真実に気づいても人生は続いていく

今日12月11日は、9年前に亡くなった父親の誕生日であり、同時に敬愛する osho の誕生日でもあるのです。

子供の頃は、自分の誕生日は何か特別な日という感じがあったのですが、この年齢になるともう本当にどうでもいい感じがします。

我々が気にしている誕生日というのは、母体から物理的に離れた日であって、この自分という自我の誕生の日ではありません。

自分の自我がこの日に生まれたと明確に分かってる人は滅多にはいないでしょうから、それを誕生日にするわけにはいかないのですね。

自我が生まれるというのを別の言葉で表現するなら、自我(自分)に目覚めるということになるでしょうね。

だとすると、私たちはもう一度目覚めるチャンスがやってくるとも言えるのです。それは、自分の本質に目覚めるということ。

これもある日突然ということにはならないのかなと最近思っています。そして、多くの人が想像しているような画期的な出来事ではないのかもしれません。

それは単に真実に気づくということであって、誰もがどこかで無意識に感じたりしているものなのかなと思うのですね。

それがもっと明確になるというだけのこと。自分という自我も作り物だし、この肉体、この世界すら実在しないということ。

そのことに気づいたとて、日常の人生物語は見かけの上ではずっと続いていくのですからね。

非二元に気づいていくプロセス

私が非二元の探究を始めるきっかけとなった最初の気づきは、「実体はない」というものでした。もしかしたら、これはレアなケースかもしれません。

非二元に気づいていくための万人に共通するプロセスというものがあれば、それを用いて多くの人たちが気づいていけるはず。

けれども、人それぞれ異なる考え方で生きているので、そんな都合のいい手段などあり得ないと思っていたのです。

とは言っても、何かそれなりの方法はないのかなとちょっと思うようになったのです。それで、ラフな手順、プロセスを作ってみました。

一つずつ、しっかり腑に落ちるように進めていけば、自然と非二元が身につくのではないかと考えています。

⒈ 毎日の生活は、体験の連続でできている。

⒉ 自分の体験以外のことは、情報として知る以外はない。これを一旦脇へ置く。

⒊ 体験には二種類ある。一つは、思考による擬似(物語)体験、もう一つは直接(リアル)体験。

⒋ 直接体験には、体験主体も体験対象も入ってこない → 実体はない

⒌ 実体はない→全ては起きているように見えるだけの単なる現れでしかない。体験=現れ。

⒍ 実体はない→体験は誰のものでもない。

こんな感じの順番で地道に気づいていけるのではないかと考えています。これをもっと詳細に検証していければいいのかなと思っています。

ウェルカム宣言したらしたで

起きてくる事柄に対して、分け隔てなく一様にウェルカムの態度でやり過ごすという実践をしているというお話を一昨日のブログに書きました。

その時にも、運転中にまつわる様々な出来事が矢継ぎ早にやってきて、へえ〜と思ってどうぞどうぞとやっていたのです。

そうしたら、今日はまた別の理不尽な出来事がやってきて、おや〜となったのでここでちょっとシェアさせていただきます。

いつものように車を駐車場に入れようとしたところ、見覚えのない大きめのクルマが私の所定の場所にしっかりと停めてあったのです。

過去にも何度か知らない人に停められていたことがあったのですが、久しぶりにそれがまたやってきました。

これ、個人的に本当に苦手なことで、一体どういうつもりで他人の駐車場にクルマを停めて平然としていられるのか?

すぐにウェルカムなんかできな〜いとなったのですが、それでも普段よりもかなり静かな物言いで済ますことができました。

ここで気づいたことが一つあるのですが、それは言いたい文句を思いっきり言えないでいると、何か損をしたような気持ちになるのです。

そうなのね、文句が言いたいという人格がいるのねと、文句を言って相手をギャフンと言わせたいらしいのです。

そんなことでウェルカムを邪魔されるのであれば、そっちの方が大損だとしっかり気づけばいいということですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

フェイク動画に騙される

ある動画を観ていたら、それは自分の目を引くようなもの凄く魅力的な2シーターの新型車の情報をいち早く伝えてくれてるものでした。

これはと思って超期待に胸膨らませていると、それはホンダのかつての名車であるS800を最新技術で生まれ変わらせたものだったのです。

どこから見ても理想的なもので、うっすらとした噂レベルのものは聞いていたのですが、まさかこんな姿で甦ってくるなんて。

そのフォルムの素晴らしさ、軽量スポーツ車の典型のようなコンセプトで作られたことが一目でわかるのです。

とうとう今の自分にとって最もマッチしたクルマが手に入るかもしれないと。価格もかなりリーズナブルで、これは買いだなと。

そう思って、AI君にその情報の真偽を聞いてみたところ、ああやっぱり。誰かが AI を使ってデザインしたものだったのです。

この手のフェイク情報には、騙されないように気をつけようと思っていたのですが、やっぱりそそられるものにはつい気持ちが前のめりになった分だけ、騙されてしまうようです。

生成AIのクォリティが脅威的に上がってきているので、本物と間違えないように気をつけたいものですね。

心がけている二つのこと

非二元の探究から端を発した最近の自分の流行りなのですが、次のような主に二つの事柄に注意して過ごすようにしています。

その一つは、日々起きているように見えることは、そのどれもが自分に対して起きているわけではないと気づいていること。

そして二つ目は、何が起きているように見えたとしても、それらに対して分け隔てなくウェルカムな態度で受け止めること。

そうすると、すかさずの今朝の出来事。事務所までの片道たった20分程度のクルマの運転中にやってくるさまざまな事象の数々。

それは、想像が難しいありえないような危険な自転車と歩行者のオンパレード、週末だからかな?それと季節外れの道路工事の荒れよう。

事務所近くの駐車場にクルマを留めようとしたら、大型の引越しトラックに妨害されて、にっちもさっちも行かない。

最後のトドメは、昼食後に歯磨きしていたところ、数年前に治療した奥歯の詰め物が取れてしまい、あ〜あという反応が起きたこと。

夕方すかさず歯医者さんに行って、苦手な治療の際も、その全てをウェルカムし続けたら、身体の緊張は確かに緩んでお得感あり。

こうした起きているように見える出来事と、内面で起きているように感じる自分の反応のどちらに対しても、同じだけの歓迎をもって受け止める。

そんな自分をイメージするだけで、ちょっとした笑いが込み上げてきますね。

体調がいいのは嬉しい

子供の頃というのは、何をやるにしてもすごくその中にどっぷり入り込むことができるので、自分の体調の良し悪しなどには、あまり頓着せずにいられるのですね。

その辺は基本的には大人になっても変わらないようで、何かに熱中している時には、多少の具合の悪さなどは忘れていられるものです。

かつて、大人がハマるレースゲームに夢中になっていて、あまりにやり過ぎてしまい帯状疱疹を発病してしまったことがありました。

ゲームの中に、24時間耐久レースのようなものがあって、昼夜を問わず夢中でやり過ぎてきっと疲れ果ててしまったのでしょうね。

ところが最近では、全く熱中するものがなくて、とにかく用事のない毎日を送っているので、ほんの少しの体調の変化があっても、すごく気になってしまうのです。

一ヶ月半ほど前にちょっとした入院手術をしたこともあって、常に体調が万全ではなかったのですね。

それがここにきて、ようやく身体の気になるところがなくなって、気持ちよく過ごしていられるようになりました。

この体調の良し悪しというのも、単なる現れの一つでしかないということに気づいたことも、良い影響を与えてくれているのかもしれないですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

自我の輪郭が薄くなっていく

体験だけがある、経験だけがあるというのを別の言葉で表現すれば、現れだけがただあるということになります。

この「現れ」というのは、実体というものを伴わない単なる見かけだけということ。それが起きているように見えるだけ。

そこには一切の個別性がなく、あくまでもフラットなものなのです。全ての現れには境界もどんな特別なものもありません。

二元の言葉を使うと、たとえば空に浮かんでいる雲と、自分の内面にあると思える思考や感情、あるいは気分とがまったく同等な現れなのです。

外側も内側もないのですから、個人としての自分などが入り込む余地は全くなくても当然かもしれませんね。

こうした気づきは、自我の輪郭を薄くしてくれるものとしては画期的かもしれません。心の中にどんな反応が起きたとしても、雲やテーブルと同じなんだと。

非二元に気づくまでは、ただ自分の内面に意識を向けておくというワークをすることで、思考よりも意識的であることを心がけていたのです。

けれども、その内面と思っていたものが、ただの現れの一つであり、その他のすべての現れとひと繋がりであることになったわけです。

これをなるべく忘れないようにしていられると、観照者としての視点で居続けられるようになるかもしれませんね。

「実体」とは思考が作った便利アイデア

この世界にはどんな実体もないということに気づいてから、早一年が過ぎました。今ではそのことが当たり前になったようです。

あの頃は、とんでもないことに気づいてしまったなあと思って、それでもその気づきに対して自分の中では懐疑的な気持ちもあったのです。

そんなバカなことを思っている人はまずいないだろうし、これをどう表現したら人に分かってもらえるだろうかと。

そう考えていたところ、ちゃんとハマる概念があったのですね。それが非二元だったわけですが、その頃は実体がないことと非二元の結びつきも曖昧でした。

しばらくの間は、実体があるかどうかは証明できないという立場をとっていたのですが、それも今は意味がなくなりました。

なぜなら、実体というのは、思考が上手くこの世界を把握するために作り出した便利アイデアだと分かったからです。

そして的確に説明できないのですが、どうやっても実体というものはあり得ないという理解がやってくるようにもなったのです。

言ってみれば、原理的に不可能ということです。ここが上手く説明できるようになったら、また書こうと思います。

どんな構造もなく一様

まず「構造がある」とはどういうことでしょうか?一般的に、自分と他人、こことあそこ、原因と結果、思考と感情のように、世界を分けて理解しています。

この「分けて理解する仕組み」そのものが「構造」なのです。思考が世界を整理するために作り出すマップのようなものです。

一方で非二元では、こうした分け方が実在しているわけではなく、ただの見かけ、現れに過ぎないということを見抜いているのです。

例えば、映画の中では、登場人物同士が争ったり、旅をしたり過去や未来があったりします。でもスクリーン自体は、分かれていない、動いていない、どこにも向かっていない。

映画に構造があるように見えても、スクリーンそのものは「一様」なのですね。あるいは、波は、形、大きさ、生まれて消える時間があります。

でも海そのものには、そうした区別はありません。波はただの動きの表れであり、バラバラの存在ではない。

非二元では、この海そのものが現実の本質であることに気づいているのです。ただし、「一様」というのは、全てが一つに溶けた退屈な「灰色の無」ではありません。

むしろ、区別が実在しているわけではないし、あるように見えているだけという意味でも一様なのです。

もっとストレートに表現すれば、構造は見かけであり、本当の土台には境界も分割もない。その土台が「一様」と呼ばれるわけですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

「個人の問題」などない

子供の頃に、よく空に浮かんでいる雲を眺めていて、ふと気づくと距離感が曖昧になって、どのくらい遠くにあるのかの感覚がなくなることがありました。

でも瞬きしてしまうといつもの距離感に戻されてしまうのですが、あの不思議な感覚が面白くて、何度も繰り返して楽しんでいました。

非二元の探求をするようになって、距離感がバグってしまうあの感覚こそが、本来の感覚なのだなと今なら分かるのです。

なぜなら、空間とか距離というものが単なる概念だと気づいたからです。つまり、雲は遠くにあるわけではないのです。

一般的な私たちの感覚としては、自分の思考や感情、あるいは身体からやってくる感覚などの方がすぐ近くにあると思っています。

けれども、それらは身体の中で発生しているのではなくて、あの空に浮かぶ雲となんら違いがないのです。

そのことに気づくと、本当に個人性というものが薄れていくのが分かりますね。具体的な事例で説明してみます。

例えば、いつも首から肩にかけての凝りがひどくて辛いと感じているなら、普段ならその辛さは悪いことだし、何とかして治したいと思うわけです。

けれども、その凝りの感覚は「個人の問題」から「空に浮かんでいるように見える雲と同じ単なる現れに過ぎない」と気づくことで、何かが柔らかくなる感じがしますね。