人生とは惨めさを体験するゲーム

色々な体験ができることを期待して、ワクワクしながら地球に生まれてくるのですが、その中でも決定的なのが、惨めさの体験です。

全体性の一部として存在していた元々の状態において、そもそもが分離した個別の存在というのはどうやったって理解ができないシロモノな訳です。

そこから派生してやってくる惨めさの体験というのは、きっとさらに興味深いのでしょうね。それがお目当てなのかなと。

そしてそんなことは完全に忘れてしまって、いざ生まれてしまうと実際に惨めさの真っ只中に放り出されるのです。

そうなると、今度は惨めさから逃れようとして、自分は惨めじゃないということを証明しようと躍起になるのです。

それが私たちが人生を賭けてやっていることだと思うのです。セッションをするようになってそれが明確になったのです。

それは、誰もが自分が惨めであることを易々とは認めようとしないということ。そのための奮闘努力が半端じゃない。

少し冷静になって見つめてみれば分かることですが、惨めさというのは事実ではなくて思考による思い込みに過ぎないと。

惨めさを生み出すのは、期待値と現実との比較による落差です。つまり、惨めさから逃れるためにすることは単純です。

未来に期待することと比較することをやめればいいだけなのです。けれども、そのどちらもが分離した自我の常套手段なのです。

十分に惨めさを体験するためにも、そこから一歩も逃れることなくそれをしっかり見つめることです。

もしくは、もっと単純に本来の自分という存在を思い出すことができれば、惨めさなど不可能なことになるのです。

そうして惨めだという思い込みの馬鹿馬鹿しさに気づいてしまえば、めでたく地球でのアトラクションは終了ということになりますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

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