生きてると胸を張って言えない毎日

最近すごく現実感のない毎日を送っているなあと感じていて、元々そういうところはあったのですが、それが特にひどくなってきたようで。

いくつか理由はあると思うのですが、一つは目標とか目的といったものを失ってしまったというのが大きいのかなと。

達成できるかどうかは別として、覚醒することが唯一の目標だったのですが、それが根本から消え失せてしまったのですね。

そうなると、私という自我はどうしていいのか分からなくなって、手持ち無沙汰という状態になっているわけです。

それに加えて、セッションの機会が極端に減ってきてしまったこともあって、ただただその日が過ぎ去っていくだけという感じなのです。

さらに言えば、非二元の方に意識を向ければ誰もいないし、この世界もないということになるので、余計に無為な感じが広がっているのだろうなと。

こうしたことの積み重ねによって、最近の何もしない、何もない毎日を淡々と生きている、あるいは生きてもいない感じになってきたのかなと。

まさかこんなことになるなんて、想像もしていなかったですね。ここに幸も不幸も何もなくて、内側は静かなんですけどね。

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質問を理解するのって難しい

小学校の国語のテストで、文章の読解力を問う問題というのがありましたね。誰もが経験していると思いますが。

この部分は、文章中のどの部分を指すのか?とか、この文章のここからここまでの内容を一番適切に表現しているのはどれか?等々。

そういうのは自覚としては、比較的得意だったように記憶しているのですが、一方で「詩」の内容を理解するのが苦手なようで。

例えば、一編の詩を読んで、作者は何を意図してこの詩を詠んだのか?みたいな問題が出ると、困ってしまうのです。

日本人の歌手の方が歌っている曲の内容を理解するのも難しくて、最近ではたまに歌詞の意味を解説してくれてるサイトなどがあって、それを参考にしたりしています。

そのときに、この歌詞からこんな解説ができる人の脳って一体どうなってるのだろうと、その能力の高さに脱帽してしまうのです。

人には向き不向きがあるから仕方ないことだろうなと、勝手に自分を納得させておしまいにしていたのですが。

最近のことですが、非二元関連の動画へのコメント(質問)をいただくようになって、それに対してなるべく間違いのないように答えを届けようと。

それがすごく難しいのです。ちょうど「詩」の理解が苦手なのと同じ感覚になるのです。この年齢になっても、勉強させてもらえるのがありがたいですね。

過去に遡って風景を見れる時代

最近では、どこか初めてのところへ出かけるときには、大抵 Google Map で地図情報を収集してから出発するようになっています。

特に、目的地付近のことを詳細に調べるために、Street View 機能を使いますね。それによって、景色や建物などを見ておくことができるからです。

実際に出かけない場合であっても、地図上だけで様々な情報を調べることができて、本当に便利になったものだなと。

特に、Street View 機能の中で、年代を遡って画像を見ることができるのが、とても面白いなと思うのです。

今の所、何十年も前にまで遡ることはできないですが、ちなみに私の自宅の周辺は16年前まで戻ることができます。

それで思ったのですが、これからの人、例えば今年産まれたような新人類の人たちであれば、自分が産まれた頃にまで遡って画像を見ることができるようになるかもしれません。

自分が産まれた頃は、自宅やその周辺はこんな感じだったのかとか、今はもうなくなってしまった母校やその他の建物などを見ることができるのです。

私の場合、この年齢になった今でも小学生の頃に住んでいた自宅の辺りの風景を思い出すことがよくあるのです。理由は分からないのですが…。

その風景をスマホで実写レベルで確認できたら本当に夢のようだなあと思うのです。時代は変わりましたね。

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いつかはどこかに流れ着く

会社員だった頃のことですが、ある朝出勤しようと外を歩いていたら、どこからか沈丁花の芳しい香りが漂ってきたのです。

きっと今ごろの季節だったのでしょうね。朝の時間、少し肌寒さを感じていたように記憶しています。

その瞬間、アレっという感じがしたのです。それは、きっと言葉にすると「この感覚で元々は生きていたはずだ!」というものです。

そのころは仕事地獄にハマってしまっていて、本来の自分の感覚を殺して日々生きていたのでしょうね。

それが、沈丁花の香りのおかげで一瞬にして本来の自分の感覚を思い出させて貰ったということなのだと思うのです。

そのくらい、ちょっと衝撃でしたね。その瞬間、いったい自分は毎日何をやっているのだろうと思ったのです。

ところが、それも束の間、またすぐに仕事のプレッシャーに追われる日常のあの感覚に乗っ取られてしまいました。

人間て、乗っ取られている時にはそれと気付かずにいられるのですね。それは、都合がいいと言えばいいのですが。

逆に言えば、気付けなくなった状態で人生が続いていってしまうわけで、それは非常に危険なものだろうなと。

私の場合は、大腸癌を患ったことがきっかけとなって本来の感覚を取り戻すことができて、今に至ります。

それはとても幸運だったなあと。気付けない状態の人に他人が何を言ったところで難しいのですね。もどかしい限りですが。

それでも、物語は流れていくもので、いずれはどこかに流れ着くものですね。

どんなことでも普通になってしまう

思えば会社員の頃の生活よりも、今の仕事をするようになってからの方が長くなってしまったようで、自分なりに感慨深いものがあります。

会社員の頃というのは、とにかく休日が何よりも大切という感覚で生きていましたね。平日があまりにも忙しかったからです。

さらに言えば、せっかくの日曜日でも自主的に出勤してることも多かったので、とにかく家で寛ぐことが非常に大事だったわけです。

ところが、今の生活になって言ってみれば毎日が日曜日のような感覚になってしまったのですね。なにしろ、誰にも強制されることがない。

クライアントさんがいらしてくださったら、何とまあありがたいことかと感じながら、興味深いセッションをすることができるからです。

労働と感じたことは一度もなかったですね。ところが毎日が日曜日となってしまうと、今度はそれが普通になってしまうのです。

会社員の時の休日という非日常の感覚がないわけです。どんなことであれ、それが日常になってしまうと非日常感を味わうことはできなくなるということ。

それでもたまに会社員だった頃の辛さを思い出せば、今の生活がどれほどありがたいかを感じることができるのですが。

ただ休日のあの特別感はもうやってくることはないのですね。人間て本当に贅沢なものなんですね。

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ソフトウエアは顕微鏡でも見つからない

これまでの科学というのは、客観性を土台として発展してきました。主観というのは曖昧なものだからですね。

ある理論を仮定して、あらゆる実験を繰り返して客観的なデータを得ることで、その理論が証明されたとするわけです。

誰かが、この理論が絶対に正しいといくら主張しても、それは主観的な範疇のものだから客観的な裏付けがないので認められないのです。

そうやって一つひとつ進歩を遂げてきたのですね。けれども、その方法だけではこの先行き詰まることになりそうです。

特に人間の脳を科学的に解析していくためには、客観的なデータの蓄積だけでは最も大切な意識とか無意識の研究はできないのだろうなと。

というのも、現在やっている方法は脳を直接物理的に解析する手法だけなので、これはコンピュータのハードウエア回路を解析することと同じ。

それだけでは決してコンピュータの能力を見出すことはできません。実際に、ワードやエクセルなどの機能は、ソフトウエアによるものです。

ソフトウエアは、どれほど詳細に半導体回路を解析しても見えてはきません。それと同じことが脳についても言えるのかなと。

脳という集積回路の中で、どのようなプログラムが活動しているのか、それを調べることでしか脳の働きを本当には理解することはできないのでしょうね。

脳があればという前提ですけどね。

マズローの欲求階層

マズローはかつて人間の欲求を5つの階層に分類したのですね。一番下から見ていくと、次のようになっています。

1番目の階層は、「生理的欲求」というもの。生きるために必要な基本的な欲求であり、たとえば食事、水、睡眠、呼吸、排泄など。

2番目の階層は、「安全の欲求」です。生命や生活の安定を求める欲求であり、たとえば健康、経済的安定、住居、治安などです。

3番目の階層は、「社会的欲求」です。人と繋がり、仲間や愛情を求める欲求。たとえば、家族、友人、恋愛、職場の人間関係など。

4番目の階層は、「承認の欲求」です。他者から認められたり、自分の価値を感じたりしたい欲求です。たとえば、仕事の評価、地位、名誉、自己肯定感など。

5番目の階層は、「自己実現の欲求」です。自分の能力や可能性を最大限に発揮したい欲求です。たとえば、創造的な活動、夢の実現、自己成長など。

そして後の研究では、「自己超越の欲求」というのが付け加えられたという説もあるらしいですね。

それは、社会貢献や他者のために生きることを求める欲求です。下の段階の欲求が満たされると、次の段階の欲求を求めるようになるとされているようですが。

「自己超越の欲求」で生きているなと思える人を複数名知っていますが、自分はそこには一生到達しない気がすごくしますね。

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テレビ時代の終焉

久しぶりにちょっと面白いテレビドラマを観たのですが、ネットで観たので連続して全ての回を通しで観れるのがいいですね。

テレビで観ると、続きを観るのに一週間待たなければならないのが辛い。大人になってからは、そうでもなくなりましたが。

子供の頃は、観終わったあとすぐに、ああ一週間も待つのは地獄だなあなどと思っていたことを思い出しますね。

そういう意味では、本当にいい時代になったものです。自分の都合のいい時間に好きなだけ続けて観れるわけですから。

しかも、全く興味のないCMを観ずにいられるのも本当に助かります。もうテレビで直に観る時代には戻れそうもありません。

聞いた話ではあるのですが、テレビでCMを流してもほとんど売り上げに影響しないというデータがでているらしいですね。

もちろん商品にもよるのだと思いますが、私自身昔からCMを観て、ああこれ買いたいなと思わされた記憶がないのです。

それよりも、SNS上に出てくるCMの方は、時々魅力的な商品が紹介されるので、実際にそれで購入したことも何度かあります。

もうそろそろテレビの時代の終わりが、実際に始まりつつあるような気がしますね。

ただ見抜くということ

体験だけがリアルということに気づくと、どんな体験であれ何も違いはないということにも気づくことになります。

違いがないというのは、体験に優劣はないし、どんな意味もないし、善悪もないし、ということなんですね。

オーバーに聞こえるかもしれませんが、いわゆる覚醒体験をしようが、ただ暇を持て余して家でゴロゴロしている体験であれ、同じなんです。

アメリカの大統領になって世界中を動かそうが、毎日毎日小さな畑を耕そうが、何も変わりはないのです。

リアルさというのはそういうことです。価値判断とか、そこに違いを見出すということは妄想であり空想でしかないからです。

私たち自我というのは、何に対してもそこに何らかの意味を見出そうとしてしまうのですが、意味などどこを探そうがないのは明白です。

こうしたことを見抜くのに、ことさら非二元という概念を導入する必要もありません。これはただ見抜くということです。

瞑想によって思考を止める必要もありません。自我ど真ん中で生きていてもそこに問題はないのです。

ただ見抜けばいいだけなんです。付け加えるに、この見抜くという体験も見抜かない体験も何も違いがないということでもありますね。

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久しぶりにワンネスの話

私たちの身体の司令塔は何といっても脳ですね。脳がさまざまな情報を取得するとともに、それをコントロールしようとするわけです。

脳が取得する情報は、外界のものと身体の内部のものとがあります。どちらにしても、脳は直接知ることはできません。

つまり、間接的にしか知ることはできないのです。外界を知るためには、身体の感覚器官を用いてデータを取得するのです。

また、身体の内側については内臓や筋肉、神経などを経由して情報を得るわけです。このように、脳が知る方法は全て間接的であるわけです。

脳がそれ自体を知る方法はありません。このことは、意外なことでも何でもなく、何であれ何かを知るということは、全て間接的であるということなのです。

私たち人間にしても、自分のことは他人を通して知るわけです。自我の生い立ちを見てもそれが言えます。

自我は、他人が自分をどのように見ているかによって、自分というものを作り込むのですから。

スピリチュアルで言われるワンネスも全く同じ。一つしかなければ、それはそれ自体を知ることができないの、それを便宜上分離させてそれを知ろうとするのです。

その一つひとつの細切れが私たち一人ひとりであるという発想ですね。珍しく、ワンネスの話を書いてみました。ちょっと懐かしい感じがしますね。