へと視点をずらすのです。

そのくせ、期待通りにいかない時にはその間ずっと不満の状態が継続するのですが、それでも諦めることができないのです。

自我は執着を使うわけです。執着によって、ターゲットに固着して、その不満を何とかして紛らそうとするのです。

こんなことを、一体どれくらい続けていけばいいのでしょうか?これは私自身にも言っている言葉であることは勿論です。

他人の自我を見ていれば、その期待を手放せば楽になるのになあと簡単に分かるのですが、自分の場合は難しいです。

そうして、自我のやり口に乗せられて人生を終えてしまうのは何とも勿体無い。osho が言うように、期待は毒だとはっきり気づくことなんでしょうね。

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テレパシーで隠し事ができなくなる世界の是非

我々人類が自滅の道を何とかして回避することができて、より波動の高い状態へと進化することが出来たとしたらどうなるでしょうか?

よく言われることですが、いわゆるテレパシーによってコミュニケーションをするようになるかもしれませんね。

つまり言葉を使わなくなるということです。情報をエネルギーとして伝送してしまうので、情報量はハンパなくなるはず。

そして一番大事なことは、コミュニケーションだけでなく自動的に互いの心の内を隠せなくなるということです。

要するに隠し事をすることが不可能になってしまうということです。えっ、進化の先にそんなやばいことが起きるの?と思ったあなた。

安心してください。その不安というのは、都合の悪いことは隠せるという発想があるからこそです。全てがバレてしまうことへの恐怖があるのです。

初めから誰もが隠すという概念すらない状態で生まれ育ったなら、そこはもうパラダイスになるはずなのです。

私たちの苦しみの大半は、隠すことができるという事実から来ているからです。嘘をついてばれる心配をせずに、一生を生きていけるのですから、最高ではないでしょうか?

そうなると例えば、カップルのどちらかが心変わりしたとしても、何も問題にされなくなるし、それはそういうものだということで済まされるはずです。

浮気という概念もなくなるでしょうね。お互いに真のカップルだからとか言って、一途さを約束するなどというバカバカしさは消えているはずです。

人の心を約束通りに縛りつけるなんて、古代の人々は面倒なことをやっていたんだねっていう時代になるということです。

「嫌よ嫌よも好きのうち」などという情緒は、その世界には残っていないでしょうね。それを是とするのか、それとも非とするのかは、人それぞれでしょうね。

あらゆるものの真ん中を極める

今日の osho の言葉も秀逸ですね。

『あらゆるものの中心を探しなさい。食べ過ぎたり、寝過ぎたりしないように。食べなさ過ぎても眠らな過ぎてもいけない。あらゆる物事の中心を見つけなさい。しゃべり過ぎないように、またしゃべらな過ぎてもいけない。中心を見つけ続けなさい。』

かつてブッダが言っていた「中道」と同じことを言っているのですね。マインドが幼いうちは、どうしてもどちらか極端に振り切る傾向があります。

白か黒か、善か悪か、子供はどちらかはっきりさせないと理解が難しいのですが、大人はどちらでもないに価値を見出せるのです。

ずっと以前にタモリさんが言っているのを聞いたことがあるのですが、「たしなむ程度に」というのが大切だと。

何であれ、やらないということではなく、何でもできるのですがやり過ぎない。やり過ぎは耽るということを意味します。

さりとて、全くやらないというのでもなく。ゴルフどうなんですか?と聞かれて、たしなむ程度ですと答えるんだとか。

本当はものすごく凝っているのに、それは大人としてはちょっと気恥ずかしいので、たしなむ程度ですと言うわけです。

セッションにおいて、ずっと物語を語り続けてしまうクライアントさんにも困るのですが、黙ったままのクライアントさんにはもっと手こずります。

どちらの場合も、それなりにちゃんとした原因があるので、そこから紐解いていく必要がありますね。

ブッダの言う中道、osho の言う中心を見つける。簡単なようでいて、実はとても難しいことですが、二元性から非二元へ遷移するためにも真ん中を意識し続ける必要があるのですね。

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太陽さんにありがとう!

「太陽の恵み」という言葉がありますが、普段はあまり意識して生きている感じはありませんが、皆さんはどうでしょう?

農家でお米を作っているとか、野菜や果物を栽培しているという人にとっては、死活問題なので毎日気にしているはずです。

元を辿ればすぐに私たちの普段の暮らしが、全て太陽の光がなければあり得ないことは理解しているのです。

毎日の生活に欠かせないエネルギーは、自然エネルギーはもとより風力であれ火力であれ原子力であれ、その全てが太陽光が大元なのです。

ところがそんなことはすっかり忘れてしまって、外を歩く時には日傘で太陽光を遮るし、部屋の中ではエアコンが必須のアイテムです。

そんな暮らしの中で、実は最近常に太陽が顔を出してくれているのかを気にするように生活に変化が起きたのです。

その理由は、新居の屋根自体が太陽光パネルでできている優れもので、そのおかげで太陽の光があれば電気代がかからないのです。

そのため日中に自動車を充電すれば、今まで月々1万円ほどかかっていた充電代がなくなってくれるのです。

上記は、今日のお昼前の状態で、電線との間が切れていて電気を買っていないことが示されています。家の消費電力4.1kWのうち3.0kW程度が車への充電に当てられています。

その上余剰分は蓄電池へ0.8kW充電中であることが分かります。太陽さえ顔を出してくれたら、その恩恵がヴィジュアルで明らかになります。

太陽の恵みをこんなにありがたい気持ちで受け止められるようになったこと自体、とても感謝できますね。

動画のアクセス回数の不思議

先ほど自分のYouTubeチャンネルを見てちょっとびっくりしたのですが、三週間くらい前に挙げた動画で、「瞑想のすすめ(実践あり)」というのがあるのです。

それが、こんな弱小チャンネルなのに、1,000回以上のアクセスになっていました。特別なにも考えずに撮った動画なんですけどね。

自分自身では、もっともっと大切な内容になったと思っている動画も沢山あるのですが、そういうものはあまりアクセス数が伸びない。

こうした自分と世間の皆さんとのどうしようもない興味のズレ、これはもう何をどうやったって埋めることは無理なのかなと。

確かに元々、誰1人として見てもらえないとしても勝手に好きで撮影して挙げるだけの動画だから、アクセス数などどうでもいいかと。

そう思っていたはずなんですが、ちょっと数字が伸びたものですから、欲が出てきたということなんですかね。

他にも、「意識的である事がいかに大切か」という動画も600回弱のアクセス数となっていて、私のチャンネルではとても珍しいのです。

不思議に思って、再度見直してみたところで、ごく普通の内容になっているだけで、これといった他との違いは見当たらないのです。

これからも、自分と皆さんとのズレを感じながらも、やっぱり自分の好きなように動画を作ってやっていければいいかなと思いますね。 

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「分からない」なりにやって行く

初めて挑戦することというのは、それがスポーツであれ楽器であれ、どんなジャンルであれ最初は皆目どうやればいいのか分からないものです。

なるほどという深い理解を得てからでは、いつになっても挑戦していくことなどできないわけですね。

かつてヒーリングを習ったことがあるのですが、左脳人間の自分には先生が一体何を言わんとしているのかが不明でした。

というよりも、そんなあやふやな言い方をせずにもっとしっかり説明してくれよ、とそういつも思っていたのです。

そうやって説明の内容に納得ができるまで、実践することなくただ漫然と待っていたとしたら、きっと何もできずに終わったはずです。

私の記憶としては、納得など程遠かったのですが、それでもとにかく実践するしかないと思って毎日のようにヒーリングをしたものです。

そうやっているうちに、あれ、こういうことなのかもしれないという気づきらしきものがやってきたりしたのです。

要するに、頭で考えて納得したいところですが、そこをそのままにしつつただ身体を使って実践することが大切なのです。

心の癒しも同じです。何回かしか私のセッションを受けていないクライアントさんは、私の説明が理解できないことも多いはず。

それでもめげずに、ただ言われたように実践し続ける勇気があれば、それはいずれ何かの形として現れてくるのです。

そうなったら、実践と理解を深めていくことを両立させながら、進めていくこともできるようになるのですね。

とにかく、初めのうちは実践あるのみですね!