ちょっとした危機

これまで毎日コツコツと、特別な努力もせずに続けてきたこのブログですが、なんだか書くことがなくなってきたというか。

もちろんこれまでのように、変わらずに自我だ、本質だ、意識だ、と言ったことを書こうと思えば書けるはずなのです。

けれども、どうもその意欲が湧いてこないような感じがしていて、今困っているのです。どうしたものだろうかと。

というのも、このブログで書いてきたどんなことも全くの物語としか言いようのないことだとなってしまったからです。

物語という言葉の意味も、これまで使ってきた物語という意味とは違うのです。いや、似てると言えば似てるのですが。

決定的な違いを説明すると、これまでは思考が物語を紡ぎ続けてきたという言い方ができるのです。

ところが、今使っている物語の意味は、思考とは全く関係のないところでの話。文字で表すあらゆることが全て物語だということなのです。

私たちがこれが現実だと思っているものの一切合切が物語に過ぎなかったということです。これは困りましたね。

クライアントさんとのセッションはこれまで通りできるはずですが、もしかしたらちょっとしたニュアンスの違いは感じられてしまうかもしれません。

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非二元だけが残る

この世界の全てが例えば表裏、明暗、上下、幸不幸、善悪、長短などあらゆるものがこうした二元的なものによって出来上がっているのです。

そしてそれを否定するもの、つまり二元に非らずという「非二元」という世界観があるというわけです。

非二元の世界観では、何も何の違いもないということ。二元に見えるのは見かけだけであって、それは存在しないのだと。

それを見抜いたなら、非二元の気づきが起きたということになるのかなと。そうなると、そこにリンゴがある感じというのと、ここに自分がいる感じというのが同列になるのです。

リンゴはあたかもそこにあるかのように感じるけれど、それを感じている自分はいるように感じるのではなく、実際にいるのだというのはおかしいことですよね。

自分の存在もリンゴの存在と同じように、この世界にはあるように感じるけれど実はどちらも存在しないのです。

自分の存在を特別視してきたことがここでばれてしまいましたね。これは、どう感じようと逃げ場を失ったわけです。

あらゆる妄想を排除してしまうと、あたかもそのように見える、感じるということだけが残るのです。そしてそれは、二元に非らずなのですね。

「非二元」との再会

かれこれ10年くらい前になりますが、「非二元」というキーワードに関連する書籍やら、それを説く魅力的な人物たちが目立った時期がありました。

それが実際どういうものなのかを知りたくて、何冊かの本を読んだのを覚えています。「非二元」に気づいた?とされる人たちの言葉を聞いたりもしました。

そのころは、どうにも釈然としない感じが強くて、これは自分にはイマイチ嵌まらないものなのかなと。

とても残念に思ったものの、それ以上どうすることもできずに、「非二元」について語る彼らの不思議な言葉から離れていったのです。

そして非二元という言葉の意味を自分なりに勝手にでっちあげて、たまにはそれをこのブログで書いたこともありました。

それがここにきて、ある人物の一冊の本とある人の動画チャンネルとの出会いによって、また新たな「非二元」との関係が始まりました。

そしてほんの2〜3週間の間に、ふとしたことから小さな気づきが起きたのですね。と言ってもそんな大それたものではありません。

けれども、それでもこれまでの自分の探求の方法を辞めなければならなくなったので、個人的には結構大きなことだったのです。

この気づきによって、今まで以上にものごとには意味はない、善悪はない、そう言ったことが明確になりましたね。

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見えているものに意味も実体もない

先日の夜にふと気づいた直後に書いた言葉です。

あるものだけがあるって

それは何も表してはいなかった

ただそうしてあるだけ

どんな意味もないし

そう言う世界が広がっていると言うのが妄想』

周りに見えているもの、この世界は自分が思っているようなものではなかったということの気づきなんですね。

勝手に、想定してしまっているこの世界が広がっているという妄想を抱いていただけだと気づいてしまったのです。

だから、実は見えているものには何の意味もないし、何かを表現しているということでもなかったのです。

言ってみれば赤ちゃんが周りを見ている時の状態と同じなのかなと。赤ちゃんの目の前にリンゴがあれば、それに気づきます。

そして、触ろうとするし、舐めようとしたりするのですが、でもそこまでです。一方、リンゴのことを知っている我々は美味しそうとか、色々想像するのです。

私のその時の気づきとは、この二つの反応を分けることができたのです。そして、その想像には、リンゴという実在がそこにあると思い込んでいることが同時に含まれていることにも気づけたのです。

リンゴというものはないのです。あるのは、そこにリンゴがあるという感じ、感触だけ。実体はないのですね。 

自分の気づきと変化について

諸行無常というように、物事は常に変化し続けているというのはごく自然なことですね。それは私たち人間にも当てはまります。

とは言っても、しょっちゅう言うことが違うようであれば、誰からも信用してもらえなくなってしまいます。

要するに一貫性がないねえということになってしまうからです。それはよく分かった上で、今回ある告白をしなければなりません。

それは、私が日頃皆さんにお伝えしていることの根本の部分の考え方、こうだと思っていたことを撤回することになりそうだからです。

もちろん、メインの心の癒しについては基本変わることはありませんが、その背後にある私が真実だと思っていたことが変化してしまったのです。

自分の本質は意識だとか、全体性だとか、あるいは瞑想によって覚醒へと向かっていくといったことがなくなってしまいました。

あるいは、大好きだった宇宙の原理だとか、ハイアーセルフだとか高次元の存在など、スピリチュアルなことにも食指が動かなくなってしまいました。

その原因はある小さな気づきが起きたからです。ずっとこれまでなんだかんだ言って自我ベースの発想だったんだと気づいたのです。

その代わりに、この世界には何もないというかなり究極の事実に気付かされたのですね。だからと言って、人間である私自身には特別な変化は起きていません。

ただ、なんらかの形で気づいたことが活かせればいいのになとは思っています。できれば今後も変わりなくセラピーを続けていけたらとも思っています。

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謎にひれ伏す自由

あまりテレビは観ないのですが、たまに観るクイズ番組は結構楽しんで観ることができますね。特に、知識を競うようなものではなくて、ナゾナゾのようなものが好みです。

なぜそういうものが好きなのかなと言えば、きっと分からないことを解明することに快感を感じる習性があるのだろうと。

私だけでなく、これは人間全般に言えることだと思います。思考を受け持つ左脳というのは、何かを理解しようとする仕組みで動いている感じがします。

もちろん個人差はあって、何か分からないことがあっても、よく分からないけれどそういうものなんだろうで済ませる人もいます。

私はその真逆の人間なので、とにかく分からないことをそのままにしておくのが苦手なのです。ただし、興味のわかないものについては、完全に放置しています。

興味のあるこの世界、この宇宙の仕組みとか、自我についても色々理解を深めることにとても魅力を感じるのです。

それを仕事にしているのでとてもありがたいのですが、最近ずっと探求してきたことが、大きな曲がり角に来てしまった感じがしていて。

今度ばかりはどのように探求しようとしても、そうすればするほど得たい気づきから遠のくような感じがしているのです。

もう謎が謎すぎてお手上げ状態なのです。このまま探求を進めていったところで、先は見えているというか。

それでふと気づいたことがあるのですが、これまでの理解しようとする生き方から離れて、謎を謎としてそれを受容してしまおうと。

謎に対して観念するのです。謎に平伏してもうお手上げですとやってしまう。そうイメージしたら、何だか逆に清々しいような気持ちになれて。

ああこういう生き方もあるんだなと。謎と戦わないでいることの自由を初めて感じたような気がしています。という個人的なよもやま話でした。

視点がなかった頃に戻りたい

自分が一人の人間(自我)であると思い込んでいる限り、そこには必ずや視点というものが付きまとうことになるのです。

ここから見ているという視点。いつも自分がどこにいるのかを無意識であれチェックしているので、そこに視点もあることになるのです。

それが鬱陶しくて、目を閉じたとしても、なかなか自分の居場所(視点)がなくなるということはないのです。

自分がいると思うから自動的に視点が生まれ、今度は視点があると感じてしまうので、そこに自分がいるというループが生じているのです。

このループをどこかで断ち切ってしまいたいのですが、ありえないほどの強固なループになってしまっているようで。

自分の存在も視点も単なる思い込み、イメージ、妄想なんだろうことは分かるのですが、分かったところでどうすることもできない。

最もやってはいけないことは、視点がなくなったらどんな感じなのだろうと、また新しい妄想を作り出そうとしてしまうこと。

これは、どんな努力も無駄というか、しない方がいいのかもしれません。赤ちゃんや動物の世界には視点がないでしょうからね。

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あるのはクオリアだけ?

皆さんは、ものが見える仕組みを知っていますか?私もざっくりとしか説明できないですが、簡単に言えば以下のようなものですね。

光がものに当たって、それが反射して網膜の中に入り、それが視神経を刺激して、電気信号として脳へと送られて、あとは脳がそれを適切に処理した結果ものが見えるというわけです。

大体は間違っていないと思うのですが、以前から不思議に思っていたのですが、その電気信号をどのようにしたらものが見えているという感覚になるのか?

そこは科学が入る隙がないので、これまでずっとスルーされてきたのです。で、赤色をそれとして見えるあの感覚をクオリアと命名したようで。

名前をつけて終わってしまっているわけです。今の科学のレベルではどうしようもないと言ったところなのかも。

そこでちょっと気がついたのですが、例えば「目の前にあるコップを見ている」というのを想定してみてください。

この時に見えているのはクオリアなんです。ところが、私たちは長年の習慣でコップそのものをみていると錯覚してしまっているのです。

もの自体を見ることはできないのです。見えるのはクオリアだけ。ものが見えないというよりも、ものは存在しないという方がいいのかも。

少し前から、ものはないということは先端物理学で証明されつつあるということを書いたことがありました。

そこに繋がるのかなと。そしてまだ続きがあります。脳がクオリアを生み出せるとは到底思えません。

なぜなら、クオリアはいまだに科学が取り扱うことのできない何かだからです。ものが存在しないのであれば、自分の肉体も存在しません。

つまり、肉体の目も存在しないわけで、そうなるとただクオリアだけがあるということになりますね。

探求がなくなったらどうすればいい?

子供の頃から特に興味のある分野というものが見当たらないという自覚があって、社会の中でどう生きていけばいいのかが分からず。

それでも人並みの人生を送っていけばとりあえずのカッコは付くだろうと。そうやって、無理をした結果途中で社会から脱落したのです。

そこで今度は内面的な、精神的な目標を作って地味に成長していくということを自分に課してやってきたのです。

具体的には、自分の本質に気づくということだったり、覚醒するということだったりしたわけです。

ところが、ターゲットが何であれ、それは目標に向かって進んでいくという意味では全く同じ生き方だったのです。

さらに悪いことに、その目標設定が根本からして間違っていたということに今頃になって気づいてしまうとは。

とうとうここへきて探求が出来なりつつあるのです。探求が手詰まりになってしまうと、もう本当に何の目標も持てない人生になります。

そろそろ年齢的にはそれでもいいのかなと。自分の本質も、覚醒もどちらも「ない」ということが決定してしまったのです。

本当に無目的な人生というのに突入することになりそうな気配です。まだ少しだけ探求が残っているのですが、きっとそれもそのうちには消滅しそう。

有り余る時間を探求なしで、一体どうすればいいのかなと。

とんでもない間違いに気づいてしまった!?

人間生きていると本当に色々なことがありますね。最近、私に起きたことで非常に困ったことがあるのです。

それは、長年自分がこうだと思ってきたものが、実はそうではなかったかもしれないと気づいてしまったからなのです。

そんなことは誰にでもごく普通にあることなんじゃないの?と思うかもしれませんね。確かにそうなんです。

けれども、私の場合はただ自分の中で自分の思っていたことが違っていたなというのでは済まないのです。

なぜなら、これまでずっとこのブログや最近だと動画を通じて、皆さんにそれをお伝えしてきているからです。

ここで突然のように、私が伝えてきたことが完全に間違っていたとはなかなか言いづらいのですが、でもそうなのです。

セラピストとして癒しにまつわることを諸々お話ししてきたことについては、概ね間違ってはいないと思うのです。

ところが、癒し以外のことについては根本から勘違いをしていたかもと。例えば、今日アップした以下の動画はその代表例です。

自分の本質が意識だとか、その意識の感覚は全体性だとか、こうしたことがどうやら違うんじゃないかと。

それはあくまでも自我の立場からイメージしたものに過ぎなかったのではないかと。まだ確証は掴めてないのですが。

この動画は、少し前のタイミングで自分の間違いに気づく前に撮影したものですが、一応自分に対しても知らしめるためにアップしました。

そんなこんなで、しばらくの間私のブログと動画の内容は、ふらふらと彷徨い歩く感じがしてしまうかもしれません。

申し訳ありませんが、これが今の私の正直な心境なのです。

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