私たちの身体のあらゆる場所から、絶えず様々な感覚がやってきているわけですが、それが痛みだったり暑さ寒さだったり、痒みや快感などもありますね。
そういった身体からの感覚を感じているのが自分なのであって、その感覚自体が自分だと思っている人はいないはずです。
それなのに、不思議なことにあまりに強い痛みや不快感が身体や内臓からやってくると、自分がその痛みそのものであるかのようになってしまいます。
なぜ、痛みその他の不快感と自分をはっきりと分離することができないのでしょうか?どのような場合でも、自分とやってくる感覚を分離することができるなら、ただその感覚を見ていることができるはず。
絶えることなくやってくる思考に巻き込まれているのが自分であって、自分自身は思考ではないと知っているはずですね。
それなら、どんな思考がやってきているのかを見ることができるはずです。ただ見ることができるなら、思考に巻き込まれることはなくなるのです。
感覚でもなく、思考でもないとすると、自分とは一体何なのでしょう?自分には気持ちがあるし、感情もやってくるし、あるいは気分というのもありますね。
それらすべてが自分ではないことも明確であり、やってきては去っていくそれらをじっと見ててあげることができるはずです。
そうやって、いつも自分にやってきては去っていく様々な感覚、思考、感情、気持ち、気分、こういったものをただただ見る、という練習をすることによって、より意識的な状態でいられるようになるのです。
そして、そのどれでもない自分とは何か?をとことん追求していくこと。その結果、身体の外にも内にも誰もいなかったと気づくことになるのでしょうね。
それなら、人生なんてものもないということになります。それなら、人生を殊更深刻に受け止める必要もなくなって、やってくる瞬間瞬間を全一に味わうだけでいいんじゃないの?となるのです。