ただ、今ここに在る

自分という存在が確固としたものであるなら、記憶データを使わずとも自分のことを伝えられるはずです。

ところが、記憶には一切触れずに自分が何なのかを説明しようとすると、何も表現することができなくなるのです。

自分とは、過去の記憶そのものではないのは確実だし、この肉体でもないし、思考でも感情でもありません。

そう言ったものを全て傍へ置いた後に何が残るのか、瞬間瞬間やってくるあらゆる感覚も、自分自身とは違うと分かっています。

どんな考えがやってこようとも、どんな喜怒哀楽に翻弄されたとしても、そう言ったものは自分自身とは違います。

最後には何が残るのか?何も残っていないような気がするのですが、それでもここに自分がいるという感覚だけは消えないのです。

面倒なものですね。その感覚が一体どこからやってくるのか?ただし、この自分がいるという感覚は、個人としているということではないようです。

なぜなら、個人であるという明確な理由づけがもはやできないからです。つまり、最後に残っている自分がいるという感覚は、「ただ今ここに在る」というものなのです。

これはもう人間としてのものではないでしょう。ただ在るということ以外はどんな説明もできないのですから。

それが自己の正体なのでしょうね。到底、この3次元の存在とは思えません。だからこそ、どこにいる?という質問には答えられないのですね。

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内側も外側もない

日頃からいつも外側で起きていることばかりに心を奪われているのではなく、内側に目を向けてくださいと言ってきたのです。

そのことが間違いでしたというのではないのです。その話しとは少し次元の違う視点で見直してみると、内側も外側もないという理解がやってくると言うお話しです。

というのも、内側と外側という分離は何を基準にしているのかと言えば、当然ですが自分の肉体なわけです。

肉体の内側を内側としてみて、肉体の外側を外側の世界としてみるという、当たり前のことなのですが、けれども自分の本質と肉体とは全く別物。

それが分かった時に、自分の本質からすれば内側と外側という区分けなど存在しないと分かるということです。

自己の本質が、純粋な意識であって、空間のようなものだとするなら、やはり内も外もないと分かるのです。

敢えて表現するとしたら、あらゆる一切合切が自己の内側にあるという言い方もできるかも知れません。

けれども、それも本当には正確さを欠いています。真実には、そうした概念などないからです。どんな言葉もどんな表現も当てはまらない。

ただ沈黙して全てを受け入れるしかありませんね。真実には疑問を感じる余地すらないということに気づけばいいのですから。

意識は空間に似ている

意識的であることをライフワークにしてしまえば、日常的にそこに注意を向け続けることができるのです。

そして意識的であればあるほど、その状態が次第に馴染んできてそれを自分のものにすることができるようになるのです。

そうなると、いいことばかりが起きてきます。意識の方に軸足が向くことで、思考は自然と静かになってきます。

そして、何があっても無関係である意識の存在に気づくようになります。それは、透明で形がなくて、境界もなく大きさがない、そういう何かです。

それを捉えるときに感覚という表現を使うしかないのですが、いわゆる五感のような感覚として感じているのではない。

五感は体から入ってきた情報を脳が解釈して、五つの感覚として感じることができるのですが、意識の方は身体も心さえも使わないのです。

いつも全体性という言葉で表現してきましたが、もっと分かりやすく言えば単に「空間」という感じでもいいのかなと。

意識的であろうとするときに、時として空間に意識をむけてみるといいかも知れません。空間も透明で形がなくて、境界もなく大きさがない。

先ほどの意識の特徴と同じであることに気づくと思います。是非とも、この感覚を体得して欲しいと思うので、なるべく意識的であろうとすることですね。 

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命を懸けて「ノー」と言おう!

先日、「今を生きる」という映画を見ました。今はもう亡くなったロビン・ウィリアムスが破天荒な先生役で、生徒が若き頃の有名な俳優たちが沢山出演しているのです。

イーサン・ホークの10代の頃など、見どころは満載でしたね。内容的には、全寮制の厳しい名門進学校の生徒たちに対して、その先生が「自分で考え自分らしく生きることの大切さ」を訴える映画なのです。

ややネタバレしてしまいますが、最初は呆気に取られていた生徒たちも、次第に自分は本当は何をしたいのかなどに目覚めていくのです。

そして中心的な1人の生徒が、演劇をやりたいことに目覚めていくのですが、父親にそれを厳しく咎められてしまうのです。

けれども、彼は頑張って主役の座を勝ち取り、それを立派に演じ切ったのですが、その喜びの頂点の時に、それが父親にバレて寮から家に連れ戻されてしまうのです。

そして、遠方にあるもっと厳しい学校へと編入させられようとするのです。父親が「何か言いたいことがあるなら言ってみろ!」というのです。

ところが、10数年飼い慣らされてきてしまった彼には何も言うことができずに、全てを飲み込んでしまうのです。

そしてその晩、彼はピストルで自殺をしてしまうという悲しいストーリーなのです。自分の命を犠牲にしてまで、「ノー」を言わないというのが何とも悔しい限りです。

このブログを読んで、何となく身に覚えがあるという人は、親と子供の双方の人生を台無しにする前に、セッションをしっかり受けて欲しいと思いますね。

ありのままを正直に知覚する練習

自分で分かったつもりになっていたことであっても、改めて他人からそのことを聞かされて認識を新たにすることってありますね。

昨日ある動画を見ていて、それを思い知りました。それは、「目の前にすでに展開されているものを、正直にただ見てみる」というものです。

自我というのは、無数の思い込み、観念、概念、そう言ったもので認識を嫌というほどに歪ませているのです。

ただ見てみるということがどれほど難しいかを知っていたのですが、やはり気付かぬうちに忘れてしまっていたようです。

自分では忘れていたわけではないという言い訳をしたくなるのですが、だとしてもそれを意識せずに生きていたなら同じことです。

自我のやり方というのは、例えば身体に痛みを感じれば、自分が痛いと感じていると解釈してしまうということです。

けれども、本当は痛みという感覚が起きているだけなのです。自分が何かを考えていると思っているなら、本当は思考が起きているだけだと。

自分が歩いていると思ったとしても、歩くという行為がただ起きているのだと。こうやって、自我を追い詰めていくのです。

自我としては、居心地が悪いのでなんとなく忘れさせてしまうということを裏でやっているのでしょうね。

知らない人の動画で思い出させてもらえたので、また地道にこれを続けていこうと思いを新たにしました。皆さんもぜひ試してみてくださいね。 

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意識的であれば物語から抜けることができる

もしもあなたが、周囲で起きている物語にばかり気を取られてしまって、自分を見ないでいるならそれはもう動物と同じなのです。

動物が悪いという意味ではなく、人間として生まれてきたのに動物と同じことをしていることが残念だということです。

起きつつある事象から外れた自分に意識を向けることができれば、そこで初めて自分の「存在」に気づくことができるのです。

存在というのは、物語とは違う次元にいるからです。外側には自分の存在を感じるための仕掛けがないのです。

物語の一つの断片としてしか自分を見出せなくなってしまうから、自分の存在価値という概念が生まれないのです。

これに気づくことができないままに大人になると、存在に代わる何か価値のあるものを見つけようとして人生を台無しにしてしまいます。

私がずっとずっと意識的であることが大切と言い続けているのも、実は意識的である瞬間、物語の外に立っていることができるからです。

1日のうちの数分でもいいので、あらゆる物語から距離を取っていられるようにするのです。すると、あなたの存在が際立ってきます。

物語とは無関係の自分という存在に気づくことができれば、人生の深い部分にも気づけるようになるはずです。

その全ては、意識的であることで現実のものとすることができるということですね。

プカプカ浮いているだけではつまらない

osho がまた瞑想について、分かりやすい比喩を用いて教えてくれています。

『瞑想は泳ぐのとは違う。浮かぶのに似ている。ただ川の中に横たわり浮かぶ人のようだ。手を動かすこともなければ、流れにも逆らわない。彼が静かに横たわっていると、流れが彼を運んでいく。彼はいかなる努力もしない。ただ浮かんでいる。』

生まれて初めて、あ、泳げるようになった!と思えた瞬間を覚えているのですが、それはどこかの川でしたね。

目を開けられないままに、ただ水中で平泳ぎの真似事のようなことをしただけですが、とにかく自分の足が浮いた状態でしばらくいられたわけです。

今思えば、お世辞でも泳げたとは言えないのですが、当時の自分としては泳げたと感じたわけです。

その後、顔を水から出したままのニセ平泳ぎができるようになって、そのだいぶ後になってクロールもできるようになったのです。

私の記憶では、水面に仰向けになってプカプカ浮いていられるようになったのは、その後だったと思います。

つまり、酷い自己流で泳ぐよりも、ただプカプカ身体を水平にして浮いていることの方が難しかったということです。

自我にとっては、身体を使って泳ぐことよりも、何もせずにプカプカ浮いていることの方が苦手なのでしょうね。

だから、自我は瞑想も苦手なわけです。どんな努力もせずに、ただ流れのままに浮かんでいるだけでは、面白くもないし自分を活躍させてあげることもできないから。

それが私たち自我の正直な性分なのですね。

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大人っぽい子供の末路

幼い頃に人並み外れて聡明で、大人っぽい子供っているものですね。その場合でも、成長するに従って、通常の子供の範囲の中へと戻ってくれれば問題はありません。

ところが、劣悪な環境で育ってしまうと、子供らしさを無くした状態のまま成長していってしまうことになるのです。

それでも表面的には、大人へと成長したかのように見えるのですが、内面は大人っぽい子供のままであることがほとんどです。

正常に大人へと成長した場合というのは、子どもらしく生きるべき時に子供として生きるプロセスを十分に経験できた場合なのです。

その経験が大人の土台となって、マインドの中にインナーチャイルドがいたとしても、おおむねは大人が人生を舵取りできるのです。

その一方で、大人っぽい子供がそのまま成長して大人になった場合には、その子供が人生の主人公として生きてしまうのです。

そうなると、大人たちの中に揉まれて社会を生きていくことになるので、本人としては相当にしんどいことになるはずです。

頑張っても頑張っても、一つも楽になることができないばかりか、理不尽な目に遭うことにもなってしまいます。

それは、幼い頃の過度な防衛をして辛い自己犠牲を強いてきた結果なのです。時間をかけて、丁寧に心の癒しをしていく必要がありますね。

大人のあなたが不在では癒しは進められない

癒しというのは、「大人のあなたを癒すわけではない」ということに気づいている必要があるのです。

大人のあなたが苦しかったり生きづらいと感じているとしても、それは現在のあなたに原因があるわけではないからです。

過去のあなたの人生で起きたあらゆる事象に対してどのように反応してきたのか、何をどの程度我慢させられてきたのか。

そうしたことが原因となって、マインドが傷んでしまったわけです。いまだにその傷が癒えないからこそ、心の癒しが必要なのですね。

けれども、ここで大切なことは過去のあなたを癒すためには、現在のあなた、大人のあなたの存在が不可欠なのです。

大人だけが癒しを進めていく必要性と方法を理解できるからです。それがなくなってしまえば、あなたは方向舵を無くした船のようになってしまいます。

ところが、最近つくづく分かったことがあるのですが、それは自宅に帰って1人になると大人が不在になってしまうクライアントさんがそれなりにいるということ。

その状態では、癒しは遅々として進まないのは当然なのです。癒しの先導役がいないまま、毎日を暮らしているのですから。

セラピストとのセッションをどれほど頑張ったところで、1週間にせいぜい1時間程度ではたかが知れています。

内容を覚えて持ち帰っても、自宅に戻ると大人が不在ではどうやっても癒しを進める手立てがないわけです。

どれほど力不足であれ、少しでも大人の自分がいるという自覚をなくさずにいられるように練習することが、すごく大事になってきますね。

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心静かにしていれば見えてくるもの

次の osho の言葉をしみじみ味わえるといいですね。

『在るそのもの
行為のなかの無為
動中の静
変化のなかの永遠
–それが<真理>だ
そして、それが<存在>なのだ
真の生はその永遠のなかにある
他のいっさいはただ一連の夢にすぎない』

何を言っているのかというと、私たちが日々目にしている事象、毎日体験している出来事や物語は、作り物だということ。

<存在>はその背景のようなものだと。別の言葉を使えば、より高次元へと遷移すればするほど、<無>へと近づいていく。

より抽象度が高くなるということでもありますね。私たちが存在していると錯覚している物理次元とは、抽象度が最も低い二元性の世界。

逆に言えば、最も抽象度が高くなれば、そこには表現できる何ものもなくなります。それが<空>でもありますね。

瞑想せずとも、ひとり心静かにしているだけでその感覚を垣間見ることができそうです。自我にとってはそれが魅力的には感じられないかもしれませんが。

こうした感覚、このような境地というのは何かしらの苦境に立たされていたりすると、どうしてもどこかへ消えていってしまいます。

つまりは自我のエネルギーが強くなればなるほど、かき消されて分からなくなってしまうのです。微かな芳香が、台風の嵐でかき消されるように。

けれども、嵐もいずれは過ぎ去って穏やかなエネルギーが戻ってきてくれるのですから、その時を待つということができればいいのでしょうね。