慈悲の気持ちの有無

歴史上の有名な覚者たちが、ほとんど非二元的なことを言ってきていないという事実をどう受け止めればいいのか。

ここは、私自身もずっと疑問に思っていたことです。もしかしたら、執拗に調査をすればそうした文献を発見することができるかもしれません。

ただそんなことをしなくても、覚者は当然のように非二元に気づいていたに違いないと思うのですね。

それならなぜ、そういう文献が残っていないのか?禅僧にしても、oshoにしても私が知っている限りにおいては、みんな自分の本質に気づきなさいと言っているのです。

そのためには、瞑想をし、意識を内側へと向けて心静かに坐っていなさいと。やはり自我ではないことを身をもって気づく必要があるのだと。

この二元性の世界で生きているつもりになっている作り話の中では、それが一番賢いやり方なんだろうなと。

多くの覚者たちがそれを唱えてやまないのは、もしかしたら慈悲の気持ちによるものなのではないかなと。

非二元を話す人たちが、慈悲がないとは言わないまでも、誰もいないということを声高に言ってしまえば、そこには愛の要素を感じることができない感じがしますね。 

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