自我オブジェクトもやっぱり実在していない

左脳がやってることは、オブジェクト指向プログラミングでやっていることに酷似していると思っています。

この世界にあるあらゆるモノをオブジェクトとして扱うのです。りんごだったら、りんごオブジェクトです。

そして、りんごオブジェクトには、リンゴの特徴である丸い形、赤い色、甘酸っぱい味、いい香り等々が属性データとして与えられます。

あるいは、りんごの能力として、食べられるとか、潰されてジュースになる等も関数としてデータ化されるのです。

そうやって、りんごオブジェクトには様々なデータが付与されて、一つの立派なオブジェクトとして扱われるようになるのです。

左脳はあらゆるモノに対して、同様のことを行ってデータベースとして登録するわけです。でもここで気づくことがあります。

それは、最初に作ったオブジェクトの入れ物は仮想的なものだったということ。中が空っぽの入れ物だからです。

つまり、オブジェクトの中身である様々な属性や関数を取り除いてしまえば、後には何も残らないというわけです。

これが「モノ」はないということを表しています。それと同じことを自我に対してやってみると、やはり自我は仮想的な入れ物でしかなく、実体はなかったということになるのです。

自我の属性や関数として持っているものを洗い出してそれらを全て外に出してしまったら、後には何も残らない。これが自我オブジェクトの正体です。

架空の入れ物だったんだなと。それにしても、自我オブジェクトには膨大な量の属性や関数が投げ込まれていますね。

どれだけ肥えたオブジェクトになってしまったのでしょうかね。だから、自我は実在しないようには思えなくなってしまったのです。

物語の外に因果はない

これまでセラピストとしてやってきた心の癒しというのは、いつも言っていたように自我の癒しのことだったのです。

自我の病んだ心を癒して少しでも生きやすい人生になっていきましょうということです。そしてもう一つ、自我からも離れていけたらいいですねと。

苦しみの元は全て自我が作り出しているからです。ところで、自我というのは仮想的な存在であることもこれまで色々な形で伝えてきました。

自我は思考でできているよとか、だから思考が止まっている間は自我は活動できない等々。こうしたことの全ては物語だったのですね。

自我そのものが物語の中でしか意味を持たないものなので、自我の癒し自体も物語の一つに過ぎなかったということです。

こうした物語は今後もずっとなくなることなく続いていくのでしょうけれど、もう一方で物語は物語として置いておく。

そして物語とは全く別の世界へと好奇心が移っていく感じがしています。その結果がどうなるのかは分かりませんが。

物語に何らかの影響が出てくるのか、それとも何の影響もないのか。きっと後者になるような気がします。

なぜなら、因果があるのは物語の中だけだからですね。

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真ん中にいれば穏やかさを手に入れられる

「快を求め、不快を避ける」これが動物の本能と言ってもいいと思いますね。それは身体的なものであることがほとんどです。

ところが、人間だけはそこに精神的なものが入ってくるわけです。心身ともに、快をいつも求めて、不快からは遠ざかろうとするのです。

だから、嬉しいこと、楽しいこと、喜ばしいこと、気持ちいいこと、快適なことをいつも探し求めるのです。

その一方では、悲しみ、苦しみ、悩み、痛みなどからは逃げようとしてしまうのです。これはこれで当然のことだと。

けれども、現実は思い通りにはいかないもので、そのどちらも満遍なくやってきてしまうのです。

快ばかりがやってくるわけでもなく、不快ばかりがやってくるというのでもなく、ちょうどそのど真ん中。

快を求めれば求めるほど、その強さに見合った不快がやってくるのです。そうやって、相殺されるのです。

だからできることといえば、真ん中にい続けられるようにすることです。そうすれば、快と不快の大きさも和らぐことになるはず。

どちらが来てもOKですよと。そうやって余裕で真ん中にいることができれば、アップダウンの少ない穏やかな人生になりそうですね。

自分の本質という発想は自我のもの

自分は身体ではないということはある程度はっきりしていたものの、その身体の中に自分がいるという感覚が強かったのでしょうね。というか今もそうですが。

身体なんて元々ないんだとなったら、ものすごく心許ないというのか、居場所がないというような居心地の悪さを感じたのです。

貝を奪われてしまったヤドカリさんのような感じという表現がいいのかどうかは、ヤドカリさんに聞いたことがないので分かりませんが。

そしてそれはやっぱり、自分という存在がいるという信念が確固としてあるからなんでしょうね。

自分の正体を知りたいと思ってずっと探究してきたのですが、そのためには瞑想によって自分の本質に気づく以外にはないのだろうと。

でもはたと気づいたのです。自分の本質、自分の正体が自我ではないとなった時に、すぐさま代わりになる何かとして存在するはずだと。

そう勝手に思っていたことに気づいたのです。これがもうおかしなことですよね。自我ではないことはかなり明確になっているのですが。

自我の代わりになる何かを想定していること自体が独りよがりだったなと。自分の本質という発想そのものが、自我によるものだったわけです。

身体も自我も最初の最初から全くもってなかったと潔く認めてしまえばいいだけなんですけどね。でもその一方で、何もないというのはなぜか清々しい感じもしますね。

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再生リストを作りました

私の拙い動画を見て下さっているあるクライアントさんから、再生リストを作って欲しいとご要望をいただいたのです。

あれ、再生リストってなんでしたっけ?としばし考えたのですが、音楽動画などで日常的に作っていたプレイリストのことだったのですね。

私の動画は、ラジオと同じ聞いていればいいものなので、台所仕事などをしながらでも聞けるので、再生リストにすればリストが終わるまでずっと聞いていられて楽だと。

なるほど〜、すごくいい提案をいただいたなと思って、早速再生リストなるものを作ってみました。

実は最初の三つほどは自分の力で作ったのですが、残りは友人にやってもらってめでたく本日出来上がりました。得意不得意の差が歴然です。

そうして見てみると、なんだかいつものやりっぱなしの適当な動画チャンネルだと思っていたものが、少し立派に見えるから不思議です。

自分が日頃なんの脈絡もなく、その日に喋りたい内容をただ撮影してアップしているだけなのに、再生リストに名前がついてグルーピングされた途端、おおいいじゃないとなりました。

おかげさまで、今日の時点で17個の再生リストができましたので、ぜひみなさまご利用くださいね。

目標のない生き方だってあってもいい

好きなことを誰に構うことなく思いっきりやれば、人生は楽しくなります。そう言われても、特にやりたいことがないという人もいるはずです。

何を隠そう私自身がそのタイプなので分かるのです。これはもう子供の頃からなので、年季が入っているのです。

大人になって何もしたいことがないというのを大ぴらに言うと、変な奴とか、ダメな奴と言われてしまいそうなので、適当に隠してはきましたが。

この年齢になると、もうそんなことを隠す必要も感じなくなっているので、こうして普通に公言しているわけです。

人の生き方には大きく分けて2通りの生き方があると思うのです。一つは、目標を定めてそれに向かってまん進していくタイプ。

もう一つは、特別目標を作ることもなくただ毎日を暮らしていくタイプ。社会的に見て、どう考えても前者の方が高評価を得られるのです。

じゃあ、私のような後者のタイプの人はどうすればいいのでしょうか?きっと若い時は生きづらさを感じてしまうでしょうね。

やりたいことが見つからないので、目標を設定するといってもかなり嘘っぽいものになってしまうのは仕方ありません。

けれども心配はいりません。本質的には目標などいらないということを見抜くことさえできればいいのですから。

もしかしたら、そうしたことがある種の目標にもなるのかなと。ただし、社会的には全く見向きもされませんが、そんなことも構わないでいられることも目標にすればいいのですね。

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この宇宙には自分しかいない

子供の頃からとまでは言わないまでも、もうかなり前から感じていたことがあるのです。それは、この宇宙には自分しかいないんじゃないか?ということ。

この言葉だけ聞くと、ものすごくワガママというか、独りよがりというのか、傲慢な感じがしてしまいますね。

自分自身も、自分てそうなのかも知れないと思ったりもしたのですが、その後少し心の整理ができた時に分かったのです。

この世界に自分しかいないというあの感覚って、個人としての自分に対しての感覚ではなかったのだと。

この人間としての自分に対して、それ以外の誰もこの宇宙にはいないというのではないということです。

自分しかいないという場合の自分とは、全く人間としてではなくて、表現できないような全宇宙を占めるような、そんな感覚なんですね。

今他の言葉を用いるとしたら、いつもの全体性というアレです。全体性は全体なので、それ以外はないというのは当たり前です。

自分=全体性になった時にだけ、この世界には自分しかいないという感覚がやってくるということであって、これはごくごく当然のことだったのです。

というわけで、私は傲慢な奴ではなかったということです。実際、自分のことを傲慢だと思ったことは一度もないのですけどね。

それって、もしかしたら傲慢なのかも知れない? 

思考に頼るのをやめてみる

自覚があろうがなかろうが、1日に何度も何度も繰り返し思考によって答えを見つけようとしているのです。

あれが◯◯だったのは何でかなあ?って思ってみたり、これはきっとこうだからそうなったに違いない等々。

どれもこれも突き詰めれば思考で解決しようとしているのです。あの人との約束は何時だったかなあ?

この思い出そうとするのだって思考を使っています。どうやったら、この人にこのことを理解してもらえるだろうか?

今日やるべきことはこれで全部だったかなあ?とか、こんなこと言っても大丈夫だろうか?などいくらでもあるのです。

こうしたことの全部が思考を使って、思考に頼って答えを見出そうとする行為なのです。これで分かったと思います。

いつも自分をしっかりと観察していれば、こうしたことばかりやっていると気づくことができるはずなのです。

そして、それをやめてみるのです。すると、頭の中が静かになるのを感じることができるはず。これはかなりの効果があります。

思考に頼らないでいるようにするだけで、思考は止まるのです。思考を止めなければと思う必要はなかったのですね。

もしも興味があれば、是非試してみてください。

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何が真実なのか、全く分からない

私たちが日々体験していることって色々あるのですが、身体に関して言えばそれは五感を通してやってくるのです。

それにプラスして、思考、感情、気分などの精神的なものもやってきます。特に、思考は非常に多岐にわたっています。

概念とか、観念、あるいは信念、イメージ、そして記憶の多くも思考が操っているのですから、思考まみれといってもいいかも知れません。

そうした思考を頼りにするのをやめてみると、それだけでかなりこの世界を違った感覚で見ることができるのです。

ただ、実際に概念や観念を抜きに見るなんてことは至難の技です。例えば、部屋で1人静かに坐って目を閉じます。

その状態で残っているのは、身体からやってくる様々な感覚だけですね。けれども、その感覚が身体のどこからやってくるのかはイメージに過ぎません。

自分が今部屋の中で坐っている、というのも目を閉じた瞬間から単なるイメージでしかないということに気づくでしょうか。

そのようにして見ていくと、確実に分かっていることなんて一つもないということに気づくことになってしまいます。

実は何も分からない。理解というのは思考によるものなので、思考を抜きにすればどんな理解もやってきません。

そして自分は身体の中にいるというしつこい感覚さえも、実際にはイメージに過ぎないのです。それを証明することができないからです。

これは困ったことになりましたね。全ては曖昧なものであって明確なものなど一つもない。理解もできない。

これこそが本当のこと。それが起きていることなんですね。 

「キャッシュバック」って大嫌い!

いつの頃からかは忘れてしまいましたが、新規顧客を獲得しようとして誰かが考え出したシステムなのでしょうね、例の「キャッシュバック」。

和製英語のヘンテコな言葉。何かを契約したり購入すると、◯◯円のキャッシュバックが貰えますというアレ。

契約金などの一部が戻ってくるっていう意味なんでしょうね。それに釣られてということはないのですが、とにかくキャッシュバックがありますと。

で、貰えるものは貰っておこうというシンプルな発想で、それなりに期待しているわけです。1万円とか2万円とかその程度なのですが。

ところが、それがすぐに貰えるわけではなくて、ひどい時には半年から1年くらい後にならないと貰えなかったりするのです。

さらに、時間が経ったらいつでも貰えるわけでもなく、ある特定の期間しか貰えなかったりするのです。

きっと、一定数が忘れてしまったりすることを想定しているとしか思えないのです。こういうの本当に嫌いですね。

今回新しい家に合わせて、家人が冷蔵庫を購入したのですが、それにキャッシュバックがついていたのです。

指示されてる通りに、冷蔵庫の中に貼ってある情報を写メして、購入証明になるものと一緒に送ったりしたのです。

2ヶ月後と言うことで、やっとその時期がやってきてそれなりの通知が来たので、その処理を進めていたところ、エラーになってしまい、お金は貰えず。

クレームのメールを送ったところ、ようやく手違いがあったことが分かって、最終的には無事お金を受け取ることができたのです。

大嫌いなシステムなのですが、だからと言って無視してミスミス貰えるお金を貰わずにいるというのも、それはそれで損をした気がして嫌なのです。

結局、お金を貰えたとしても別にそんなに嬉しいわけでもなく、どっちに転んでもただ嫌いだということだけが明確に分かったのです。

世の中からこんなアホなシステム、一刻も早く消滅して欲しいと思っているのは私だけでしょうか?

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