ホンモノの幸せ

このブログを書き始めてすぐの頃に、「幸せとは何だろう」というタイトルの文章を書いたのを覚えています。その中で、本当の幸せとは、永続的な心の平安であると述べました。そして、そのことはこのブログでその後もしつこく何度も繰り返し述べてきました。

それは、目指すものが、ホンモノの幸せでなければその人の人生は決して幸せにはなれないということを訴えたいからです。どんなに努力しても目標となる幸せがニセモノであれば、それは無駄な悪あがきになってしまいます。

永続的な心の平安は、完全に満たされている心の状態であるとも言えますね。自分には何も足りないものはない、不満がいっさいないという状態が続いているということです。

そして更に大事なことは、それが永続的だと自分で自覚できるということです。今日は満たされているけれど、これがいつまで続くか保証の限りではない、というのでは未来に対する不安が出てきてしまいますので、ホンモノではないということです。

自分には不足しているものは一切ないということは、一般的に自分が一人の人間として生きているという大前提からして、あり得ないことだと誰しも感じるはずです。

確かにそう思って当然なのですが、実はその理屈そのものが本当の幸せではない自分がこしらえた論理でしかありません。

物質的なあるいは物理的な世界観をベースにした理屈のワールドでは、完全というものは存在しません。完全な円とか、直線とか、そういったものはイメージの世界でしか存在しないのと同じですね。

したがって完全に満たされた状態というのも架空の世界での話しということになってしまいます。しかし、そういった理屈を超越したところにこそ、真の幸せがあるということなのです。

観念の世界、想念というのはあらゆる理屈を超えたところにあります。そして、そこにしかホンモノの幸せというのはあり得ません。すべては一つ、自分はすべてであるという想念こそ愛であり、それこそが完全に満たされた心の状態にしてくれる唯一のものなのです。

それを目指すとは具体的にどうすればいいかというと、愛という想念をできるだけ自分に体験させてあげることです。求めるのではなく、与えることによって愛に近づくことができます。

先延ばし症候群

約9年前にこの仕事を始めた頃、宣伝方法としてインターネット上にホームページを作ることを考えていたのですが、作り始めて最初の数行の文章を書いた時点でストップしてしまい、その後本気で作り出したのはそれから半年以上たってからでした。

ホームページを立ち上げないことには、誰もクライアントさんが来てくれないことは分かっていたのですが、とにかくホームページを作ることを心の中で中断したままでいたのです。

実際、作り出したら2週間程度で出来上がってしまったので、その時には何で今まで放っておいたのかなあと悔やまれました。

しかし、後で分かったことなのですが、ホームページの作成を先延ばしにしていた理由は、自分の書く文章はもっと出来がいいはずだとの偏見があって、でも実際に書き出してみるとそうでもないということが分かってしまったからなのです。

書かずにいることで、自分の文章を評価せずに済むという馬鹿げた理由によって、中断していたのです。こんなはずではないのに、という思い込みは一旦手放すことができたので、あっという間に仕上げることができたのです。

虫歯ができていることが分かっても、忙しさなどの理由を作って歯医者さんに行くことを先延ばしにしてしまうことも多々ありました。こんなのは単純に、歯の治療のことを考えると怖くて憂鬱になるため、歯痛がひどくならないうちはそのことを忘れようとしてしまうのです。

このように、自分がしなければならないことは分かっているのに、何か恐れを伴うようなことであるとそれを先延ばしにしようとしてしまうということですね。

試験前夜に早く勉強をすればいいものを、そういう時に限って普段読まないような本を読み出してみたり、部屋の模様替えをしたくなって何時間もかけてやってしまうなどということはよく聞く話しですね。

恐れというのは、向き合いたくないものです。だからそれ以外のことに目を向けようとしてしまうために、本当にすべきことが先送りされていくのです。

こういった、先延ばし症候群から脱するためには、頭であれこれ考える前に行動してしまうということが効果的です。思考を減らすだけで、恐れは小さくなってくれるからです。試してみてください。

本音を知る

本音と建前とをうまく使い分けられる人は大人だなと言われることがありますね。よく政治家が人前で演説するときなどは、建前ばかりでなかなか本音を出すことはないと思われています。

なぜなら、本音というのは往々にして自分を不利な立場に追いやる可能性があると思われているからです。だから、人は自分の本音をたやすく誰にでも打ち明けたりはしないわけです。

ただし、上記のような場合は自分の本音を本人が分かっているという前提でのお話ですね。しかし、実際にはほとんどの人が自分の本音を完全には自覚できてないのです。

我々は、本音だろうが何だろうが、自分にとって都合の悪い考えや気持ちなどは自分自身にも気付かないように用心深く心の奥にしまい込んでしまうのです。

そうやって隠された本音というのは、自分ですら覚えがないのですから、他人には全く知られずにいることが多いのです。

ところが、隠された、あるいは言葉を変えると抑圧された本音というのは、いつまでも静かに心の奥にしまわれたままでいたいとは思っていません。

いつか、チャンスさえあれば心の外に飛び出して、本人にその本音の存在を知らしめてやりたいと思い続けています。

心の癒しを進めていくと、そういった隠された本音が何かのきっかけによって表面に出てくることがあります。特に、あるがままの自分を許すことを繰り返しているうちに、ふいに抑圧する力が弱まったときに浮き上がってきます。

それは本人にとってもびっくりする体験になるはずですね。ああ、自分はこんな本音を抱えていたんだなと、新たな自分を発見することになるわけです。

そしてその体験を通して、実は今までどうしてもうまく行かなかったことが、急にできるようになったり、気になって仕方なかったことがどうでもいいと思えるようになったりします。

何かつき物が落ちたみたいな感じかもしれません。とにかく、本音を知るということは、形があろうとなかろうと、自分が自分でいることがとても楽に感じられるようになります。

みなさんも、自分の知られざる多くの本音を知って、気持ちよく生きれるようになりたいと思うのでしたら、自分を許すということを毎日地道に実践することです。

きっと長年の便秘が解消されたような気持ちよさを感じることができるはずです。実践あるのみですね。

何もしない

みなさんは何もしないでいることってどのくらいあるでしょうか?家事仕事も人とのおしゃべりも、音楽を聴いたり本を読んだりもせずに、ただじっとしていることはありますか?

一日のうちでもそうそうないのではないかと思います。瞑想するのとも違ってただじっとして、自分が呼吸をしていることとか、窓の外の空気を肌で感じているだけの状態です。

感覚を研ぎ澄ますのでもなく、ただ耳に入ってくる外側の音を聞いているだけだったり、静かに時が流れていくさまを感じるだけの時間。

私は子供のころは時々そういう時間があったように思います。そして、それは大人になるに従って自然となくなってしまっていました。

しかし、また最近になって、そういった何もしないでただいるという時間を持つことが増えてきているように思います。

その時に、そうしていられることがとても喜ばしいような嬉しいような、なんともいえない気持ちになったりします。そうやっていられることがありがたいというような感覚です。

すごく無防備でいて、危険がなく、穏やかでとても静かな心の状態のままずっといられるということがどれほど心地いいのか、そうしていることでしか気付かないことです。

こんなに平和な心でいられるってすごく貴重なのではないかと思ってしまいます。未来の心配や気になることなどを手放していないと、この感覚はあっという間にどこかへ逃げて行ってしまいます。

だからいつもそうした平安な気持ちになれるわけではありません。しかしうまく行くと、自分は本当に何もしなくてもいいんだという深い穏やかな気持ちになれます。

みなさんも試してみてはいかがでしょうか?足りないものはない、すべてが手に入っているということが何となく分かるかもしれません。

信頼する心

信頼する心は、平安でいられます。そのことはきっと誰でもわかっていることですね。それでも、信頼したくてもどうしてもそれができない心の状態になってしまうこともあります。

周りの人のことや人生そのものや、何にしても自分ではコントロールできないことに対して信頼するということはとても大切なことです。

信頼できない心の状態でいると、常に不安や恐れの中にいることになるし、すべてを心配の目で見ることになってしまいます。

信頼する心は恐怖を抱く心とは全く逆なのです。恐れが攻撃をしようとする原因だとするのなら、信頼する心は愛を与える要因であると言えます。

私たちは、自分自身を身体であると信じることによって、それぞれがばらばらであるとした上で、別々の心を持っていると思い込むようになってしまっています。

しかし、信頼する心とは、すべては一つに結ばれていると認めることです。自分たちは違う身体という個体だとする心とは別の部分が、一つにつながっているということに気付くことが信頼につながるのです。

自分を愛しているようにその人をも愛しているとやさしく認めることです。信頼する心で周りを見つめることで、すべての罪は消えていくはずです。

自分の心とその人の心の間に長い間君臨していた罪が消失すると、二人の間を隔てていたものが何もなくなってしまうことになり、そこには一つであるという愛が残るだけになります。

誰か一人が別の誰か一人を完全に信頼する心で見ることができたら、そこには真の愛が見出されることになります。その関係はきっと別の誰かとの関係にも拡張されていくはずです。

そうやって、次々とすべての人の間にあった不信の心が信頼の心に取って代わられて、すべては一つという愛の想念で満つることになるのです。

信頼する心は誰の心の中にも確実にあります。それを選択することにしましょう。それが許すことにもつながります。

委ねる心

委ねることと依存することは、一見似ているように思えます。どちらも自分の力で何かを成し遂げようとしないからですね。自分が頑張って、独力で目的を達成しようとするのが自立であり、独立心です。

依存は、自分以外の誰かをコントロールして、自分のために一役かってもらおうとすることです。相手をコントロールしようとしているため、相手を心のそこから信頼することができなくなります。

したがって、依存している心は常に不安や心配を抱えていると言えます。相手が自分の期待通りに動いてくれなくなったらどうしようとビクビクしているのです。

一方、委ねる心には不安や心配は微塵もありません。なぜなら、委ねる心というのは相手のことや自分の外側に起こることをまったくコントロールしようとはしていないからです。

相手のことを信頼して、起きることを受け入れるという心の状態にならないと委ねることは難しくなります。

よく運を天に任すと言ったり、人事を尽くして天命を待つなどのように、委ねる心には天とか神と言ったようなものが表現として使われることが多いですね。

しかし、委ねるということは必ずしも神やそういった人を超えた特別な存在を意識する必要はありません。自分の周りにいる人や、起きること、その他あらゆることに対して委ねる心になることができます。

委ねる心には、ある程度の無防備さというものも必要になります。無防備でないと、自分を相手に託すということが難しくなるからです。

逆に依存の心は、必ず自己防衛がベースにあるのです。自分や自分の大切な人などを守りたくて必死になっている間は、決して委ねる心になることはできません。

このように、いつも委ねる心と依存の心とは正反対の状態を意味していると言うことがいえると思います。どちらの心が平安で満たされた気持ちにより近いかは、考えるまでもなく明らかですね。

どちらを選択するのか、それによって人生は大きく違ってくるはずです。

子供の遊び

幼い子供ほど、想像力が豊かだということをよく言われます。私が子供のころだと、男の子だったらロボット、女の子だったらお人形を使ってよく一人遊びをしたものです。

例えば女の子はお人形を自分の友達として名前がついていたりします。そして、空想の中でその人形があたかも話しかけてくれているように、二人で一緒になって遊ぶことだってできます。

彼女にとっては、そのお人形は本当の友達として成立します。それはなぜかというと、その人形も二人の会話もすべては彼女が作り出したことではあるのですが、彼女はそのことを忘れることができるからなのです。

自分の創作だということを忘れてしまえば、その間だけはリアルな友達との時間を持てることになるのです。その人形は女の子の心の中にいる友達の一人として生きるし、二人の会話もその子の心の中で作られた台本どおりに推移します。

しかし、その子にとってはその友達が急に自分に反抗するような態度をとってくることもあるだろうし、怒ってもう帰ると言ったりすることだってあるのです。

その子にしてみれば、仲良く遊びたいと思っているはずなのに、その友達とけんかしてしまう場合もあるでしょう。それもすべては彼女の台本のままです。

実は我々もその子と全く同じことを毎日繰り返しているといえます。そして同じように、自分の創作なんだということを完全に忘れるように自分を仕向けてしまったのです。

自分の周りにあるものすべては自分の心の作り物だということを忘れているので、この現実が本物のように見えているのです。

私たちは自分の心の中にある台本どおりのことを作りながらも、女の子がお人形の友達とけんかするのと同じように、周りの人とけんかをしてみたり、理不尽な目に遭ったりしているのです。

女の子がお人形とけんかをする理由と、私たちが周りの人たちといさかいを起こすのは全く同じ理由です。毎日繰り返している人生という一人遊びに気付いたら、楽しくて幸せになる一人遊びになるように台本を書き換えることですね。

あまのじゃくの勧め

あまのじゃくというのは、人が右と言えば左と言い、左と言うと今度は右と言うように、人の逆ばかりを主張する人のことをいいますね。どうも自分は多分にその素質があるようです。

スポーツ観戦などでは、人気のないチームや負けそうな選手ばかりを気がつくと応援しています。多くの人が好むことは好まずに、誰もやらないようなことに心を引かれたりするようです。

世間ではほとんど認知されていない「奇跡のコース」を読むのも、そういったあまのじゃく的なことが働いていると思います。あまのじゃくの原因はいくつか考えられますが、そのひとつは自分は特別な存在だとしようとする、エゴの作戦です。

人と同じことを志向していたら、目立たないし自分の存在感が薄くなってしまうため、風変わりな考え方や生き方などを好む傾向があるのだと思います。

あまのじゃくの人は一般的には好かれないと思いますが、それでも利点もあります。それは、人類が築き上げてきたことに逆らって、逆説的な考え方をすることに慣れているということです。

それが凝り固まった常識的な発想から自分を開放していくのにはそこそこ有効活用できるのです。コースに含まれている毎日のレッスンでは、まず初めに自分が見ている周りにあるモノにはすべて意味はないとする訓練をします。

そのものに意味があるのではなく、意味づけしているのはほかでもない自分だということに気付いていく訓練です。こうしたことは、常識的な人にとってはきっと取っ付きにくいだろうなと思います。

しかし、あまのじゃくな自分にはとても馴染んでいることであったりするのです。コースの教えのように明確化されていたわけではないですが、生まれ持ったあまのじゃくな部分がこの世のすべてを疑問視して見ていることに慣れ親しんでいるので、そういうことが比較的簡単にできるのです。

自分のことを、意外とあまのじゃくかもしれないと思っている人は是非そのことを喜んで、人生をより幸せなものに変えていくために使っていくことを考えてみてください。きっとあまのじゃくは、役に立ちますよ。

裁かない練習

裁くことと防衛とは密接な関係があります。つまり、相手を裁きたくないと思っていても、つい裁いてしまう時というのは、大抵自分を守ろうとする意識が働いているということです。

今までにたくさんのクライアントさんとのセッションで、さまざまなお話しを聞かせていただいてきたのですが、どんな内容の事柄を聞かされても、その話しにでてきた誰のことも裁くことはありませんでした。

それはあるがままを聞くことができるというか、その話しの中に悪者はどこにもいないというのが常にありました。クライアントさんによっては、あまりに私が中立な態度なので、その事に気分を害する人もいらっしゃったほどです。

人のどんなひどい仕打ちや復讐劇、イジメ、不正などの悪事の数々を聞いてもその事を責めたり裁いたりすることはありませんでした。

なぜかといえば、そういった話しをいくら聞いても自分自身の身を守る必要がなかったからなのです。自分に被害が及ばなければ、裁く必要が発生しないのです。

政治家の贈収賄などが取りざたされても、そのことで自分の人生に影響がなければ私はそのことを裁くことはないのです。これって、もしかしたら究極のエゴなのかもしれないと思うこともあります。

だとしても、とにかく私の場合は自分に直接の影響が及んでこないようなことについては、誰が何をしようと全く裁くということをしないでいられるのです。これはいい悪いは別にして、とても楽な生き方かもしれません。

ただ問題は、逆に少しでも直接の影響が自分に及んでくる場合には、どうしても裁くという結果になってしまいます。自分を被害者にしようとする相手を加害者として罰しようとするわけです。

したがって、裁かないように訓練するためには、自分が被害に遭ってはいないという意識になることが最も効果があるということになります。

つまり、いつも言い続けてきていること、「自分の身に起こることは自分が投影として起こしている」というこのことをはっきり思い出すことさえできれば、被害者ではない自分を見つけることができるので、裁かないという心の状態でいられるということです。

それはとてもすがすがしい気持ちでいられる究極の生き方と言えるかもしれません。

意欲

何に対しても意欲的な人っていますよね。正直にすごいなと思ってしまいます。そういう人と自分を比べると、とても恥ずかしい思いがしてきます。

何をするにしても、それを続けていくためには意欲がどうしても必要です。この意欲の源とは何なのだろうと時々考えることがあります。きっと、自分が意欲的ではないからですが…。

意欲というと、人の言動のパワーの源と言えるのですが、例えば、底なし沼にはまって必死にもがいて抜け出そうとするのは、意欲とは言わないですね。

意欲という場合には、何か意識的なものを感じます。ですから、あきらめてしまっている人は当然意欲が少ないという結果になってしまうでしょう。

また、依存心が強くて他人にやってもらおうという気持ちが、自分から進んでやっていこうとする積極さよりも勝ってしまうと、やはり意欲はなくなってしまうかもしれません。

意欲は、意志の欲と書きますから、こうありたい、こうしたい、というような自己像のようなものが明確にあって、その願いが意志の力となって意欲を生み出すのかもしれません。

私はもう一年ものあいだ、「奇跡のコース」を読んでいますが、それにはもちろんほんの少しの意欲を使っているのでしょう。その意欲は単純に自分が幸せになりたい、そのためにはどうすればいいんだろうというものです。

人生そのもの、毎日の自分の生活に100%かかわってくることですので、さすがに意欲の少ない自分でもまだ継続することができているようです。

それで分かったことなのですが、意欲はそんなに大きく持たなくてもいいということです。意欲はあればいいのです。たとえほんの少しであろうとも。それさえあれば、ただそれを利用するだけです。

もっとも大切なことは、意欲の大きさではなくて、何に対するものなのかということだと思います。物質的なものを手に入れることに意欲を燃やしても、人生は決してよくはならないからです。

意欲を効率よく使って、最大限自分が幸せになるために使うことをそれこそ意欲的に考えることだと思います。