自分の本質という発想は自我のもの

自分は身体ではないということはある程度はっきりしていたものの、その身体の中に自分がいるという感覚が強かったのでしょうね。というか今もそうですが。

身体なんて元々ないんだとなったら、ものすごく心許ないというのか、居場所がないというような居心地の悪さを感じたのです。

貝を奪われてしまったヤドカリさんのような感じという表現がいいのかどうかは、ヤドカリさんに聞いたことがないので分かりませんが。

そしてそれはやっぱり、自分という存在がいるという信念が確固としてあるからなんでしょうね。

自分の正体を知りたいと思ってずっと探究してきたのですが、そのためには瞑想によって自分の本質に気づく以外にはないのだろうと。

でもはたと気づいたのです。自分の本質、自分の正体が自我ではないとなった時に、すぐさま代わりになる何かとして存在するはずだと。

そう勝手に思っていたことに気づいたのです。これがもうおかしなことですよね。自我ではないことはかなり明確になっているのですが。

自我の代わりになる何かを想定していること自体が独りよがりだったなと。自分の本質という発想そのものが、自我によるものだったわけです。

身体も自我も最初の最初から全くもってなかったと潔く認めてしまえばいいだけなんですけどね。でもその一方で、何もないというのはなぜか清々しい感じもしますね。

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