価値のあるものとは

自分にとって、価値のあるものとは一体何だろうと考えてみたのですが、簡単に答えが出るものと思っていたのにもかかわらず、意外なことに結構悩んでしまいました。

思いつくに任せて挙げてみると、家族などの愛する人、家、愛車、仕事、お金、自分(自分の内訳は健康な身体、健康な精神)などが出てきます。

大きな目で捉えると、この地球、太陽、宇宙、空気、水、食べ物、動植物など。そして、もっと抽象的なものとして考えると、愛(思いやり、やさしさなど)、能力、自由、意欲、情熱、など。この抽象的なものは考えたらきりなく出てきそうなので止めました。

価値のあるものというのを、その時に自分が一番欲しているものと言い換えてみると、ある事情においては絶対これ、というものが出てきます。例えば、ぎらつく太陽の下で砂漠を何日か歩かされたら、水が一番価値あるものと思うかもしれません。

病気で苦しんでいる人にとっては、健康な身体が一番だと思うでしょうね。結局、自分にとっての価値というのは、その時々の自分の状態や立場などによって変わりうるものだと言うことが分かります。

しかし、物事をできるだけシンプルにしたいという昔からの自分の癖によって、できるだけ答えを絞り込みたいという欲求が出てきてしまいましたので、何とかしたいと思います。

で、考えたのが、自分がことさら欲しいと思うものには永続性が保証されるわけではないので、そういったものは価値のあるものからはこの際はずすことにしてみました。

そうすると、結局残ったのは、地球、太陽、宇宙などになってしまいました。う~ん、あまり面白い結果になったとは言えないですね。

自分が欲しいと思うもの、欲するものというのは、つまりは受け取る事を期待するものということになりますね。なので、敢えてその反対はどうかと考えてみました。つまりは、与えるものについての価値あるものを考えて見ます。

すると、情報、愛、知恵、勇気、慈悲、祝福、感謝などが挙げられます。ちょっとスピリチュアルな感じになってきました。ここまできて、ついに気が付いてしまいました。自分にとって恒久的に価値のあるものとは、与えることそのものなのではないかということに。

そして、何を与えるかといえば、上記したものをすべてひっくるめて愛という言葉で表現できそうです。ああ、そうなのかあ、自分にとって価値のあるものとは、結論は『愛を与える』ということになってしまうということですね。

じゃあ、その唯一価値あるものである、『愛を与える』がどれだけできているのか考えてみると、何ともお恥ずかしい気持ちになってしまいます。ここは一つ、本気でこの価値あるものを実践していかねばならないでしょうね。

みなさんも自分にとって、一体何が本当に価値のあるものなのか、一度真剣に考えてみるのは無駄なことではないと思いますよ。そして、価値のないものをできるだけ手放していくことも大切なことかもしれませんね。

スピリチュアルって

スピリチュアルという言葉が普通に使われるようになってどのくらい経つでしょうか。スピリットが霊という意味だとすれば、スピリチュアルは霊的なというところでしょうか。でもなんとなく霊という言葉は幽霊みたいなものを連想しやすいので、日本人にとっては英語の方が受け入れやすいのかもしれません。

悪霊などといういやな言葉もある反面、聖霊のように清清しいイメージを与えてくれる言葉もありますね。ちなみに、聖霊は Holy Spirit というらしいです。スピリチュアルカウンセラと呼ばれる有名人もいらっしゃるくらいですから、このスピリチュアルという言葉はかなり市民権を得たようです。

私は目に見えないものは信じない、と言う人は一昔前ならたくさんいたと思いますが、こういう言葉が普通に使われる時代ですから、最近ではそれほど目に見える見えないということに拘らなくなってきているのかもしれませんね。

実際、電気だって、磁力、重力だって、勿論心も目には見えないですが、その存在を否定することはできません。ただ、守護霊さんがいるかどうかは確かに定かではありませんが。自分の外側にどんなスピリチュアルな存在がいるかどうかは置いておいて、自分自身についてはどうでしょうか?

自分はスピリチュアルな存在なのか、それとも一見して分かるように物理的(肉体的)な存在なのか、はたまた両面を併せ持つような存在なのか。ここはいろいろ意見が分かれるところだと思います。どう思うかは個人の自由ですが、それによって生き方に違いが出てくることはないのでしょうか?

実際生き方の違いだけではなくて、癒しについても自分をどう見るかによって大きな違いが出るのだろうと思うようになってきました。ここの部分をこれから少しずつ、このブログで説明していきたいと思っていますので、ご期待下さい。

幸せとは何だろう

どんな問題を抱えたクライアントさんがいらしても、セラピーの基本的な目的はたった一つ。それは、当たり前ですがクライアントさんの大切な人生がより幸せなものになって行くこと、ただそれだけを目指してセッションをしています。

ところが、どういうわけか、残念なことにクライアントさんによってそうは思っていないという場合もあるのです。せっかくセラピーにいらしている張本人が、自分の幸せを望んでいないとはどういうことでしょうか?

勿論ご本人はそういった自覚はないのが普通ですが、何度かセッションをしていくうちに、そのことがはっきり分かってくるのです。幸せというのは、一般的に心が平安な状態であることを言います。悲しんだり、怒ったり、怖がったり、絶望したり、誰かを憎んだりしていない状態です。

このホンモノの平安というのは、安定していてずっとその状態が続いているという特徴があります。この永続的な心の平安というのが本当の幸せな状態であるのです。ところが、多くのクライアントさんが求めているのは、一時的な安堵感、安心である場合が多いのです。

この一時的な平安と永続的な平安とは似ているようで、実は全く違うものだと言えます。なぜなら一時的な平安というのは、例えて言えば戦争と戦争の間の一時休戦状態のようなものであるからです。これは幸せとは程遠いものですね。

そして大切なことは、この一時的な平安を求めている限り、絶対に永続的な平安(ホンモノの幸せ)は手に入らないということなんです。一時的な平安は、瞬間芸的なものですから、その時に安心していられればいいというものです。そして、その安心感は概ね自己防衛をすることで得ることになります。

一方、ホンモノの平安というのは、全くその逆で自己防衛をしない生き方をすることによってのみ得ることが出来るのです。どんな場合でも無防備でいられるような人はほとんどいないでしょうから、これは大変難しい生き方と言えるかもしれません。

セラピーを継続していくと、ひとりでに自己防衛が少なくなって行きます。これが心の癒しですね。また意図的にできるだけ防衛しないように生活していくということを進めていく必要もあると思います。

防衛しないでいれば、実は攻撃されずに安心を得ることができるんです。なぜそういうことが言えるのかについては、セッションの中で詳しくお話しさせていただいています。少しだけでも防衛が減れば、毎日の生活はとても過ごしやすいものに変化してくるでしょう。

いずれにせよ、まず、自分は幸せを求めてはいなかったということに気づいていただき、その上で幸せ、つまり永続的な心の平安を求めていくにはどうしたらいいかを明らかにしていく必要があります。そして、幸せをもとめなければ、決して幸せを手にすることはできないということですね。

ブログにしては、なんだかコラムのようになってしまいました。(汗)

奇跡のコースとの出会い

自分の中で今奇跡的なことが起こっています。それというのも、生涯で初めて、まじめに勉強を始めたからです。それは初めて、真剣に取り組むに値すると感じるものと出会えたからです。

学生の時から社会人になってもずっと一貫して勉強嫌いな自分がいて、仕方なく勉強をすることもあったのですが、そこには今のように学習したいという強い意欲は全くありませんでした。

それが、A Course In Miracles(奇跡のコース)という不思議な本(以後 ACIM と略します)と出会って、一変してしまったのです。元々本を読むことも好きではない自分が、一生繰り返して読み続けたいとまで思うようになったのは、まさに奇跡といってもいいと思います。

丸8年に渡って心の癒しをやってきて、何となく手詰まりな感覚とでもいうものがここ数年出てきていたのです。それを解消したくて、昨年外部のセミナー等に出て自分の癒しを兼ねて情報収集をし出した矢先に、この ACIM と出会いました。

今まで自分なりに信じてやってきたセラピーの方法が間違っていたとは全く思わないのですが、ACIM と出会ってから物事を見る世界観ともいうべきものが大きく変化し出したのです。今、それを自分のセラピーにどう生かしていったらいいのかを模索中です。

そしてセッションにおけるクライアントさんとの関わりに限らず、人とのつながりや結びつきにも、自分の中で少しずつ変化が起きつつあるようです。本当の癒しは、人との関係性の中に見出せるものだということが分かってきました。

自分が今そうした過渡期にあるのを感じています。その変化の足跡を残すため、そしてそれを是非分かち合っていただきたくて、このブログを始めることにしました。ずぼらなので、毎日更新できないかもしれませんが、気長にお付き合い下さい。