手に入れたものと失ったもの

小学生の頃にビートルズの曲を初めて聴いた時に、自分の中で衝撃が起こって何かが弾けたような感じがしたものです。

特に、メンバーの一人であるポール・マッカートニーが大好きになって、彼が作る曲を聴いて天才だなと憧れていました。

こういう人は欲しいものは全て手に入る人生なんだなと。お金、名声、友人、才能。彼は、自分が欲しいと願うものをその最大級のレベルで手に入れたんだと。

ところが今になって、彼の人生を遠くから客観的に眺めたときに、どれほどの苦しみがあったのかを少し知ることになりました。

14歳の時に最愛の母親を病気で亡くし、超有能なマネージャを亡くし、ビートルズから脱退することでビートルズ自体も無くしたのです。

その後、最高の友人であるジョン・レノンを亡くし、最愛の妻を母親と同じ病気で亡くし、弟分のようなジョージ・ハリソンも亡くしたのです。

不思議なもので、手に入れたものと失ったもののバランスが取れているのかなと思ったりもするのです。

こう言った考えは二元的なものでしかないのですが、それにしてもなんとなくそんな法則がどこかで働いているように感じてしまいますね。

人生に意味はない

人生には目標があった方がいいというのはよく聞く話ですね。ただ漫然と毎日を暮らしているよりも意味を感じられるのだと。

ところが一度でも目標を設定してしまうと、今この瞬間がその目標を達成するための時間に成り下がってしまうのです。

そして、目標への到達が常に未来であるために、今この瞬間は未完ということになって、不満足だったり何かの欠乏を感じるのです。

自分はこのままではダメだとか、もっと向上しなければならないとか、より良い人物にならねばならないと感じるようになるのです。

こうして、目標を作って未来を標榜する代わりに、大切な今この瞬間を十分に生きることが難しくなってしまうわけです。

加えて、目標に到達できなかったらどうしようといった未来への不安にも悩まされることになるのです。

人生は解決すべき問題なのではなく、体験される出来事なのです。体験が全てだということですね。

人生に意味はないというのは、なんら欠けたものがないということでもあるのです。過去も未来も忘れて、思い切り今この瞬間に関わる生き方ができたら最高なのでしょうね。

「中道」という言葉を踏みにじってる

衆議院の解散総選挙を受けて、政界がまさに嵐のような様相を呈するようになってきましたね。毎度のことですが。

そうした中で、主義主張のまったく異なる二つの野党が、選挙のためだけに手を組んで、つまり野合とも呼ばれる国民をバカにした作戦に出たわけです。

しかもこともあろうに、その名前を「中道〇〇連合」としたのを知って、口がアングリと開いてしまいました。

あまりにも酷すぎる。何だか自分が大切にしてきたブッダの言葉を、勝手な解釈で自分達に有利に働くように使っているようで。

その傲慢さに気づいていないので、正直早く落選して彼らが政治にしがみつく人生から解放されることを祈るのみです。

ブッダの中道や孔子の中庸は究極の生き方であって、自らの選挙のためだけに野合を組むような生き方とは真反対だと言ってもいいのです。

この選挙を記憶してしまう若い人たちが、もしかしたら中道という言葉にアレルギーが残ってしまうようなことにだけには、決してならないで欲しいなと。

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夢の中の体験は本物?偽物?

寝ている時に見る夢というのは、何から何までが作り物で、目が覚めてしまえば、全てが消えていってしまうものと思っています。

なぜなら、頭ででっち上げた架空の物語を見ているからです。どれほど、素晴らしい景色を見ても、最高の音楽を聞いても消えてしまいます。

怖いお化けも、美味しいお菓子も目が覚めたら全部消えてしまうのです。だから、夢は何から何まで想像の産物だと思うわけです。

けれども、その夢の中で起きる体験はどうでしょうか?怖いお化けに追われたら、本当に恐怖を感じるはずです。

あるいは、美味しいケーキを食べたら、本当に美味しいと味わうこともできるのです。つまり、体験は嘘ではないのです。

ここが不思議なところで、夢の中で起きるあらゆる体験は、ホンモノだということです。これ、皆さんは気づいていましたか?

体験はリアルであって、想像やイマジネーションではないのです。このことは非二元でも同じなのです。

時間も空間も物質もないのに、体験だけはリアルにあるのです。非二元を夢に例える理由はここにあるのですね。

状況証拠だけしかない

犯罪において、状況証拠だけでは有罪にならないということがありますね。誰でも概ねは知っているはずです。

状況証拠というのは、犯行そのものを直接証明しない証拠のことです。たとえば、犯行現場の近くにいたとか、動機がありそう、被害者とトラブルがあった等々。

これに対して直接証拠というのは、目撃証言がある、防犯カメラ映像、自白、犯行の瞬間を示す録音や録画がある等々。

このことを踏まえて、次のことを自分に対して質問してみて欲しいのです。自分は自分自身(身体ではなく)を見たことがあるか?

あるいは、家族、恋人、友人などを(身体ではなく)直接見たことがあるか?もしも、答えがイエスであるなら、自分や他人がいることの直接証拠があることになります。

けれども、一度も直接見たことがないのであれば、自分や他人がいることの直接証拠はないことになります。

結果、私たちが自分や他人がいると信じているのは、状況証拠を積み重ねた結果に過ぎなかったということです。

会話ができる、自分も他人も考えたり感情を感じたりできているような状況が見てとれる。誰もが意識があるかのような状況証拠がある。

肉体に触れることができることも状況証拠でしかありません。ここから、誰もいないという非二元の感覚に持っていくことが可能ですね。

非二元の話は誰に対しても変わらない

セラピストの仕事をするようになって、自分の口から出る言葉を聞いて思ったことがあるのです。それは、相手によって言うことが変わるなと。

それは相手が大人か子供かによって、表現方法を変えるといった表面的なことではなくて、全く異なることを言うということです。

どこの部分を強調して言えば一番有効なのかとか、その人に最も効果のある内容を選ぶのは当然のことです。

けれども、ここで言っているのは相手によっては真反対のことを言ったりすることもあるというレベルのことです。

嘘も方便という言い方もあるように、何を基準にするかで全然内容が違ってきたりしてしまう経験をよくしています。

ところが、こと非二元の説明をする時には、そういった相手によって内容を変えるということが起きないのです。

たまに表現を変えることがあっても、大した違いはないのですね。非二元では、ああも言えるし、こうも言えるがなくなるのです。

それはきっと方便を使うことができなくなるからなのでしょうね。ありのままの現象を修飾する言葉がないし、不要なのですね。

だからこそ、分かりにくいと感じられてしまうこともあるのかもしれませんが、逆に気づいてしまえばこれ以上シンプルなこともないのです。

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唯我論 vs 非二元

若い頃からずっと密かに思っていたことがあるのですが、それはこの世界には自分しかいないんじゃないの?というものです。

これは本当に自分と正直に向き合った結果なので、どうしようもないのですが、例えば他人の存在を証明することができないとか。

この世界というものが仮にあったとしても、それは自分が知覚するからこそ、その存在が明らかになるのであってとか。

分かることは自分のことだけであって、それ以外のことは類推するしかないのです。こういう考え方を唯我論というのですね。

人に伝えると、きっと傲慢な奴だと思われるのがオチだと分かっていたので、ほとんど人に言うことはなかったのです。

それが今となっては、非二元の気づきに至るための大切なプロセスだったのではないかと思うのです。

唯我論のベースは自我ありきだったというところ。非二元の気づきに至ると、内側も外の世界と同様に幻想だったと分かるのです。

自分の中心がしっかりあると感じていたものが、気づくと薄れていって自分の枠と共に消えていくことになったのです。

この世界にあるのは自分の体験だけだというのが間違っていたのです。単に体験だけがあるということだったのですね。

一日一食にしてみたら

半年前くらいから、ほぼ毎日通っていたスポーツクラブを辞めて、運動不足になっていたのと、普段から食べ過ぎなのかなというのが重なって、体重が増加してきていました。

身体も何となく重い感じだし、お腹周りがかなり太くなってしまったこともあって、そろそろどうにかしたいなと思っていたのです。

そんな折、ある動画で一日一食にしたら何を食べてもガンにならない、と言っている医者がいたのです。

これはいいと思って、早速実践してみているのですが、これがなかなか好感触なのです。身体が軽く感じるし、体調もいい。

多少の空腹感はどうしてもやってくるのですが、それも大したものではありません。元々朝食は食べないことが多かったし。

昼食をリンゴ半分程度にすることで、夕食がいつもより美味しく感じられるのも嬉しいのです。そして少しずつですが、体重も元に戻りつつあるのかなと。

年齢が年齢だけに、基礎代謝がうんと減ってきているので、それほど食べなくてもいい状態になっているのが分かります。

食べなければ食べないほど健康になる感じがします。来月からまたスポーツクラブにも復帰するつもりでいます。

寒い毎日が続くと、どうしても暖をとりたくて多めに食べてしまうということが起きるようで。いつまで続くか分かりませんが、この一日一食生活を継続できたらいいなと。

勿論、何が本当に身体に良いかは人によってまちまちなので、全ては自己責任でということになりますね。

「誰かがいる」って不可能なこと

「体験だけがある」ということをずっと言い続けてきた結果、この体験をしている誰かがいるということが言えなくなったのです。

この「誰か」とは一体何なのだろう?と言う素朴な疑問がやってきたのです。なぜなら、体験主体を一度も見たことがないと気づいたからです。

過去のあらゆる記憶も、誰かの記憶ではないし、痛みも喜びも誰かのものではないのです。勝手に思考がやってくるし、感情も湧き上がるだけ。

体験の全てが自動で起きてくるだけなのですね。体験の中に私を見つけたことは、かつて一度もなかったということです。

誰かがいるということが、決定的に不可能だという気づきがやってきたと言ってもいいかもしれません。

「誰か」はあり得ない。だから、「私」もあり得ないのですね。嘘だと思うなら、自分がいると思うところを探してみてください。

絶対に自分を見つけることはできないはずだから。で何か変わることがある?と見つめたら、実際にはこれまで通りの人生が続いていくのですね。

ただそれを人生と呼ぶのはどうなのだろう?という感覚が強くなっていて、やっぱりそれはただ体験が起き続けるということです。

中心が薄れていく

これが「私」と思っている自分には、何となく中心があるように誰でも感じているのではないでしょうか?

それこそが自我の正体なのです。自分というのはしっかりとした明確な存在であり、そこには中心と思しきものがあるのだと。

けれども実際には、自我というのは思考の塊のようなものであって、そこに私たちがイメージしている実体のようなものはないのです。

そのことを簡単な図で示してみたので、下図をご覧ください。中心部には確かに円があって、そこがこの図の中心のように見て取れます。

周囲にある一本一本の線は思考を意味していて、無数の思考が絡み合って自我が成立することを示しています。

ここで、この思考を外していくとどうなるでしょうか?結果は明白です。そこにあると思っていた中心(円)は跡形もなく消えてしまうはずです。

これが自我が幻想に過ぎないということの意味なのです。思考の連鎖があたかも中心があるかのような錯覚を与えるのです。

非二元の探究においても、この自我の中心が薄れていくような感覚を味わうことができるのですね。