「信じる/信じない」を脇に置いてみる

非二元的な目で周囲を見回していると、自分が何を信じていたのか、そして何を信じていなかったのかを洗い出せるのです。

信じることと信じないことは同じです。なぜなら、神なんていないと信じることと、神がいるなんて信じないというのは同じだからです。

で、どちらであろうと自分が信じたり信じなかったりしていることは、非二元の世界には入っていくには邪魔になるのです。

つまり、様々なことをたくさん信じていると、非二元が難解に感じてしまうのではないかと思うのです。

逆にいえば、信じる信じないから遠ざかる、あるいはそれをやめてしまうことができたなら、非二元は馴染み深い感じがしてくるかもしれません。

これは非二元に限ったことではないはずです。信じるか信じないかという世界観は、考え方を狭める働きがあると思うのです。

これは知識とも関連しています。「知っている」と信じているのですから。やっぱり、何も知らない無邪気な赤ちゃんのようになれたら簡単かもしれないですね。

赤ちゃんは何かを信じてるなんてないだろうし、何かを信じていないということもないはずですからね。

体験するためのデータはダウンロードされる

非二元って、物語性が全くないのですね。そりゃあそうですよね、時間も空間もなくて誰もいないのですから。

どう考えたって物語が現れる余地が何もない訳です。意識もないし、魂もないし、もうシンプル過ぎて、潔過ぎるなと。

とはいえ、毎日の人生物語は続いていくわけで、そこにいると非二元は非二元として、死後の世界は?とか、輪廻は?などの疑問は依然として物語の中ではあり続けているのです。

そんな中、たまたま観た動画で、人間は死ぬとどうなるのか?ということや、どのようにして生まれ変わるのか?といった内容を詳細に説明されていたのです。

へえそんなもんなの?と物語とは言え、興味深く観ていたのですが、その中で「おやっ?」って言うことがあったのです。

それは、この現実は全て幻想だということ。物質というのはないということを言っていたのです。あれ、ここは非二元と同じだなと。

しかも、瞬間瞬間の経験を実現するためのデータがダウンロードされるとのこと。おお、なんか分かる気がする。

物語の中とはいえ、この感覚はどこかで感じていたと思うんですよね。とてもしっくりくる感じがして面白かったですね。

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人生物語は続く

幼い頃に、たった一度だけ親にせがんで絵本を買ってもらったことがありました。それは「一寸法師」の絵本です。

小さくてか弱い主人公が勇敢にも悪を倒して、最後には打ち出の小槌で大きくなってお姫様と結ばれるという物語ですね。

小さな一寸法師に幼い自分を投影していたんだと思います。そんな物語ほど刺激的ではないにせよ、私たちは誰もが自分の人生物語を日々経験しています。

そしてその人生物語をリアルだと信じています。けれども、リアルなのは経験だけで、人生というのはあくまでも作り物の物語なのです。

物語は、過去から未来へと流れていく時間の中であらゆる原因と結果の繰り返しを継続していくわけです。

けれども、それがどれほどリアルに感じたとしても、妄想の類でしかないということです。イメージであり、作り物なのです。

果てしなく続く時空間の中にあらゆるモノが存在して、その中に自分や他人やその他の生物や鉱物があるのだと。

いい人もいれば悪い人もいて、自分という個人はその中でもみくしゃにされなが悲喜交々の毎日を送っていると思っています。

でも冷静になって外側を見回してみると、外側も内側もイメージに過ぎないと分かります。その結果全ての知識もイメージだったんだなと。

とはいえ、これまで続いてきた物語がここで終わることなく、また淡々と続いていくように見えるのですから不思議ですね。

何を体験してもいつかは普通になってしまう

会社員生活をしているときに、この仕事から解放されて自由に好きなことを仕事にして生きていけたらどんなにいいだろうと思っていました。

ある日それが、本当に実現してしまったのです。今の仕事をし始めた時には、まだ日々の生活スタイルに慣れなくて、やった〜!という感じにはなれていませんでした。

けれども、しばらくして仕事が安定してきた時に、ああこれで生きていけるなと分かった時に、深々としたありがたいという気持ちが湧いてきたのです。

そして、会社員生活と今の生活とを比べた時の驚きと感謝は忘れることができません。今もその気持ちがなくなりはしていないのです。

ただし、過去を思い出すことが少ないということもあって、これがもう普通の生活として定着してしまったので、殊更なんとも思わなくなったのです。

どれほど素晴らしいことであれ、それが時間と共にごく当たり前のことのように感じるようになるということですね。

ある動画を観ていたら、人が死ぬと一般的には源へと戻っていくのだと。それはそれは筆舌に尽くし難い快感、心地よさなのだそうで。

じゃあもうそこに永遠にいればいいじゃないと思うのですが、それもやはりしばらくするうちに、また肉体を持って生まれ変わりたいと思うようになるらしいのです。

誰も誰かに強制されてこの世にやってくるわけではなく、好き好んで自ら性懲りも無くやってくるらしいです。

真偽のほどは分かりませんが、私たちは手に入れたものはいずれ当たり前になるという習性を持っているのですね。

結局、世界中の誰であれ例外なく、ずっと満たされている状態でいられる人というのはいないということなんですね。

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トリプルパンチは辛い

一般的な認識として、子供は無邪気なものだけれど、大人になれば様々なことを考えなければならないので、そうはいかないのだと。

言いたいことがあっても、それをそのまま職場で口に出せば大変なことになってしまうなど、すごく気を遣いながらの生活を強いられたりします。

けれども、実はそうやって気を遣って自由な自己表現ができないのは、子供も同じなのです。むしろ、子供の頃の方が場合によっては深刻です。

なぜなら、子供が暮らしている家庭というのはクローズドな世界なので、弱い立場の子供は助けを求めることができないからです。

自由な自己表現を抑えてしまうことになる3大要素というのがあります。この話はもう何千回となくセッションでは披露しています。

その3つの要素とは、恐怖、可哀想(罪悪感)、自己否定です。たとえば、父親のことを恐れていれば、父親に対する自己表現はできなくなります。

また、父親にいじめられて可哀想な母親がいるなら、かばってあげなければならない相手なので、やはり自己表現は影を潜めてしまいます。

最後に自分が悪いのだという想いを植え付けられてしまうと、自分を縛ってしまうので自己表現は抑えられるのです。

この3つの要素のうち一つでもあれば、子供のうちは特に自己表現(感情表現)は自然と抑えられることになるはずです。

場合によっては、二つが同時にあるなら、それはダブルパンチになってより一層の強い力で抑圧されることになるのです。

もしも3つの要素が全て該当するなら、つまりトリプルパンチの状態で育ったとしたら、自己表現などできなくなることは想像に難くありません。

自己表現が苦手だなという自覚があって、それをなんとか改善したいと思っているのでしたら、上記のような要素に心当たりがないかどうか、過去を見つめてみることです。

そして、該当するということであれば、効果的な癒しを進めていく必要があります。セラピストの力を借りてでも改善していければ、より自由な人間関係を築いていけるはずですね。

できるだけ遠くへ行きたい気持ち

高校生の時に同学年の女子の一人が、今話題のフジテレビに入社していわゆる女子アナになったのです。

もうかれこれ50年近くも前のことなので、多くの人はその人のことを知らないかも知れませんが、とにかくお茶の間の顔ですよね。

ところが、しばらくして彼女はアメリカ支局へと転勤してしまったのです。なんであの華やかな世界から、自ら遠ざかったのかなと。

少し疑問に感じていたのですが、最近のフジテレビにまつわる様々な情報を見聞きしていて、もしかしてと。

勝手な憶測に過ぎないのですが、女子アナの上納システムのような物があったなら、嫌気がさして海外へ行ったとしても不思議ではないなと。

人間と言えども動物なので、本能的に嫌な場所からは最も遠いところへと逃げたくなるのは当然のことですね。

海外留学などで若いうちに海外へ行く人が多いですが、異文化に触れたいとか語学を勉強したいといった目的があるのでしょう。

けれども、その奥には生きづらい家からできるだけ遠い場所に逃げたいという隠れた目的がある場合もあるのです。

人間居心地が良い場所から離れたいとは思わないものですからね。

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より自然な生き方を手に入れる

ネガティブな性格で生きるより、ポジティブである方が良いでしょうというのは、ほとんどの人に異論のないところではないかと。

日本語で言えば、後ろ向きな生き方よりも前向きな方が良いということです。同じことを体験しても、両者の違いは明白です。

他の言葉で表現するなら、否定的であることと肯定的であることの違いとも言えますね。これが要するに二元の世界です。

このどちらでもないのが非二元です。けれども、非二元という言葉を使う必要なんてさらさらありません。

私自身、非二元とは関係なくずっと以前から二元の世界を生きるよりも、そのど真ん中である中道を生きるのが良いのだと言い続けてきました。

自分のことをネガティブだと思っていると、ポジティブになりたいと願うのは当然のことですね。

真反対の方向へ行こうと頑張るわけです。実は一番大切なことは、今の自分を否定しないということなんですね。

ネガティブだろうが、否定的だろうが、まずはそれを受け入れることから始める必要があるということです。

それと同時に、そう思い込んでしまった原因をつまびらかにするのです。心の奥にある自己イメージをしっかり見ること。

そして間違った自己像を修正していくのです。それを癒しと呼ぶわけです。このプロセスを実践していくことで、自分の存在価値に気づいていけるのです。

その結果、ネガティブだろうがポジティブだろうがどうでも良いというところにやってくることになると、より自然な生き方になっていくということですね。

招き猫よりも、よほど効果がある方法とは?

自分の家には幼い頃からなかったのですが、どこかで「招き猫」のことを知るんですよね。大人になると、飲み屋さんなどに置いてあったりするのを見たり。

招き猫を好んでおいて置く目的は、欲しいものを招いてくれるという期待からです。それが幸せだったり金運だったりするわけです。

商売繁盛とかに効果があるなら、私も事務所に置いておきたいと思いますが、そんなことはないだろうと思っているので。

この招き猫は引き寄せの法則とも似てるかもしれないですね。招き猫は猫が都合のいいことを引き寄せてくれるのだと。

一方引き寄せの法則は、本人のエネルギーがそれに相当するような現実を引き寄せることになるということですね。

ただし、招き猫はどうだか知りませんが、引き寄せの法則となると都合のいいことばかりがやってきてくれるというわけにはいきません。

自分自身の内側に溜め込んできたエネルギーに相応の現実が、外側の世界からやって来るわけですから。

だから、悔しい気持ちや悲しい気持ち、あるいは惨めな思いなどで溢れていれば、それを一層強化するような現実がやって来ることになると。

ならば、自分の身に起きることはある程度仕方ないとしても、内側ではなるべく平穏でゆったりした状態でいられるように務めることは意味があることですね。

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