oshoの言葉が懐かしい

急にブログのエディターの具合がおかしくなって、段落を打ち込めない状態になってしまったので、仕方なくちょっと変ですがこれで書いていこうと思います。


今日12月11日は、敬愛するoshoの誕生日であり、同時に私の父の誕生日でもあるのです。父親の方はとりあえず関係ないのですが…。

ずっと長い間、osho の本(講話)を読んできて精神的な支えというのか、とにかくこれでいいんだと合点がいくのはoshoの言葉だったのです。

彼の一つひとつの言葉が全て、自分の思考や感覚はこれで良かったんだという得難い安心感を与えてくれたというのか。

ところがです。ここへ来て、非二元の気付きみたいなものがやってきてしまったがために、これまでのような感覚でoshoの言葉が聞けなくなってしまいました。

というのも、なぜoshoは非二元的な内容のことを言わないのだろうという疑問が湧いてしまうからです。

oshoは全てを悟っているはずなのになあと。もしかすると、そう言った気づきが弟子たちのためにはあまり役に立たないと考えているのかもと思うのです。

oshoの言葉を聞いているときは、とても楽しいし嬉しいし、自分の全てを捧げたいくらいの気持ちにもなれるのです。

けれども、非二元は夢も希望もその一切合切を奪われてしまい、救われたいと願っている自分もいないと気づいてしまったらねえ。

そんなわけで、気づく前と後とでどちらが良かったのかなと考えてしまうわけです。そうはいっても、やってきてしまったものはもう仕方ないのですけどね。

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失っていたダイレクト感が戻る

ウパニシャッド(バラモン教の奥義書)に次のような一節があるということです。「神は感覚に外を向かせた。そこで人間は外を見るようになり、内なる自己を見なくなった。だが時おり勇気ある魂が永遠の生を願い後ろをふりかえって自己を見出してきた。」

外側にばかり注意を向ける代わりに、内側に意識を向けるようにしましょうというのは、これまで散々お伝えしてきたことでした。

それはそれとして、今日お伝えしたいことは意識を向けるということではなく、リアルに内側をこの目で見ようとするのです。

そうすると、外側に見ていた景色と同じものが内側(反対方向)にも見えることに気づくかもしれません。

そのことで、自分はこっち側にいるということが間違いだったと気づくのです。どこにいるわけでもなく、敢えて言えば見えているものの中心にいる。

言葉を変えて表現すれば、見えているものそのものになってしまう感じがするかもしれません。これが視点がなくなる感覚です。

子供の時にダイレクト感がなくなったと感じたことがあったのですが、きっとこっち側(頭の中)から外を見ていることにしてしまったからかなと。

この視点が消える感覚になると、なくしてしまっていたダイレクト感が少し戻ってきたように思われるのですね。

自分の思考を信じる習慣

とても不思議な感じがするのですが、私たちは自分が思っていることを信じて、見ていることを信じないのですね。

これってどう考えても逆じゃないのかなと。だって、思っていることなんてただ思っていることでしかないのに。

その一方で、見ていることって恣意的に操作することはなかなか難しいわけなので。つまり真反対をいつもやっているんだなと。

たとえば、目の前にあるリンゴのように見えるものを見ている時、これはリンゴに違いないと思うわけです。

つまり、視覚情報からリンゴであることを断定(思い込む)してしまうのです。リンゴのように見えるというところで終わりにはしないのです。

でももし、見えているものを何の判断もなしにただ眺めるというスタンスをとるなら、リンゴかどうかは不明のままにしておけるはず。

それができないのは、自我の特徴として分からないものをそのままにしておきたくないという傾向があるのですね。

分からない状態とは不安と結びつくし、分かったと思うことで少しばかりの安心を手に入れることができるのです。

こうした根深い習慣を見抜いて、見えているその感覚をそのままにしておく練習をすると、これしかないということに気付けるかもしれませんね。

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「想定」を見抜く

今日も今日とて、自分がどのくらい「想定」によって周囲を見ているのかを考えているのですが、まあびっくりします。

何から何まで想定しまくりだということに気づくのです。自分がここにいて、向こう側にある建物を見ているとします。

自分と建物の間には空間があると想定しているし、両者の間には距離があると想定しているのです。

あの建物には実体があると想定しているし、最大の想定は自分はこうしてここにいるという想定かもしれません。

自分には肉眼があると想定していて、その肉眼で建物を見ていると想定しているんです。え、全部事実じゃないか!と言いたいのは分かります。

けれども、事実であるならそれを証明できるのかを検証してみることです。単に知らないということに気づくかもしれません。

確実なのはただ一つだけ、自分がここにいて、向こう側にある建物を見ている「感じ」だけがあるということ。

建物のように見えているのは、単に建物のように見えているだけなのですね。ものすごくシンプルなんですよね。

地道な定着の毎日を生きる

20世紀最大の物理学者であるアインシュタインが、次のような言葉を残しているんですね、興味深いです。

「現実は単なる幻想だが、とてもしつこい幻想だ」

そしてもう1人、テスラ社やスペースX社などの創始者で有名なイーロンマスクも、次のようなことを言っています。

「世界が仮想空間でない確率は数十億分の1である」

一人で地味〜な非二元の気づきを定着させようと、日々黙々とやっていたところ、上記のような天才たちの言葉に触れて、ちょっと嬉しかったのです。

ただ逆に、この世界は幻想だと言った内容の動画を見つけて、これはどうかなと思って見てみても、しばらく観ていると全然違うなとなってしまうのです。

当然のことながら、巷では特にネット上には様々な情報が無秩序に氾濫しているのですが、これは!と思える情報ってほとんどないんだなと。

そうした現実に翻弄されることなく、地道に定着して行くことしか今はないのだろうなと思うのですね。

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「幸せ」の勘違い

誰もがより幸せになりたいと願っているはずなのですが、その肝心の幸せが何なのかが本当はよく分かっていないのではないかと。

それが分からないままに、それを目指してもうまく行かないのは当然かもしれません。一度、具体的に「自分にとっての幸せ」を定義してみるといいかもしれません。

たとえば、不安が消えて安心することが幸せあるいは幸せに繋がる気がするという人は多いかもしれませんね。

けれども、どんな安心であれそれが一過性のものであるなら、今度はいつ不安がやってくるかと思って不安になってしまうのです。

そして、永遠に続く安心というのもあり得ないのです。となると、安心を求めたところで幸せにはならないと分かります。

あるいは願いが叶ったら幸せになれるというのもあります。お金持ちになったら、好きな人と結ばれたら、勝負に勝ったら、自分の価値が上がったら等々。

けれども、これらも叶ってしまうとしばらくはいいのですが、すぐに次の願いごとがやってくるのでキリがありません。

人間はもうこれで十分だというふうにはなれないのです。すぐにまた別の何かが欲しくなってしまうのですね。

こうして見てみると、なんだか幸せという名の幻を求めて生きている感じがしてきませんか?じつはそうなんです。

幸せを求めることをやめた時に、初めて心底の自由と本当の安堵がやってくるのではないかと思うのですね。

視覚のトリック

あるがままを見ることがいかに難しいかという話をします。なぜ難しいかというと、生まれた時からずっと概念や観念や先入観などを混入させてきたからです。

その方法の根底にあるのは、自分の周囲には空間があって、その空間の中に自分も含めた様々なモノがあるという発想です。

何を見るにしても、この大前提がまずあって、その上でそれぞれがどうなっているのかなと観ているわけです。

たとえば向こう側に壁があって、少し手前側にテーブルがあって、一番近くに自分が腰掛けているソファがあると。

このような空間的な位置関係を疑うことができなくなってしまうのです。また、テーブルによって隠された空間の向こう側にも何かが存在していると勝手に思い込むのです。

けれども、そのような空間的な大前提を使わないようにして見てみると、テーブルによって隠された何かがあるという発想も消えてしまいます。

同じようにして、自分の身体が常に視界の一番こちら側に位置しているという認識もなくなってしまうかもしれません。

まるで遠近感のない一つの絵画を目にしているという感覚になってしまいます。そして、これこそが空間とモノという勝手な見方から抜けた瞬間なのですね。

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空間と距離の概念の脱落

昔ハワイに遊びに行った時に、クルマで島をぐるっと回ったりしたことがあったのですが、その時の印象的な経験があります。

それは、海沿いの道が湾曲している絶景スポットでクルマを止めてしばしその眺望を眺めていた時のこと。

見えている景色が自分からどのくらいの距離の場所にあるのか、あるいはどの程度の大きさのものを観ているのか。

そう言った感覚が全く麻痺してしまったようになって、とても不思議な感じがしてしまい、何度も瞬きをした記憶があります。

極端に言えば、かなり遠い景色のはずなのに手が届くんじゃないかというように感じるわけです。だから相当に変だなということは分かっているのです。

つまり一般的な表現で言えば、距離感がバカになってしまったような。それに付随して、物の大きさの検討がつかなくなってしまったような。

今思えば、実はこれこそがあるがままを観ていた瞬間だったのではないかと。空間とか距離といった概念が使えなくなった瞬間なのかなと。

普段目にしている景色からかけ離れたものを見させられたために、無意識に作り出している概念が落ちてしまったのではないかと。

赤ちゃんが見ている世界ってあんな感じなのかもしれないなと思うのです。きっと一度や二度似たような体験を誰もがしているのではないでしょうか。

あそこに非二元につながるヒントがあるのだろうと思っています。

視点をなくす練習

モノはない、実体はないということの最初の気づきが来てから、早くも1ヶ月半くらいが経ちました。

これに名前をつける必要も本当はないのですが、でもそのきっかけをもらった書物や動画が非二元を謳っていたので、それを使うことに。

そしてそこから、これまでの瞑想を主体とする探求が影を潜めてしまったのですが、どうやらまた違う探求が始まるようです。

それは13年も前に一度取り組んだやり方なのですが、それがまた復活しようとしています。それは、ダグラス・ハーディングの方法です。

主には、頭がなくなる感覚による視点が消えるという練習ですね。これをやると、視点が無くなるだけでなく、空間や距離がイメージだったことにも気づけるのです。

普通の瞑想とはまた異なるある種の瞑想と呼んでもいいかもしれません。13年前には、今回ほど興味深さが続かなかったのですけどね。

今回は、実体がないということの気づきがよほど大きかったらしく、これは自我が幻想ということとは根本から異なるのです。

それと相まって、やってきた気づきを自分の日々の生活のなかで定着させたいという思いが強くなったのだろうなと。

ただ静かに瞑想するよりも、よほど面白いのです。どこまで続いて行くのかも興味を持って見守りたいと思います。

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こちら側には年齢という要素がない

昨日は自分の誕生日だったのですが、どうしてどうして相当に考えられないような年齢になってしまったなあと。

普段あまり見ない鏡をあらためて見てみると、なるほどなあと。自分の内側には年齢という要素がないので、普段は気づかなかったのですが。

それなりの風貌というのか、確実に老化してきている外見が鏡の向こうの自分には見て取れるわけですね。

けれども、繰り返しになりますが、こちら側では全く年齢という要素が見当たらないわけで、このズレをどうしたものかと。

年齢という要素がない場所に長らくいて、外側でばかりその年齢のフリはできるものの、内側でくらいは正直でいたいと。

そう、自分自身に正直でいることを心がければ、年齢は消えてしまうし、あえて言えば18歳くらいの精神性かなと。

そう考えると我ながら面白くなってきますね。皆さんは、ご自身の内側には年齢がないって気づいていますか?

これは内面ということではありません。私で言えば、こちら側では頭と顔を持たない状態で、外側も内側もなく見えているもの自体になっている感覚ですかね。