多くの人々が、自分は身体だという根深い思いを持って生きていると思うのですね。そんな中でも、身体ではないという感覚がある人もいるわけです。
私などは、かなり前から自分が身体であるはずはないと強く思ってきた歴史があると感じているのですね。
このような私と同じような感覚で生きている人も沢山いるのでしょうね。ところがです。どういうわけか、身体そのものではないと感じているのに、身体を主体的に見ていることは間違い無いのです。
たとえば、昨日自分は何をした?と記憶を遡ってみた時に、そこには必ず自分の身体が中心にあるのです。
たとえば、昨日は映画を見に行ったなあと思い出すとします。映画館まで出向くのは当然のこと身体なわけです。
けれども、自分は身体ではないと思うのであれば自分がしたことの中で映画館へ行ったというのが入り込むはずがないのです。
誰かとカラオケで沢山歌を歌って楽しい思いをしたという記憶でも、やっぱりそこには身体が中心的な役割を果たしています。
もしも自分は身体ではないとするなら、昨日のカラオケ店で自分は何をしたのでしょうか?身体を使って、カラオケ店に行って、身体を使って歌を数曲歌ったという説明になるのかなと。
あなたが身体ではないのなら、カラオケ店に行くことはできないし、カラオケで歌を歌うということもできません。
それとも、身体を使ってカラオケ店に移動して、身体を使って歌を歌ったのだということで辻褄を合わせているのでしょうか。
自分は身体ではなく、精神活動だという言い方もできるかもしれません。でもその精神活動って、身体の一部である脳によって起きているとしたら、やっぱり我々は身体だということになってしまいます。
私は身体ではなく、純粋な気づきそのものだという表明をしっかりできるようにするためには、もう少しこの辺りのことを突き詰めておく必要がありそうですね。
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