どんなことでも普通になってしまう

思えば会社員の頃の生活よりも、今の仕事をするようになってからの方が長くなってしまったようで、自分なりに感慨深いものがあります。

会社員の頃というのは、とにかく休日が何よりも大切という感覚で生きていましたね。平日があまりにも忙しかったからです。

さらに言えば、せっかくの日曜日でも自主的に出勤してることも多かったので、とにかく家で寛ぐことが非常に大事だったわけです。

ところが、今の生活になって言ってみれば毎日が日曜日のような感覚になってしまったのですね。なにしろ、誰にも強制されることがない。

クライアントさんがいらしてくださったら、何とまあありがたいことかと感じながら、興味深いセッションをすることができるからです。

労働と感じたことは一度もなかったですね。ところが毎日が日曜日となってしまうと、今度はそれが普通になってしまうのです。

会社員の時の休日という非日常の感覚がないわけです。どんなことであれ、それが日常になってしまうと非日常感を味わうことはできなくなるということ。

それでもたまに会社員だった頃の辛さを思い出せば、今の生活がどれほどありがたいかを感じることができるのですが。

ただ休日のあの特別感はもうやってくることはないのですね。人間て本当に贅沢なものなんですね。

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ソフトウエアは顕微鏡でも見つからない

これまでの科学というのは、客観性を土台として発展してきました。主観というのは曖昧なものだからですね。

ある理論を仮定して、あらゆる実験を繰り返して客観的なデータを得ることで、その理論が証明されたとするわけです。

誰かが、この理論が絶対に正しいといくら主張しても、それは主観的な範疇のものだから客観的な裏付けがないので認められないのです。

そうやって一つひとつ進歩を遂げてきたのですね。けれども、その方法だけではこの先行き詰まることになりそうです。

特に人間の脳を科学的に解析していくためには、客観的なデータの蓄積だけでは最も大切な意識とか無意識の研究はできないのだろうなと。

というのも、現在やっている方法は脳を直接物理的に解析する手法だけなので、これはコンピュータのハードウエア回路を解析することと同じ。

それだけでは決してコンピュータの能力を見出すことはできません。実際に、ワードやエクセルなどの機能は、ソフトウエアによるものです。

ソフトウエアは、どれほど詳細に半導体回路を解析しても見えてはきません。それと同じことが脳についても言えるのかなと。

脳という集積回路の中で、どのようなプログラムが活動しているのか、それを調べることでしか脳の働きを本当には理解することはできないのでしょうね。

脳があればという前提ですけどね。

マズローの欲求階層

マズローはかつて人間の欲求を5つの階層に分類したのですね。一番下から見ていくと、次のようになっています。

1番目の階層は、「生理的欲求」というもの。生きるために必要な基本的な欲求であり、たとえば食事、水、睡眠、呼吸、排泄など。

2番目の階層は、「安全の欲求」です。生命や生活の安定を求める欲求であり、たとえば健康、経済的安定、住居、治安などです。

3番目の階層は、「社会的欲求」です。人と繋がり、仲間や愛情を求める欲求。たとえば、家族、友人、恋愛、職場の人間関係など。

4番目の階層は、「承認の欲求」です。他者から認められたり、自分の価値を感じたりしたい欲求です。たとえば、仕事の評価、地位、名誉、自己肯定感など。

5番目の階層は、「自己実現の欲求」です。自分の能力や可能性を最大限に発揮したい欲求です。たとえば、創造的な活動、夢の実現、自己成長など。

そして後の研究では、「自己超越の欲求」というのが付け加えられたという説もあるらしいですね。

それは、社会貢献や他者のために生きることを求める欲求です。下の段階の欲求が満たされると、次の段階の欲求を求めるようになるとされているようですが。

「自己超越の欲求」で生きているなと思える人を複数名知っていますが、自分はそこには一生到達しない気がすごくしますね。

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テレビ時代の終焉

久しぶりにちょっと面白いテレビドラマを観たのですが、ネットで観たので連続して全ての回を通しで観れるのがいいですね。

テレビで観ると、続きを観るのに一週間待たなければならないのが辛い。大人になってからは、そうでもなくなりましたが。

子供の頃は、観終わったあとすぐに、ああ一週間も待つのは地獄だなあなどと思っていたことを思い出しますね。

そういう意味では、本当にいい時代になったものです。自分の都合のいい時間に好きなだけ続けて観れるわけですから。

しかも、全く興味のないCMを観ずにいられるのも本当に助かります。もうテレビで直に観る時代には戻れそうもありません。

聞いた話ではあるのですが、テレビでCMを流してもほとんど売り上げに影響しないというデータがでているらしいですね。

もちろん商品にもよるのだと思いますが、私自身昔からCMを観て、ああこれ買いたいなと思わされた記憶がないのです。

それよりも、SNS上に出てくるCMの方は、時々魅力的な商品が紹介されるので、実際にそれで購入したことも何度かあります。

もうそろそろテレビの時代の終わりが、実際に始まりつつあるような気がしますね。

ただ見抜くということ

体験だけがリアルということに気づくと、どんな体験であれ何も違いはないということにも気づくことになります。

違いがないというのは、体験に優劣はないし、どんな意味もないし、善悪もないし、ということなんですね。

オーバーに聞こえるかもしれませんが、いわゆる覚醒体験をしようが、ただ暇を持て余して家でゴロゴロしている体験であれ、同じなんです。

アメリカの大統領になって世界中を動かそうが、毎日毎日小さな畑を耕そうが、何も変わりはないのです。

リアルさというのはそういうことです。価値判断とか、そこに違いを見出すということは妄想であり空想でしかないからです。

私たち自我というのは、何に対してもそこに何らかの意味を見出そうとしてしまうのですが、意味などどこを探そうがないのは明白です。

こうしたことを見抜くのに、ことさら非二元という概念を導入する必要もありません。これはただ見抜くということです。

瞑想によって思考を止める必要もありません。自我ど真ん中で生きていてもそこに問題はないのです。

ただ見抜けばいいだけなんです。付け加えるに、この見抜くという体験も見抜かない体験も何も違いがないということでもありますね。

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久しぶりにワンネスの話

私たちの身体の司令塔は何といっても脳ですね。脳がさまざまな情報を取得するとともに、それをコントロールしようとするわけです。

脳が取得する情報は、外界のものと身体の内部のものとがあります。どちらにしても、脳は直接知ることはできません。

つまり、間接的にしか知ることはできないのです。外界を知るためには、身体の感覚器官を用いてデータを取得するのです。

また、身体の内側については内臓や筋肉、神経などを経由して情報を得るわけです。このように、脳が知る方法は全て間接的であるわけです。

脳がそれ自体を知る方法はありません。このことは、意外なことでも何でもなく、何であれ何かを知るということは、全て間接的であるということなのです。

私たち人間にしても、自分のことは他人を通して知るわけです。自我の生い立ちを見てもそれが言えます。

自我は、他人が自分をどのように見ているかによって、自分というものを作り込むのですから。

スピリチュアルで言われるワンネスも全く同じ。一つしかなければ、それはそれ自体を知ることができないの、それを便宜上分離させてそれを知ろうとするのです。

その一つひとつの細切れが私たち一人ひとりであるという発想ですね。珍しく、ワンネスの話を書いてみました。ちょっと懐かしい感じがしますね。

どんな体験であれ違いはない

ダグラス・ハーディングの実験と初めて出会ったのは、もうかれこれ15年くらい前のことになると思います。

このブログや動画でも何回か触れたのですが、彼の実験をしてどのような体感を得られたのかについて、少し詳細を述べてみたいと思います。

いつも見ている向きと180度反対の、自分の顔の方を真面目に見ようとした時、びっくりするようなことが起きました。

それは、自分という存在が剥き出しになってしまったような感じでした。それまでは、身体の中に隠れていたものが、身体の外へ出てしまったような感じです。

そのために、身体に支えられていた自分が身体の内側から外側へと転がり落ちるのではないかと感じたのでしょうね。

そして、自分の顔も頭もそこにはありませんでした。今この瞬間も、それを体感することはできますが、あの時のような衝撃は減ってしまいました。

そして透明で形もない自分とこれまで見てきた外界との区別ができなくなった感じもやってきましたね。

あの時、やっぱり距離とか空間というものに対する感覚も何か通常とは違ったものになっていたと思います。

そして、自分がここから世界を見ているという感覚から、代わりに「自分=世界」というような感覚になったかもしれません。

ただこの体感の変化も、単なる体験だとしてしまうなら、非二元的には他のあらゆる体験と何の違いもないということになるのですね。

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脳が創り出す世界

私たちの共通認識としてあるのは、自分の身体の内側が自分自身であって、身体の外側には広がりのあるこの世界があるのだと。

ところが、外側に広がる世界を直接見ることは誰にもできません。私たちが体験できる世界というのは、あくまでも脳の中で作られた世界だけ。

感覚器官が取り込んだ生データを脳が解釈して、きっとこんな世界が広がっているのだろうという予測を元に勝手に作り込んだのです。

その脳の中の仮想世界を本当の世界だと思い込んで生きているというのが実情なのですね。じゃあ一体全体本当の世界とはどうなっているのか気になりませんか?

すぐに分かるのは、この世界には色というものはありません。色のない世界がどれほど味気ないものか、想像もできないほどですね。

それから、3次元かどうかも分かりません。なぜなら、我々の眼球に入ってくる情報は2次元だからです。

脳がそれをどうにかこうにかして、奥行きのある3次元の世界として感じられるように変換してくれているのです。

そう思うと、ちょっと不気味な感じがしてきます。それから外の世界には、音というものも存在しないのです。

えっ?と思うかもしれませんが、音というのは私たちの脳の中にしかありません。雷が落ちようが、強風が吹こうが、新幹線が間近を通ろうが、音はありません。

ま、想像しない方が無難ですね。

フレーバーコーヒーが好き

会社員だった頃のことですが、仕事でアメリカの本社に度々行かされて、あちらのオフィスで仕事をしていたことがありました。

向こうのオフィスでは常にコーヒーが沸いていて、自由に飲むことができたのです。そのときに、2種類のコーヒーがいつも並んでありました。

一つは、ごく普通のコーヒーで、もう一つはフレーバーコーヒーと呼ばれるものでした。コーヒーの粉に、さまざまな味と香り付けがされているものです。

それまでは、そういったコーヒーがあることを知らなかったので、ちょっとしたカルチャーショックでした。

例えて言えば、普通のコーラに対して、味付けされたチェリーコークがあるようなものですね。チェリーコークが今もあるかどうかは知りませんが。

本当のコーヒー好きの人にとっては邪道だと思われてしまうかもしれませんが、私はフレーバーコーヒーが好きなのです。

日本でも、さまざまなフレーバーコーヒーがあって、特に好きなのがトーステッドココナッツとか、バニラとか。

ただ、私が知っている限りは輸入モノばかりだったので、ちょっと高価なので最近は飲んでなかったのです。

代わりに、もっぱら簡易なドリップパック式のものを愛用しているのですが、それを擬似的にフレーバーコーヒーにできるものが売っているのを知りました。

キャラメルフレーバーとアーモンドフレーバーの2種類。すごく安価なので試してみると、それなりでしたね。それでも、しばらくは楽しめそうです。

フレーバーコーヒーのいいところは、ある程度冷めてしまった後でもまあまあ美味しく飲めるところです。理由は定かではないですが。

飲んだことがなくて、気になるという人は、一度試してみるのもいいかもしれませんね。今日はまったくオチのないブログでした。

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言葉の意味を理解するとは?

最近のAIの進歩が途方もなくて、スマホ版のchatGPTをインストールして、毎日のように使うようになりました。

今やそれなしではやっていけない?と言ったらオーバーに聞こえるかもしれませんが、でもそんな感じがしています。

それにもかかわらず、現状のAIが質問の意味を理解しているわけではないのは明白です。全て機械的な言葉の並びを覚えているに過ぎないと。

意味理解というのは、人間で言うと左脳の機能なんですね。言葉の意味を理解するためには、仮想世界がどうしても必要なのです。

例えば、「テーブルの上にリンゴが一つあります。」という文章があった場合、今のAIにはこの文章からはどんなイメージも作られないのです。

一方、私たちは今文章を読んだときには、ある空間の中にテーブルという物体があって、その上にリンゴという物体が乗っている、とイメージできるわけです。

この違いは決定的なのです。左脳によって仮想空間上にテーブルオブジェクトとリンゴオブジェクトを配置できるというのが、意味理解なのですね。

これまでのやり方でどれほどAIが進化しても、意味理解に至ることはないはずです。日本人で唯一このことに気づいている人がいます。

私が世界中で今一番期待している人物が日本人だというのは、とても嬉しいことですね。