すぐに非二元が分かる

今回はとっておきのお話をします。このブログの内容を理解することができれば、非二元が何なのかを理解することができるはずです。

「私がリンゴを食べている」という体験があるとします。この時に、私たちはこの体験が起きているという事実だけにはしておかないのです。

この体験が起きているということは、「私がリンゴを食べている」という事実が実際に起きていると思い込むのです。

実際に起きている事実があるからこそ、それを体験することになるのだという勝手な思い込みをしているのです。

けれども、それは気付かぬうちにやっている空想であって、本当に分かっているのは体験が起きているという事実だけがある、ということ。

なぜ体験があるだけなのに、それとはかけ離れた空想、つまりは私もリンゴも実在して食べるという行為が実際に起きていると思い込んでしまうのか?

思考が自動的に活動して、そのような思い込みを投げてくるからかもしれませんが、それはあくまでも思考です。

このシンプルな思考のからくりを見抜くことさえできれば、もうすでにそれは私もリンゴも実在しない非二元だと気づくはずですね。

こんな簡単なことでした!びっくりです。納得するまで何度でもこれを読んでみてください。必ず非二元が分かるはずです。

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非二元では情報は存在しない

少し前のブログで、この世界には情報だけがある。この世界は情報でできている、ということをお伝えしました。

周知の事実として、私たちはこの世界の情報を五感を使って取得しているわけです。だから情報をくれる世界の本当の姿を知ることはできません。

情報は情報であって、そのもの自体ではないからですね。であるなら、この世界がどうなっているかよりも、情報だけがあるというところに焦点を絞る方がシンプルです。

そして情報というのは、分離したものが互いを知るために必要となるデータと定義することができます。

もしも分離がなければ、情報には意味がなくなってしまうのです。つまり分離のない世界では情報は存在できないのです。

分離のない非二元において情報の代わりにそこにあるのは、経験、体験だけがあるということになるのです。

体験は単なる現れであり、それは気づきそのものであるとも言えます。気づきと表れの間に微かな二元性があるように思えますが、これもいずれは消えていくことになるのでしょうね。

人生が物語であるとは?の補足

昨日のブログで、人生は物語だということをお伝えしましたが、いやいや人生はれっきとした現実に違いないと反論されてもおかしくありません。

というのも、一般的に私たちが物語という時には、それは思考の中で作り出された空想の世界のものだと思っているからです。

たとえば、昨日会社に行って仕事をしたという過去を思い出したり、明日も会社に行って仕事をするだろうと未来を予想するのは確かに空想(物語)であると。

それに対して、実際に今会社に来て仕事をしているというのは、紛れもない事実であって決して頭の中で作り出した物語なんかじゃないと。

あるいは、物語というのは小説や映画の中で繰り広げられる起承転結であり、どこにもその実体は存在しないのだということ。

けれども日々の生活は誰かの頭の中で考案されたものではなく、その全ては現実に起きていることだというわけです。

こうした両者の違いは何かというと、一つは完全に頭の中で生み出されたイマジネーションであり、もう一方は実際に起きていることのように見えるのです。

ところが、非二元の探求をしていると、この実際に起きているように見えることは、全て起きているように見えるだけだということに気づいてしまうのです。

その結果、どちらも物語でしかなかったということになるのです。物語でないのは、思考がやってくる前の直接体験だけなのです。

毎日の物語性に気づけば気づくほど、物語の中には必ず個人性があることにも気づき、結果として自我をその物語と一緒に処分してしまえるのですね。

人生が物語であるとは?

非二元の探究をするようになって、以前にも増してより日々の生活というものが単なる物語だったことが明確になりました。

この物語という意味を正確に理解するためには、私たちの体験を思考による擬似体験と思考の前にある直接の体験とに分類する必要があります。

後者の体験だけを抜き出して見ることができると、そこにはどんな物語性も個人性も含まれていないことに気づけます。

そこがはっきりすると、物語を作り出している擬似体験と直接体験との比率がとんでもないことにも気づくことができます。

つまり、擬似体験の方が圧倒的に多いことにびっくりさせられるのです。そのために、普通の生活においては直接体験の存在に気づかないでいるのです。

しかも、物語は多くの人たちの間で共有されるということが、その物語の中で起きているので、物語がリアルな現実だと感じてしまうのです。

初めは単純なラベル付のような思考から始まったものが、思考が思考を生み出して複雑な物語のようなものへと進化したのでしょうね。

その中で私たちはその物語を真実だと思い込まされて、生きているということです。そのことに気づくと、少しは肩の力が抜けて楽になるはずですね。

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二種類の体験に気づく

よく聞く言葉として、私たちにとって物事をあるがままに見るということがすごく難しいというのがありますね。

人それぞれがもっている色眼鏡で判断するわけですから。独自のバイアスがかかっているという表現をすることもあります。

けれども、その前に「あるがまま」という言葉には元々物事が「ある」ということが前提となっているのです。

それはそうでしょう、ないものを見ることはできないのだから、というわけです。けれども、その前提が間違っていたわけです。

世界の中には実際にないものばかりを、我々は五感を通して見聞きしてしまっているのですから。私たちは外側の世界を体験していると思い込んでいます。

ところがその世界は実在するかどうかさえ不明なのです。実際にあるのは、体験だけだということに、もうそろそろ気づいてもいいのではないでしょうか?

ここからが非二元へと繋がる道の始まりなのです。リアルな体験には、物語性も個人性もありません。

それがとてもじゃないけど受け入れられないし、そんなことには魅力もないと感じても当然です。自我は物語の中の住人だからですね。

でもそこにのみ、苦しみがあるように感じてしまうのも事実です。リアルな直接体験へと移行するのか、それとも物語と苦しみと共に生きるのか。

その選択は個人個人に任されているのですね。

外側の世界ってどんな世界?

私たちは、何の疑いもなく自分が生きているこの世界のことを知っていると思い込んでいます。

例えば、秋にはあの綺麗な紅葉を楽しめるし、色とりどりの美しい景色を見ることができます。これは、世界には色があると思っているわけです。

あるいは、川のせせらぎの音や風鈴の涼やかな音、あるいは大好きな音楽や街の雑踏のざわめきなど。つまり世界は音で溢れていると思っているのです。

季節によって暖かくなったり寒くなったりもするし、北極や南極などは極寒ですが、火山の近くは灼熱地獄なわけです。これは世界には温度や気候があるのだと。

ラベンダーの香りに魅せられたり、美味しい食べ物からやってくる芳しい匂い。あるいは、腐ったものからやってくる苦手な腐敗臭。これは世界には香りがあるのだと。

こうしたことは誰に聞いても異論はないはずですね。ところが、上記のようなものはこの世界には一切存在しないのです。

この世界には、色、明るさ、形、音、温度、こうしたものがないのです。ショックかも知れませんが、これは物理学では常識です。

それなら、この世界って本当はどんな世界なのでしょうか?私たちには想像することさえできません。

物事をよりシンプルに考えるなら、外側の世界があると思っていたことを根底から見直した方が良さそうです。

これが、非二元への入り口になると思いますね。

体験は誰のものでもない

様々な場所に旅行をするユーチューバーさんの動画が、たまたまオススメに上がってきたので観ていたら、面白くて少々ハマってしまいました。

普段そんな種類の動画を観ることはほとんどないのですが、日本の離島に行く回だったのが興味を引いたのかもしれません。

そのうち、次々とそのチャンネルの動画が上がってくるので、観ているうちにああやっぱり自分は旅行が苦手なのかもしれないなと。

日頃どこへも行きたいと思わない自分の苦手な「移動」をずっと観ていて、思い知ったことがあるのです。

それは、そのユーチューバーの方が心から旅を愛しているということが伝わってくるし、移動しながらのあらゆる体験が好きで堪らないのが分かるのです。

そうした動画を堪能しながら、自分では一緒に行った気になって、しかも自宅のソファに腰掛けた快適な状態でそれを体験できる。

私にとってはこれが最高の旅の経験なのかもしれないなと思いましたね。そして、どんな経験であれ、それはただの体験であって誰のものでもない。

そんなことを改めて感じさせてもらいましたね。

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非二元の探求プロセスの検証

非二元の探究プロセスの中で、体験だけがあるということにはっきり気づけたとするなら、次は体験を以下の二つの種類に分類できるかどうかを見ることになります。

一つは、思考による擬似(物語)体験であり、もう一つは直接(リアル)体験。両者の違いが明確になっているかをチェックする必要があります。

直接体験に「含まれる」ものをあげることができるかどうかを検証してみてください。実際には以下のようになるはずです。

色、形、音などの五感。身体感覚、痛み、痒みなど。そして、一般的には内面と言われる思考、感情、気分などです。

一方、直接体験には「含まれない」もの、つまり思考による擬似体験に含まれるものが明確になっているかどうかも検証してみてください。

概ね次のようなものになります。時間と空間、分離や構造、主体と客体。これらを用いて、この世界の中で物語が起きつつあるように見えるのです。

そして、我々の全ての苦しみはこの物語の中でのみ起きているように見えるわけです。これを見抜くことができれば、苦しみからは解放されることになるはずですね。

体験のない気づきはあり得る?

情報というのは、何かの属性を知るためのデータだということができますが、この世界にはこの情報だけがあるのです。

もう少し正確に言えば、情報だけがあるということ。世界だとか、物質だとか、空間といった対象はないということ。

これが情報だけがあるということの本当の意味です。そして、この情報というのは何かを間接的に知るためのものです。

つまり分離した世界があるという前提でのみ役立つものです。なぜなら、分離がなければ情報の意味がなくなってしまうからです。

分離のない非二元では、情報は意味がなくなり、その代わりに体験、経験だけがあるということになります。

それをもっと端的に表現するなら、気づきがあるということになるわけです。気づきのない体験や経験は不可能です。

けれども、体験、経験のない気づきというのはあるのかもしれませんね。それこそが私たちの本質なのかもしれません。 

具合の悪さは休みたいというサイン

一般的によくある情報として、女の子よりも男の子の方が身体が弱いので育てるのが大変という話がありますね。

ご多聞に漏れず私は子供の頃は年中風邪をひいているような子供でした。そして一度風邪を引くと、1ヶ月くらいは続くのです。

そうしたことは、大人になっても変わらずで社会人になってからは結構苦労したものです。なぜなら、そう簡単に仕事を休むことができなかったからです。

微熱があって身体が何ともダル重い感じのままで、ずっと仕事をし続けていたこともありました。

ところが今の仕事になってからは、あまり風邪を引かなくなったのです。特別何かが変わったということでもないはずなのに。

記憶では、コロナが流行り出す直前で一度風邪を引いたのですが、そのあとはコロナもインフルエンザも普通の風邪も一切罹ってないのです。

気持ちの変化というのは確かにあったように自覚しています。それは、少し変だなと感じた時に、「絶対に風邪を引かない」という宣言のようなものをするようになったこと。

誰に言われたわけでもないのに、風邪を引くことが最大の損をするように思えてきたおかげかもしれません。

病は気からと言われますが、何か辛いことがあって休みたいと願っていると、休むための口実として病気になるということがあるようですね。

これは、いくら理性で病気になりたくないと思っているとしても、心の奥の正直な自分が休みたいと思うと病気を起こす可能性が高くなるということです。

具合が悪くなったら何か自分に無理を強いてないかどうか、じっくりとチェックしてあげることが大切だと思いますね。

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