真実に気づいても苦しみはなくならない

せっかくの非二元の気づきを、普段の生活に生かすことができてないなあというのを常々思うのですね。

それはどういうことかというと、非二元ではリアルなのは今この瞬間にあるこの現実だけだと明確になっているのです。

コレと比べる何物もないし、コレとは異なる別の現実というものもない。このことが本当に腑に落ちるなら、一切の期待が消えてしまうはずなのです。

ところがどっこい、いつでもコレとは違うもっと自分にとって都合のいい現実を探し求めているのですね。

これは自我の自分を守りたいという強い思いからやってくるのだろうなと。私の言葉で言えば、自我の自己防衛なのです。

それがなくならない限りは、どこまで行っても未来に対する希望や期待もなくなりはしないのです。

そうなると、生(現実)に対して常に抵抗していることになり、それが私たちが感じる苦しみを生み出すわけですね。

真実を垣間見たとしても、苦しみや不満がなくならないのは、こうした理由があったということですね。

私などいた試しはない

そこにリンゴがあるように見えるということは、そこにリンゴがあるように見えるということだけだったと気づいてから、もう9ヶ月が経ちました。

これが非二元のことを語るようになった最初のきっかけだったのですが、それがきっかけとなって少しずつですが、自分の中で非二元が定着してきた感じはしています。

全ては見かけ、表れでしかない、つまりはモノには実体がないということ。ここからあらゆる嘘が自分の中で暴かれていったのです。

実体がないのですから、自分の身体というものの実体も当然ないということになり、この世は一体どんなとこ?となったわけです。

そして、時間や空間が単なる概念であるという驚愕の事実にも気づいてしまい、もう全てが幻想だったのだと。つまりは世界の消失です。

そこまで来ているのに、最後まで根強く残り続けているのが「私」という自我。私がいるように感じるのです。

私がいるように感じるのは、私がいるように感じることがあるだけで、もちろん私という実体など存在しません。

元々、私という曖昧な存在なのであって、リンゴの実体がないということに先んじて実体などあろうはずもないことは明白なのですが。

それでも最後まで居残ろうとする、この驚異的なしぶとさを笑うしかありません。ただ、私はいないと見抜かれた可哀想な奴なんですけどね。

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非二元>物理学

久しぶりに興味深い動画を見たのですが、それはある日本人の天才理論物理学者が物理学について色々な話をしてくれるものでした。

知っていることもあるし、知らなかった内容も含まれていたのですが、この人、なんて人柄の良い人なんだろうと。

まったく関係ないことまで考えたりして、それでもこれまでの自分が概ね思っていたような内容の話だったのです。

ところが、こうした物理学者の言葉を聞きながら、この理路整然とした説明を聞くにつけ、最近自分が話している非二元の内容の曖昧なことよと。

その天才も、言葉では到底きちんと説明することはできないのだけれど、その代わりに数学があるからという言い方をしていました。

確かに言葉の適応範囲はすごく狭いですが、それに比べて数学という言語は比べ物にならないくらいに幅広い現象を説明できるのですね。

残念なことに、非二元にはそんな強い味方となるものもないし、言葉でも説明できないし、どうしようもないということです。

ただはっきりわかるのは、どんな素晴らしい内容の話であっても、私の中では非二元が最強なんですね。

あらゆるものを凌駕してしまうんです。あの天才物理学者さんに非二元のお話をしたら、どんなお顔で聞いてくれるのかなと思って、想像したらちょっと面白くなったというお話でした。

曖昧さが入り込む余地がない

目に見えないものはまったく信じないと豪語する人たちがいて、私は幼い頃から本当にびっくりしていました。

何でそんなアホなことが言えるんだろうと。心だって見えないし、エネルギーだって、電波だって見えないものは山ほどあるのに。

それなのに、見えないものは存在しないとか、信用できないと言い切ってしまう人のことを頭が悪いなと思っていたわけです。

ところがです。非二元をじっくり見つめている間に、気がつくと見えないものが「ある」というのはイメージだとなったのです。

それは全ては、現れだということに気づいたからです。だから現れてもいない何かがあるということにはならないのだと。

面白いものですね。非二元では一切の想定というものを排除します。だから、そこには「◯◯のはず」というのがないのです。

現れしかない、それしかないのですから心とか、エネルギーとか電波なんてものは消えていってしまうのです。

もう少し正確に言うと、知覚できないものはないということ。音や香りなどは現れとしてあるけれど、空間や時間もないということに。

そんなふうにして、非二元はとてもシンプルだし明確なのです。少しの曖昧さもそこには入り込む余地がないですね。

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個人的な意識はない

私たちの本質は意識だという時、この気づいている意識というものを個人的な自分の固有の意識だと思っている人がほとんどではないかと。

だって他人の意識のことについては皆目わからないし、この意識は自分のこの身体と結びついている感じがするし。

どう考えたって自分の意識としか思えないと。これがごく普通にある意識に対する認識なんだろうなと思うのです。

けれども、もっともっと前提知識や概念を脇に置いて正直に見てみればわかるのですが、意識に大きさや境界があるでしょうか?

他人には他人の独自の意識があるという一般的な考えが本当にホンモノなのかどうか。こうしたことを見つめてみることです。

あるがままを見ていると、意識という言葉で表現する必要すらないくらいに、それが現れそのものでもあるという感じがしてきます。

「誰かの」ということが消えて、ただここにあるものであり、コレと切り離すことができないと分かります。

それはここで起こりつつあることにただ気づいているというより、それそのものとしてあるということですね。

できるだけ正直になるための実践

非二元の話をするときに、イメージを現実であると思い込んでしまっていることに気づくことがとても大切だということをお伝えしています。

私たちにとって一番身近なのは、やっぱり自分自身だと思うので、自分に対するあらゆるイメージを脇に置くという練習が効果的なのかなと。

そこで徹底的に自分にまつわる情報、データ、記憶などをすべて脇に置いて自分を見つめてみるということを実践してみるのです。

もしも目を閉じた方がいいなら目を閉じてやっていきます。まずやることは、今この瞬間に自分が出現したかのようにするのです。

ここにあるものだけを相手にするのです。自分にまつわるあらゆる属性を使わないようにするのです。

「自分の◯◯」をすべて却下していくと、後に残るものはどんなものでしょうか?自分は人間だという証拠はどこかにあるでしょうか?

自分は個人だという印は?自分は生きているという証は?自分の大きさは?形は?どこにいる?

これらの質問には一切答えられなくなるはずなのです。もしも答えられるとしたら、まだ情報を利用してしまっていることに気づくことです。

私たちは、本当のところ自分が何なのかを全く知らないということに気づくことになるのです。これがリアルなのですね。

こうした実践を地道に繰り返していくことで、自然と普段絶え間なく使い続けている古くからある自己イメージが、崩壊していくことになるのですね。

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リアルなものは説明できない

非二元に気づくためには、リアルなものとそうでないもの、つまりイメージとの違いに気づく必要があるということ。

ではなぜ私たちが単なるイメージを現実だと勘違いしてしまうのでしょうか?それは、他者との共有能力があるからなのです。

そもそもイメージする能力は、人間だけに備わった非常に優れたものなのです。他の動物には、昨日のことを思い出したり、未来を想像することはできないのです。

そしてそのイメージを他人に伝えるために言葉を発明したわけです。そうすることで、イメージを他者と共有することが可能となったのです。

自分一人でイメージしていることは、あくまでも想像していることとして取り扱うことにとどまるのですが。

他者と共有することができた時には、イメージは単なるイメージではなくなり、真実味が出てきてしまうのです。

そうして、より多くの人々との共有を通して、完全に現実と思い込むようになってしまったのですね。

つまり、私たちが日頃言葉で説明しているあらゆる事柄は、どれもこれもがイメージでしかないということ。

逆に言えば、リアルなモノは説明できないということになるのです。だから、賢者と言われる人々は真実を教えて欲しいと言われた時に、黙って坐れ!のような態度を取るのです。

真実は決して言葉で説明できないことを見抜いているからですね。非二元の話をする時も、コレしかないのような曖昧な表現を使うのも同じ理由です。

それがわかると、我々は虚構の中で生きていると気づきます。生きているというのも虚構でしかありませんけれど…。

期日前投票の風景

先日、期日前投票を済ませてきました。家から最寄りの駅と同じ距離くらいのところにある、とある区の施設なのですが。

歩いていくと10分弱かかってしまうので、この時期なるべく汗をかきたくないと思って日が沈んでから向かったのです。

建物の入口付近にちょっとした人の塊があって、なんだろうと思いつつもさっさと投票を済ませて帰ろうと。

中に入るとガラガラで、これはいいやと思っていたところ、ちょうど目の不自由な方が私の前にいらっしゃって。

付き添いの人と一緒に何やらやっていて、どうやって投票するのだろうと気にはなったのですが覗き見するわけにもいかず。

さりとて追い抜くこともできずに、結局はしばし待たされた感じになってしまいました。これはまあ仕方ないなと。

とはいえ、一体どんなやり方で投票するのかという興味だけが残ってしまいました。投票を終えて建物から出ようとすると、先ほどの人の集まりがまだあって。

ああ、いわゆる出口調査というものをやっているんだろうなと理解できたのですが、そこで引っかかりたくなかったので、そそくさと家路につきました。

今思い返してみると、生まれて初めての出口調査だったので、経験しておいても良かったのかなと。

自分でも不思議なのですが、外出中はいつもなるべく早く家に帰ろうとしている自分に気づくのです。幼い自分が外の世界を怖がっている?

そのことで、やや損をしていると感じることもあるのですが、仕方ないですね。そういうキャラになってしまっているので。

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三連休なか日の選挙ってどうなの?

三連休の真ん中の日に、参議院選挙を行うのって、どう考えてもできるだけ投票率を下げたいと思っているとしか言いようがありませんね。

一体何を考えているのでしょうか?いやいやこれを決定した人は呑気な馬鹿タレではなく、逆に必死なのが窺い知れます。

要するに、自分たちの政党、あるいは自分らが投票率が低いほど有利に働くということを見越しているわけです。

頭がいいのか悪いのか分かりません。でも、これ国として終わってませんかね?多くの人が選挙に行けば行くほど、自分たちが不利になると見込んだわけです。

そんな人たちを国会議員にしておくのはどうなんでしょう?それもきっと与党に違いない。終わってますよねえ。

誰が政治家になった所でいわゆる影の力が暗躍している限り、この国がよくなることはないと言うことを聞きます。

確かにそういう面もあるのかもしれませんが、とりあえず今回の選挙は期日前投票でこのままではダメでしょという意思表示をしました。

結局は、国民一人ひとりの意識のレベルが大切なのだと思いますけどね。

自己イメージを手放す

私たちの人生がどのようなものであれ、それはすべてその人が抱えている自己イメージによるものなのだと理解することです。

かなり幼い頃から自己イメージというものを無自覚に作り上げてきてしまったのですが、不思議なことにその自己イメージが現実化してしまうのです。

ただし誰もが自らの自己イメージを明確に分かっているわけではないですね。自己イメージはマインドの奥深いところに隠されていることも多いからです。

もしもあなたが自分の人生に満足していなかったり、自分はこのままではダメだと思い込んでいるとしたら、何はともあれ自己イメージに気づくことが先決です。

自己イメージをそのままにして、どんな努力を繰り広げたとしても結局はその自己イメージ通りの人生に戻ってくるからです。

逆に言えば、何にもしなくても自己イメージさえ変えることができれば、あなたは望み通りの人生へと向かうことも可能なのです。

そうなんです。どんな努力も不要なのです。ただただ自己イメージを書き換えることができれば、それが現実となるのです。

けれども、一番いいのはどんな自己イメージも持たないで生きること。これに尽きますね。透明な自己イメージはこの世界の全てから解放されるからです。

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