壮大な夢物語

本当は意識があるだけで、それ以外で自分と呼べるものは何もないというところに落ち着きそうです。

私たちはこの3次元の世界に産み落とされて…、と思って生きてきたつもりになってはいるのですが、それは本当ではなかったようです。

というのも、この3次元の世界というのが、思考が作ったイメージでしかないと気づいたからです。

そして、今この瞬間にある記憶をまったく使わないでいるなら、この世界に産み落とされたということも真実ではなくなります。

自分の身体があるというのもイメージだし、1人の人間として人生を生きているというのもイメージに過ぎません。

個人というものはないし、あると信じていたあらゆる実体が幻だったと気づいて、最初は愕然としたものです。

それが不思議なことに、慣れてくると当たり前のこととして受け入れられるし、その状態でも昨日と同じように生きていくこともできるのです。

壮大な夢物語の中にいることをもっと楽しめばいいだけですね。

神は表だけのコインを作れなかったってホント?

よく聞く話ではあるのですが、神というのは万能だとか全能であるというように表現されることがありますね。

要するに、神にとっては不可能なことはないのだということを言いたいわけですね。ところがです。

この二元の世界では、神といえども不可能なことがあったのだと。それは、一枚のコインを見れば、必ず表と裏があるのだと。

表しかないコインを見たことがある人はいないはず。つまり、表だけのコインを作ることは神にもできなかったのだと。

なるほど言わんとしていることは分かるのです。けれども、それは本当のことでしょうかというのが今回の主題です。

非二元に気づくと、この二元の世界というのがイマジネーションでしかないということに気づけるのです。

表だけのコインが絶対にないのはあくまでも二元の世界でだけのこと。実は非二元ではそんなことはいくらでもあるのです。

非二元では見かけだけ、単なる現れだけのコインなので、現れている面だけがあるということになるのです。

逆に言えば、非二元では神といえども、実体というものを作ることはできないということに気付かされますね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

探究の目的は探究の終焉

物事には色々な目的があるものです。一生懸命勉強するのは、希望する学校に入学するためだし、好きな人と結婚するのはより幸せになるため。

こうしたことは、自我の目的指向の生き方からやってくるものだと思うのです。自我は大抵未来への期待を抱えて生きているからです。

では探究の目的は何かというと、これ以上の逆説はないのではと思うのですが、その目的とは探究の終焉だと言えるのです。

私の探究の目的は、生老病死という人生における4つの苦しみからの解放であり、そのためには個人性が消えること。

ところが、探究をやっていると思っているのは私という個人であるため、探究をすればするほど個人性は強くなるのです。

結果として、探究をやめることが個人性と4つの苦しみからの解放に繋がるということになるわけです。

とどのつまり、探究の目的はその探究をやめることなのですね。ただし、自分の意思で探究をやめると決意するという意味ではありません。

どうやったところで、探究ができなくなる、あるいは探究する意味が全くなくなってしまったと感じること。

こうなって初めて、自ずと探究が終わりを迎えるということです。そして、探究も探究をしていた個人も全部消えていくことになるのですね。

探究が終わるのは寂しい

一年ちょっと前から、非二元の探究をするようになって、探究というものが身近なものになったのは事実です。

ところが、そうなってみるともうずっと前から探究を続けてきたかのような錯覚をしてしまうのですね。

非二元に気づくようになる前は、ただ瞑想をすることで覚醒できたらいいなという程度だったのです。

それを思い出して、その頃は探究などという言葉では言っていなかったはずなのですね。それほど真面目に瞑想を続けていたわけでもないし。

自分で都合のいいように、過去を塗り替えていたことに気づいたのです。もう20年も探究をしてきた身なんだと。

その嘘に気づいてちょっと笑ってしまいましたね。自分が探究をしていると、他の人にも同じようにして欲しいと思うのです。

これもかなり傲慢です。同じ気持ちになって一緒にやってもらいたいという子供じみた気持ちがあるということですね。

もしかしたら、探究が終わりを迎えようとしているのかなという感覚になって、初めてそんなことに気づいたりしている今日頃です。

新鮮な感覚で生きる

先日のブログで、目を閉じていることが増えたということをお伝えしたばかりなのですが、どうもその傾向が増してきたように思います。

かなり明確に目を閉じていたい、と思うようになったのです。そして目を閉じると、なんとも気持ちがいいのです。

すごく落ち着くし、理由のない深い平安が訪れてくれるのです。そして、どこにいるわけでもないという感覚も気持ちいい。

それとは反するようなことなのですが、目を開けている時に目に入ってくるあらゆる景色が、外のものではないという気づき。

それが距離なしで感じられることで、なんとなくそれらが愛しい感じになることもあります。自分と離れていないという感覚。

実体のない単なる現れなのに、随分と端正に作り込まれているものだなあと感心してしまうこともあり。

これが全てだと分かっていながらも、もっと別のものを求めてみたり、これは気に入らないと排除したくなったりと、それはもう浅はかだなと。

そういった内面的な動きも、実は個人的なものではなかったという気づきが、自分を解放してくれるようです。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

この世界は存在しない

初心に帰って非二元という言葉をすっかり忘れて、自分にできるだけ正直になってもう一度全てを見つめ直してみると…。

やっぱり体験だけがあるということになります。同様に現れだけがあるとも言えて、どちらも同じ意味なのです。

体験という言葉を使うと、どちらかというと自分側に意識が向いているような感じがするし、一方で現れというと外側を表現しているように感じられます。

そのどちらでもない適切な言葉が見つからないので、これまでもずっとこれらの言葉を使ってきました。

体験(現れ)だけがあるということの本当の意味は、宇宙やこの世界、あらゆる物質などが何もないということです。

この体験から、我々は逃れることができません。もっと言えば、体験の中に我々の存在は含まれないのです。

だから逃れることができないというよりは、逃れるようなどんな存在もないと言った方がより適切なのです。

長年瞑想によって自我から解放されたいと思ってきたことが、非常に的外れだったという感じがするのです。

自我の居場所がないどころか、この世界全体のありかがなかったということなのですね。これはもう決定的です。

クリスマスの思い出

今でも鮮明に覚えているのですが、幼稚園児の頃に、みんなでホールに集まって輪を作って座っていると、そこにサンタクロースがやってきました。

自分も含めて誰もが「ああ、園長先生だ〜!」と囃し立てて大笑いしていたのです。だ〜れも本物のサンタクロースとは思っていなかったわけです。

いや待てよ、もしかしたら本当はサンタクロースを信じている子がいたのかもしれないのですが、多勢に無勢になってしまったのかもしれません。

そう考えると、大声で園長先生であることを暴露してしまったのは、申し訳なかったかなと思うのです。

ピュアな子の気持ちを踏み躙ることになったのかもなと。園長先生も園長先生で、子供でも見破れるようなチャチな仮面をつけていたんですよね。

もっと本気の仮装をして欲しかったなあと思うのです。そのころの自分の感覚では、とにかくプレゼントが貰えればいいやと。

誰が持ってきてくれたのかには、興味がなかったのです。だから、プレゼントを貰っても感謝するということがない子でしたね。

冷めているというのか、とにかく感謝が足りない子でした。いまだにちょっとその路線は継続しているかもしれません。

いずれにしても、この現実という夢の中で貰ったり与えたりということを繰り返しているのですから、感謝の気持ちが湧いてくる方がお得ですよね。

目を閉じると世界はないと気づく

いつの頃からだったか、普段の生活の中で無意識的に目を瞑っていることが増えたように記憶しているのです。

初めのうちは、一人でいる時が多かったのですが、しばらくして人といる時でも目を閉じている状態が増えてきたのです。

目を開けていないのは失礼なんじゃないかと思っていたのですが、それがほとんど気にならなくなってしまったのですね。

最近ではさらにそれが増してきて、結構多くの時間に目を瞑っているという自覚があるのです。これはとても自然なことなのです。

目を瞑る理由はいくつかあるにはあるのです。例えば、心が静まるとか、目が休まるとか、気分がいいなど。

そして視覚のほとんどが遮断されたようになると、イメージしているような世界が外側に広がっているというのが文字通りイメージでしかないと気づきます。

その状態に戻りたくて、目を閉じるということもあるかもしれません。この世界が消えた後に、そこに残るものは何か?

それが体験であり、現れであり、気づきそのものだということですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

目標のない人生って?

人間が目指す目標のなかで、ダントツで一番興味深いし格調高いし、他とは比べ物にならないくらいなのが、「覚醒する」ということだと。

そう思い込んで長い間ずっと瞑想を続けてきました。それをライフワークにしてきたと言ってもいいかもしれません。

この世界で何かを成し遂げるとか、人格を磨くとか、社会のためになるとか、そういったことにまったく興味がなかったので、その代わりだったのかもしれません。

興味がないというよりも、自分に対してそんな期待をすることができなかっただけなのかもしれないですが。

覚醒するという目標が少し具体的になったのが、非二元を極めるということで、今度はその探求をすることがライフワークとなったのです。

要するに瞑想が非二元の探求にすり替わったわけです。大きな違いはありません。それで思ったのですが、なんで自分はいつもそうした目標が必要なんだろうって。

それはもちろん自我は目的志向だからの一言で終わってしまうのですが、御多分に洩れず、自分の自我も同じだったのだなあと。

最近、何だかその探求が終わりを迎えそうな雰囲気がしていて、何やら心がざわつくのです。探求が亡くなったらどうなるの?って。

まったく目標のない人生かあって。ちょっと心細い気がしますが、それもいいのかもしれないと開き直っていますけど。

体験が起こらないことは、存在しない

一年かけて地球が太陽の周りを一周する間に、春夏秋冬が巡ってくるのですが、その境目も4回やってきます。

それが、春分、夏至、秋分、冬至と言われるものですね。今日はまさにその冬至に当たる日です。

地球の自転軸が公転面に対して傾いているために、このようなことが起きるわけですが、冬至の日は北半球にもっとも太陽の光が当たりづらい日と言えます。

他の言い方をするなら、誰もがよく知っている「昼が一番短い日」ということになります。つまり、明日以降ゆっくりと昼の時間が延びていくことになるのです。

どういうわけか、これからが冬本番になっていくので、もっと昼が短くなっていくような気がしてしまいますが、そうではないのですね。

太陽も地球もほぼ完全な球体と言われていて、太陽の直径は地球の直径の109倍らしいですが、それを身をもって体験した人はいないのです。

地球の体積は、人ひとり分の平均的な体積の10の23〜24乗倍程度になるそうで、想像すらまともにできません。

けれども、これも体験できることではありませんので、空想上の話でしかないということになりますね。

仮に地球から太陽までの距離を、旅客機で移動するとしたら、ざっとの計算で約19年かかるらしいです。

自動車を時速100kmで走らせると、太陽まで約170年くらいかかるらしいです。このように計算によって答えが出てくるだけで、体験としては起こりません。

体験として起こらないことは、決して存在しないということですので、気が遠くなる必要もないということですね。