全ては無駄ではなかった

非二元の気づきがやってくるまでの間、結構長きに渡ると思うのですが、ずっと純粋な意識こそが自分の本質だということを言ってきました。

その本質に気づくために、瞑想を続けてきたのですね。瞑想によって、マインドの奥底に隠されている真の自己、つまりは気づきに気づけるかもしれないと。

そのことによって、自我としての自分の苦しみから永遠に解放されるはずだと信じていたわけですね。

ところが、そこに非二元の気づきがやってきて、それはもう驚愕の事実だったのです。自分の正体が気づきだということよりも、この世界この宇宙が丸ごと幻想だと気づいたのですから。

そうなったら、もうそのことをただ追求していきたくなって、瞑想もやめてしまいました。癒しの仕事は問題なく続けて行くことができたのですが。

そして、全てが現れであって、それへの気づきが常に共にあるのだと。ただここで、ふと気づいたのです。

あれ、これって一周して戻ってきたんじゃないかなって。そうなんですね。瞑想をして気づきに気づこうとしていたのは間違っていなかったんだと。

そんなわけで、この一周は自分にとってとても大きな経験になったように感じています。非二元の気づき前と後が融合したみたいな感じです。

全ては無駄ではなかったということです。

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「気づき」によって救われる?

意識というのは、脳の機能によって作り出されるモノだと、きっとほとんどの人はなんとなくそう考えているのでしょうね。

脳、つまりは身体の一部によって生み出されるモノということです。だから、身体が自分の一部だと感じても不思議ではありません。

その一方で、意識というのは物理的な身体や精神的な心などを超えたところにある何かだと感じている人も中にはいるはずです。

私はこれまでずっと後者の感覚を持って生きてきました。もちろん今もそこは変わらないのです。

そして今ではもう確信になってしまっています。ただ、意識という言葉にはさまざまな意味合いが込められていて、間違った意味で伝わってしまう可能性が高いのです。

だから、今は敢えて意識という言葉よりも、「気づき」という表現の方を選んで使うようにしています。

たとえば、非二元的なことを言えば、今ここにあるコレというのは、全てが現れであると同時に、それへの気づきでもあると。

目の前にあるリンゴを見て、そこにリンゴがあると分かるためには、気づきがどうしても必要となるのです。

目で見るという視覚だけでは、リンゴを見ているということに気づくことができないからです。

人間以外の動物には、この気づきがないので、ワンちゃんは今目の前にある餌を食べていると自覚することはできないのですね。

我々も何かに夢中になっていたりすると、いわゆる無意識状態になってしまうので、気づきはあるものの気づいていない状態に一時的になるわけです。

逆に、私はただ在るということに気づいていられるなら、幻想から脱出して自分の真実に戻ることができるかもしれないですね。

視覚は実体を掴めない

生まれつき全盲のある人が、大人になって初めて白内障の手術を受けることになって、目が見えるようになったのです。

これは実際にあった話なのですが、その人は初めて自分の目の前に置いてあるあるものを見ても、それが何なのかは分からなかったのです。

ところが、その目の前にあるものを手で触れた瞬間に、これは◯◯だと分かったのです。これってどういうことか理解できますか?

つまりその人は長いこと、モノに触れることで、それが何なのかを知るという経験を繰り返して生きてきたわけです。

私たちが何かを認識する場合、長い間の経験によって蓄えられたデータベースと今この瞬間に知覚から入ってきた情報の両方の突き合わせが必要だったということ。

触覚では経験していたものが、視覚ではそれがなかったために、見えてはいるのに何を見ているかが分からなかったわけです。

視覚というのは、単に色、形、大きさ、光の具合、そう言ったものの情報だけを受け取るということです。

繰り返しますが、視覚情報だけではそれがなんなのかという認識はできないということです。このことを理解できれば、次のことも分かるはずです。

何かというと、視覚情報だけでは見えているモノに実体があるかどうかは分からないということです。

なぜなら、色、形、大きさ、光の具合などは単なる見た目の情報だけだからです。これで分かったと思いますが。

何かを見た(視覚)だけでは、その対象物の実体があるかどうかは分からないということ。ここに気づくことができると、非二元の方に入っていくときの抵抗が少なくなると思いますね。

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自分の気分も現れの一部

誰でもそうなのかもしれないですが、自分はこの自分の今この瞬間の気分にものすごく強い影響を受けてしまうなあと。

一応いい年齢ですし、大人ですから自分の内なる気分をそのまま外側に出すようなことはしないつもりではいるのですが。

ただ自分では気付かぬうちに、きっと気分の良し悪しが人との関係の中で滲み出てしまっているのかもしれないなと。

だからこそ、自分の気分がいい状態のままでいられるようにしたいと常々思っているし、そのためにはどうしたらいいのかなということも考えているわけです。

一番シンプルなのは、自分にとって都合の悪いことが起きなければ、当然気分も悪くはならないので問題ないのですが、そんな都合のいい人生なんてありえません。

じゃあどうしたらいいのかなと。これまでは、気分が悪くなる原因を特定して、そこになるべく影響されないような工夫をしたりしていたのです。

けれども、そんなことを根底から覆すような気づきがやってきました。それは、自分の気分というものも外界で何が起きるのかと同等だということ。

つまり、周りで勝手に(全自動で)起き続けている現れとまったく同じだったのだと。自分の内側にあると感じていた気分も勝手に(全自動で)起きる単なる現れだったのだと。

そう、たったそれだけのことだったのです。気分をなんとかしようとするその思考すら、ただの現れに過ぎなかったということです。

ということで、自分は個人で自分の気分に影響されてしまうという思考すら、現れだったわけですから、もう全てがOKなんですね。

「在る」は決してなくならない

今日アップした動画のタイトルが、『「私」がいるという感じが取れない』というものなのですが、この動画の内容に関連したことを少し書こうと思います。

実は、この動画は3週間くらい前に撮影したものなのですが、内容としてはこれまでに色々と真理に気づいてきたはずなのに、個人としての私がいるという感覚がしぶとく残っているというものです。

それ以外のことは、びっくりしながらも概ね腹落ちしてきたのです。ものには実体がないとか、時空も幻想だとか。

ただし、私がいるというこの一点がしぶとく感覚として残ってしまっているということ。ところがです。

この数日の間に明確になったことがあるのですが、それはこの「私がいる」という感覚は、ただ在るという感覚を自我が横取りしていたものだったのだろうと。

「在る」というのは、何かが在るということではなく、ただ在るということ。この感覚自体は、なくなることはなくて良かったのだと気づいたのです。

簡単に言えば、意識とか気づきと表現できるものです。ただ、意識と言ってしまうと誰かの意識というニュアンスが出てしまうので、ただの気づきという方がいいかもしれませんが。

「いる」のではなく、「在る」というのはかなり昔からずっと扱ってきた命題だったのですが、それが今になって花開いた感じです。

「在る」は決してなくならないということですね。

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直接経験に注意を向けてみると…

直接経験していることだけに注意を向けて、それを詳細に検証していくうちに、やっぱり客観性というのが概念だったと分かります。

どういうことかと言うと、例えば目の前にあるリンゴを見ているというのを検証してみるのです。

そうすると目の前にリンゴがあるという経験はしていないということに気づくことになるかもしれません。

というのも、見るということ、つまり視覚には、リンゴの実体を見るという能力がないということに気づきます。

視覚というのは、あくまでもリンゴの色とか形とか大きさとか、そう言ったものを知覚しているだけだからです。

それなら、リンゴの実体を知覚できるような感覚器官をそもそも持っているかということを見て見ると、そんなものがないと気づきます。

触覚についても調べてみると、リンゴに触れたとしてその感触はさまざまな感覚を与えてくれますが、それだけです。

リンゴの実体そのものについては決して知覚できません。こんな簡単なことなのに、私たちはいつの頃からかリンゴには実体があると信じるようになったのですね。

圧倒的な表現力

非二元に関連するある本を読み始めたら、とてもびっくりするような体験をしたので、そのことについて書いてみたいと思います。

まだ実は、その本の「はじめに」というところを一読しただけなのですが、その数ページに大切なことが凝縮されていたのです。

オーバーに表現すると、この10ヶ月の間に自分が気づきながらそれを動画に挙げてきたことが、非常に簡潔にまとめられているのです。

苦労という苦労をしてきたわけではないですが、それでも亀の歩みのように少しずつ気づきが増えていった経緯を考えると。

それが、こともなげに非常に分かりやすく、そして自信を持って断定的に述べられているのを読んで、本当に驚きました。

自分のなかで気づいたことを自分の言葉でYouTubeの動画としてアウトプットしてきたのですが、それよりもこの本の言葉の方が響くのです。

これってどういうこと?としばし呆然としたのです。今だからこれほど響いたのかもしれないとも思うのですね。

この本の本文をこれから読んでいくのが、ものすごく楽しみであると同時に、ちょっと怖いような気もします。

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抵抗と探求が苦しみを生む

セラピストの仕事をするようになって、人間の苦しみというのは自我によって引き起こされるのだということを知りました。

自我を悪者にしたいわけではありませんが、自我の心理的自己防衛によって苦しみが生み出されるということが分かったのです。

自我というのは、自分で自分のことを守らねばならないと思うようになるのです。どんな環境で育てられたとしても大なり小なり、防衛が起きるのです。

表現を変えれば、自我は防衛とともに成長していくとも言えるのです。つまり、防衛は自我の裏の顔というわけです。

なぜそうなるかというと、自我は自分の個人的な人生を生きていると思っているので、現実のリアルな生と戦わねばならなくなるのです。

それが防衛です。リアルな生は、自我の錯覚である個人の人生のことなど知らないし、個人的な人生とリアルな生が一致するわけもありません。

そこで抵抗せざるを得なくなるのです。それが防衛であり、場合によって探求という形をとることもあります。

探求は防衛と違って抵抗ではないと思いがちですが、実は形が違うだけでそのふたつは似たようなものなんです。

探求というのは、要するにこのままの自分ではダメだという思いから起きるものであり、それはリアルな生への抵抗とも言えるのです。

抵抗は否定的であって探求は肯定的な響きがありますが、その二つはあるがままの生をそのままにしておかないということでは同じです。

その結果、どちらも同じように苦しみの原因となるということですね。

何も構わずにそのままにしておく

大切なことって、多くのことが逆説的になってしまうんだなということについて、書いてみたいと思います。

どういうことかというと、例えば「今ここ」にいるように努力しようとすればするほど、その努力が邪魔をして、「今ここ」から離れてしまうということ。

痒いところを掻かないように我慢すればするほど、掻きたいという衝動が強くなってしまうということ。

自分のことを否定してしまう習慣が良くないと思えば思うほど、それが自分を否定することになってしまうとか。

リアルな生との同期が外れているので、何とかして同期しようとすればするほど、その努力が同期から外れてしまうことになる。

明日朝早く起きなければならないので、少しでも早く寝なければと頑張れば頑張るほど、寝ることから遠ざかる経験は誰もがしたことがあるはず。

こうした逆説的なことって、本当に数限りなく思い付きます。今この瞬間何がどうであれ、それに構うことなしにいられたらいいのかもしれないですね。

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直接の体験に留まろうと心がける

アラン・ワッツという人の言葉で次のようなものがあるそうです。

「問うべきは、それを手にするためにこれから何をすべきかということではない。自分が今何をしているせいで今この瞬間にそれが認識できなくなっているのか、それを問うべきだ。」

この文を読んで、ハッとしましたね。これ完全に自分のことを言われてるじゃないかって。一番痛いところを突かれたような。

そうなんですよね。日頃、コレしかないということを言っていて、そのことについてもっと明確な体感を得たいと。

そのためには、これから先自分は何をすべきか?といつも思っていたところに、上記の言葉が刺さるわけです。

そうじゃないでしょと。何かをもっと手に入れなければ、それに気づけないというのが間違った発想だったと。

それこそが邪魔をしているだけで、その邪魔者を外すだけでいつも変わらぬコレに体感として気づくことになるのだと。

ここに留まろうとすることに関していえば、まったくできてないなということです。必要なのは、たったそれだけなんですけどね。