AIはいずれお金の価値をなくす

最近のAIの進化が凄まじくて、今後はその勢いに更に拍車がかかって、きっと想像を上回るような驚異的な進化がやってくるでしょうね。

特に、AI自体が次世代のAIを開発するようになった時に、つまりその進化が人間の手を離れるようになったら、もう全く予想ができなくなるわけです。

しかも、AIとロボットの合体によって、あらゆる仕事を人類に代わって成し遂げるようになるはずです。

そうなると、人間は仕事をする必要がなくなります。AIに仕事を奪われるという側面もありますが、もう一つはお金を稼ぐ必要がなくなるのです。

なぜなら、AIロボットの発達は仕事の生産性を驚異的に高くするので、物価は限りなく低くなっていくからです。

テスラやスペースXのCEOであるイーロン・マスクは、「AIの進化はお金の価値をなくす」と断言しています。

しかも、それは20年後くらいにはやってくると言っています。人類は労働から解放されて、働きたい人だけが働く世界がやってくるのです。

多くの人々は、ただ自由な人生を気の向くままに生きるようになるのです。その時に、今の私のように探究をライフワークにする人も増えるような気がしますね。

なぜなら、何者かにならねばとか、何かを達成しなければといった欲望が小さくなってしまうからです。

ただし、希少性を争う強烈な自我にそそのかされる人々もいて、全てが万事丸く収まるということにはならないかもしれません。

この世界がどのようなものになったとしても、最終的には人間(自我)の欲望が小さくならない限りは、不平不満がなくなることはないのでしょうね。

非二元はマルチモーダル

最近の目覚ましいAIの進化の特徴とも言える言葉にマルチモーダルになったというのがあります。

ここで言うマルチモーダルとは、マルチ(複数)の異なるモード(情報形式)を同時に扱うと言うことを指します。

たとえば、テキスト(文章)、画像、音声、動画、その他の情報を統合して処理することができるわけです。

画像を見て説明文を書くとか、音声を聞いて文字起こしする、動画を見て内容を要約すると言ったことです。

このマルチモーダルのイメージを非二元に当てはめることができるなと思ったのです。二元の世界では、見る=視覚、聞く=聴覚、触る=触覚なわけです。

ところが非二元では、見ている主体も、聞いている主体も、感じてる主体も実体としては存在しないのです。

実際には視覚+聴覚+触覚が一つの現れとして起きていると言うことですね。つまり、マルチモーダルに立ち現れている一つの体験となるのです。

これまでお伝えしてきた非二元は一様であると言うこととも繋がることですね。空に浮かぶ雲と空腹感は一つの現れなのです。

本当のところ、マルチモーダルと表現したくなるのは二元の発想なのです。非二元がすでに「そうである」ことを、思考が追いかけて名づけた言葉です。

実際には、ただコレがあるとしか表現することができないのですね。

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無理なく自我の不在に気づく

非二元に気づく以前の私の探究というのは、ひたすら自我が幻想であることを見抜くためのものでした。

手段はもっぱら瞑想に励むことでした。なぜなら、それ以外のどんな方法も思いつくことができなかったからです。

歴史上の覚醒者のほとんどが、瞑想や座禅によって悟りを開いたと聞いていたからですが、指導者不在の中での瞑想は遅々として進まなかったのです。

そして非二元の気づきらしきものがやってきたわけです。それは自我からの解放という目的とは異なるものでした。

自我の存在云々以前に、この世界の実体が存在しないということの気づきだったからです。こうした気づきを自我が邪魔をすることはなかったのですね。

だから自我のままで、十分に余裕を持って非二元の探究を進めて来れたのです。そして自分の中で、この世界の不在が定着して行ったのです。

そして、外側の世界が不在であることを通して、それなら内側の世界もあるはずがないという決定的なものが見えてきたのです。

自我でいながらにして、自我の不在を明確にすることができたのです。そして、外側も内側もない世界に残るものがあるのです。

それが体験であり現象だったのです。そしてそれは純粋な気づきでもあるということになったのですね。

ここへ来てようやく、ただ純粋な意識、気づきだけがあるというのが究極の事実であると言えるのでしょうね。

体験を説明するのは難しい

体験だけがあるという前に、そもそも体験とは一体なんなのだろうか?ということについて明確にしておきたいと思います。

私が今分かっているレベルでは、体験というのは時間でも空間でも物質(素粒子)でもない何か。

時空と物質に依存することなく起きるように見えるもの。このような定義ができるのかなと思っています。

体験についてはこれまでどんな科学者も触れることはなかったのです。科学者は分かったつもりで終わっているのです。

そして唯一体験が依存しているのは、気づきなのですね。気づきがなければ体験は起きようがありません。

体験あるいは現象は気付きと同義語と言っても過言ではないかもしれません。体験あるいは現象をこれ以上うまく説明する術がありません。

説明することができないのに、それだけがあって、それ以外がないのですから驚きです。加えて、体験には気づきが必須ですが、気づきに体験は必須ではないのでしょうね。

映像のスクリーンは体験の場のようなもの

非二元の説明の中で、「体験しかない」ということを繰り返しお伝えしているのですが、それを別の言い方で説明してみたいと思います。

一番分かりやすいのは、スクリーン上に映し出される映像です。スクリーン上には、映像以外はありません。

つまり、「映像しかない」と言えるのです。映像の中身にはそれこそあらゆるものが含まれますね。

人間ドラマかもしれないし、大自然の映像だけかもしれませんが、その場合は物語は入ってくることはありません。

そして映像には必ず、それを体験(観る)する体験者が必要です。映像だけが単独で存在することはできないからです。

これが二元の世界です。一方の非二元においては、体験者がいるという体験が起きているように見えるのです。

その映像の中に体験者が含まれているわけです。そして、スクリーンこそが映像に気づいている意識であるとも言えますね。

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二元の世界は目的と手段でできている

昨日のブログでは、自我の生き方というのは目的と手段の分離が一般的だというお話をしました。

一方で、目的と手段が一つであり、つまりは目的も手段もないような状態というのは、無我の状態になるということでした。

苦しみの原因は自我であることから、無我の状態になれるのであれば、それは私たちにとって理想的であることになります。

ではそのコツは何かというと、非常にシンプルに好きなことをただやるということになるのですね。

何かをしている理由を問われても、ただそうしたいからしていると言えるのであれば、これは目的も手段も消えていることになるからです。

幼い子供がよく絵を描いている姿を見ると思いますが、その子が絵を描く理由はないのです。ただ、描きたいから描いているのです。

これが無心の状態になっているわけです。ここにはどんな苦しみも発生することがありません。

ところが、上手に描いて褒められたいと願うようになると、褒められるという目的のために絵を描くという手段を使うことになり、突然自我の領域に変化してしまいます。

そうなると、絵を描くことがつまらなく感じられるようになって、絵を描くことをやめてしまうようになるのです。

自我はいつでも自我の領域に本人を戻そうと画策していることに気づくことです。そして注意深く、目的と手段が分離していないかどうかを確認することです。

この場合は、褒められて安心したいという防衛が、入り込んだ結果だと理解する必要があります。

非二元を思い出して、物語の中にどっぷり浸かってしまっていたことに気づくことでも、それを回避することができるはずですね。

非二元では目的と手段が一つになる

私たちは、一般的にお金を稼ぐという目的のために働くという手段を取るし、空腹を満たすために食事をするのです。

このように、自我というのはいつも目的と手段のペアで生きていると言えるのです。その目的を達成するために手段があるのだと。

目的と手段が綺麗に分かれているわけです。これがほとんどなのですが、たまには目的と手段が一つになっている場合があります。

たとえば、ギターを弾いてみたいという時、ギターを弾くことが目的であり、そのための手段はギターを弾くことなわけです。

そうした時には、目的は目的ではなくなり、手段も手段ではなくなってしまいます。つまり、ただそれが起きているということ。

そしてここには、自我の姿はありません。つまり無我の境地でいる時には、必ず目的と手段が一つになっているのです。

大笑いしている時というのは、ただ大笑いしているだけであって、笑う目的も笑うという手段もありません。ここに自我の戦略はありません。

ただし、作り物の笑いの場合には、嫌われたくないという目的のために笑いという手段を取ることとなり、目的と手段は分離するのです。

覚醒するという目的のために瞑想という手段を取る。覚醒というのは自我からの解放を意味するので、自我から解放されるために自我の生き方をしているのです。

目的が消えた時、自動的に手段も消えていくわけです。これが二元が非二元になるということを意味しています。

毎日の生活の中で、目的と手段が一つになっている、あるいは双方が消えている時だけ、あなたは輝いているのですね。

自動運転を思い出す

人生の中で、何度も大きな決断をしなければならないことがありますね。仕事を決める時や、誰と人生を共に生きていくかを決めるような場合。

あるいは、何か比較的高価なものを購入しようとするときなど。すぐに決定できる時や、かなり思い悩む時もあるものです。

今思い悩むという表現を使いましたが、そうした決意に至るプロセスを楽しめる人はいいのですが、それを苦痛に感じる人もいるのです。

私自身は、家を建て替えるときの膨大な作業量を楽しむことができないタイプでしたので、丸ごと誰かに頼みたいと思ったのを覚えています。

きっと失敗したくない、損をしたくないといった不安感が、意思決定のプロセスを辛いものにしてしまうのでしょうね。

そんな時に役に立つのが自動運転という考え方です。日頃は忘れてしまいがちなのですが、ふとその視点に戻ることができると、物事がどう推移していくかを眺めることができるのです。

そこへ持っていく一つのヒントは、たくさんあると考えられる決定要因を全て傍において、今この瞬間に特化した最優先の要因にのみ注目するのです。

すると、あれこれ考えあぐねていた事柄が、あっという間に結論が出てしまうのです。そのときに、自動運転であることに再び気づくことになるのです。

この自動運転への信頼感は、非二元の探求からやってきたものです。皆さんも是非何かを決めあぐねている時に思い出してみることをお勧めします。

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非二元は何でもありを思い出させる

子供の頃から割と理屈っぽい性格だったなあと思うのです。もちろん大人になってもそこはそれほど変化してはいません。

理屈に合わないことを言われたり、理路整然としていないことがあまり好きではないというところは同じです。

けれども、非二元の探求によってこの世界というのは単に現象が現れているだけだと分かったので、そこにはどんな理屈もないということが明確になったのです。

正確に言うと、現象が起きているように見えるだけで、その現象にはどんな実体もないのです。

だから、どんな現象が起きようと、どれほど不思議な現象(体験)が起きようと、それはもう当たり前のことだと。

言ってみれば、「何でもあり」になってしまったのですね。「そんなことはあり得ない」が消えてしまったのです。

そう考えると、もっともっと不思議で奇想天外な事象がたくさん起きてもいいのになあと思うのです。

何が起きるか予想できないのはやや不安な気もしますが、一方であの幼少期のようにルールなしの世界で生きる開放感は格別ですね。

純粋な気づきだけがある

二元性の世界を作り出している根っこにある幻想は、客観的事実が存在するという思い込みです。

この思い込みは非常に強くて、一体いつからこんな妄想を信じて疑うことをしなくなったのか、不思議です。

本当はただ現象が起きているだけであって、それが何かはまったく説明することもできないし、理解することもできません。

ただ一つ分かるのは、現象は気づきなしでは起きないということです。常に気づきとともに現れては消えていくのです。

つまりは気づきありきなのです。それなのに、気づきの外側があるという妄想をしてしまうのですね。

それこそが客観的事実なのです。気づきがカバーしきれない未知の存在、それが客観的事実というわけです。

それは不可能だと気付けます。不可能を可能にできるのは、それが妄想だからに他なりません。

気づきが身体の内側にあるという途方もない妄想が、そうした幻想の連鎖を生んだということでしょうね。

注意深く妄想を排除していくことができれば、全ては純粋な気づきであり、それ以外は何もないということにも気づくことになります。