oshoの言葉が懐かしい

急にブログのエディターの具合がおかしくなって、段落を打ち込めない状態になってしまったので、仕方なくちょっと変ですがこれで書いていこうと思います。


今日12月11日は、敬愛するoshoの誕生日であり、同時に私の父の誕生日でもあるのです。父親の方はとりあえず関係ないのですが…。

ずっと長い間、osho の本(講話)を読んできて精神的な支えというのか、とにかくこれでいいんだと合点がいくのはoshoの言葉だったのです。

彼の一つひとつの言葉が全て、自分の思考や感覚はこれで良かったんだという得難い安心感を与えてくれたというのか。

ところがです。ここへ来て、非二元の気付きみたいなものがやってきてしまったがために、これまでのような感覚でoshoの言葉が聞けなくなってしまいました。

というのも、なぜoshoは非二元的な内容のことを言わないのだろうという疑問が湧いてしまうからです。

oshoは全てを悟っているはずなのになあと。もしかすると、そう言った気づきが弟子たちのためにはあまり役に立たないと考えているのかもと思うのです。

oshoの言葉を聞いているときは、とても楽しいし嬉しいし、自分の全てを捧げたいくらいの気持ちにもなれるのです。

けれども、非二元は夢も希望もその一切合切を奪われてしまい、救われたいと願っている自分もいないと気づいてしまったらねえ。

そんなわけで、気づく前と後とでどちらが良かったのかなと考えてしまうわけです。そうはいっても、やってきてしまったものはもう仕方ないのですけどね。

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