「私」は心的活動のプロセス

我々が「私」だと思っているソレには、中心というものがありません。なぜなら、実体がないからですね。

それなのに、そもそもなぜ一塊りの存在のように感じることができるのか?ここが非常に悩ましいところです。

でもよく見つめてみると、ソレは何らかの仕組み、メカニズム、あるいは心的活動のプロセスと言えるかもしれません。

仕組みやプロセスであれば、実体がないのは当然です。何かの働きに過ぎないからです。私たちは自動車を一塊の存在と見ています。

もちろんボディがあるからですが、それにしてもそれ以上の何かを感じるのではないでしょうか?それが車の働きによるものです。

動くというプロセスが起き続けているだけなのですが、そこに何かがあるように感じてしまうわけですね。

けれども、ボディ以外の内部の複雑な部品を一つ一つ解いてバラバラにしたところで、そこには何も見つかりません。

それと全く同じなのでしょう。1人の人間としての機能が起き続けているだけで、それをバラバラに解体したところで、何も見つけられないのと同じです。

たまにですが、自分を一人のまとまった存在としていられるようにしようと、企てていることに気づくことがあります。

自我としては、そうした涙ぐましい努力を裏で行なっているということですね。そうでもしないと、崩壊の憂き目に遭うとも限らないからですね。

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