知ってると思い込んでいたことが、実はまるっきり知らなかったと気づいてしまうと、もう諦めしかないですね。
そして、知っていることは何もないということになって、これはもう赤ちゃんと何も違わないということ。
知っていると思っていたことは、思考によって作り込んでいただけ。それはそれはリアルな感じがするので騙されるのです。
逆に、実体のないこの世界で何か知り得るものが一つでもあるのかと考えると、そんなものは全くないということになるのです。
何も知りようがないということを新たに知ったということでもあります。それで最後はここに戻ってしまいます。
つまりは、何かを知ることができる誰もいないということ。誰もいないのに、幻想は起きた感じがあるということです。
苦しみも喜びも起きてくる感じだけはあるのですが、当然そんなのは誰のものでもないということなので、安心ですね。
ないものとないものを比較してみたり、いない人といない人を比べてみたり、そのバカバカしさは相当なものです。
善も悪もないし、正誤もないし、新旧もないし、過去未来もない。今ここに生きるというけれど、今もここもありませんね。
上記のことと
こどもの頃に傷ついたままいる自分を癒やす
このことが、矛盾しているように思えるのですが、
癒やしのカウンセリングでは、
なにか
折り合いをつけているのですか?
非二元の話と癒しとは、全く折り合いなどつきません。なぜなら、癒しというのは、自我の癒しなので。自我ありきでセッションをしています。非二元でなくても、自我は幻想だということでも、癒しとは矛盾しますよね。そういうものです。誰もいない、自我もいないといくら言ったところで、自我として生きているのですから、癒しは自我の世界では必要になるということですね。