自分は個人じゃなかった、体験そのものだった

そうなったら、どんな瞬間であろうと、そこで何が起きていようと、それはもう受容以外がなくなってしまう感じがする。

これ、なかなか敷居が高いなと思っていたのですが、どうも個人のままでもその感覚をちょっとだけ得ることはできるなと。

もちろん自我がいるので、このままでは済まないのは分かっているのですが、それでもこれはかなりいい感じのヒントにはなるなと。

非二元によって、体験主体と体験と体験される対象の三つ巴だったものが、そのうちの体験主体と体験される対象が消えて、体験だけが残るのだと。

つまり、しつこく言い続けて来た「体験だけがある」というところに落ち着くのだけれど、それは純粋な気づきとイコールだったんだなと。

正確な表現ではないけれど、本当のわたしは全ての体験の受け皿だったんだという感じがするのですね。

別の表現を使うと、あらゆる体験が起こる空間、あるいはダグラス・ハーディングの言い方をすれば、体験が起こる受容能力だったと。

この気づきは本当に大きいかもしれません。

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