自分の力

何か大切な問題に逃げずに立ち向かおうとしてる人を見ると、私たちはえらいなあ、頑張ってるなあと応援したくなります。辛いことや苦しいことから逃げ出したくなるのが人間の常ですから、それをせずに苦難に向かっていくわけですから尊敬すらしたくなるかもしれません。

そうやって、一つひとつ乗り越えていくことで自分の力を向上させていき、立派な人物になっていくものだと思っています。それは物理的な能力でもそうですし、精神的な力の場合もあるかもしれません。

そして、くじけずに頑張ったおかげで何かを成し遂げた人はきっとそれなりの自信を身につけることができるはずですね。一度自信をつけると、それだけ物事に対して怖れを抱かなくなるのです。

こうして、自分の力に磨きをかけていくことで、人生を悠々とした穏やかな気持ちで生きていくことができるようになります。それは何ものにも換えがたいすばらしいことですね。

しかし、こうしたやり方は確かに立派なのですが、ものすごい時間と労力とたゆまぬ努力が必要となるのです。またそれだけではなく、いろいろな弊害が出てくる危険性が非常に高いのです。

例えば、頑張りすぎて身体を壊したり、忍耐し過ぎて精神的な病気にかかってしまったりと言ったことが起きてきます。それでも他人からの評価が下がるわけではないので、この生き方が好きという方もいらっしゃるかもしれませんね。

人間とはそうやって成長していくべきなのだという信条をお持ちの方は、ご自分の心身に気をつけながら、ある種の苦行難行のような道を進んで行かれるといいと思います。

でも、もっとお気楽で、短時間で人生が幸せになっていく、言って見れば「ずるい」方法があるのです。楽チンなやり方でなおかつ無理しないので病気になることもありません。

それはどんな方法かと言うと、自分や自分の力を向上させようとするのではなく、他力本願な生き方をするということです。ただし、他力といっても、他人ということではなく、聖霊の力に頼るということです。

自分の力など、どんなに頑張っても高々知れています。何かを判断する時に、完璧な判断をするためにはすべての情報を把握しておく必要がありますが、それは人間である限り不可能なことですね。

自分の力で物事を判断したりしない、解釈もしない、自分を立派な人物にしようとする代わりに、自分は主体性を持たないと決意するのです。自分の力を使うのはたった一つだけ、聖霊に従うと決心するところだけです。

あとはオールマイティな聖霊(自分の中の真実の愛の部分)にお任せしてしまうのです。この生き方は、最初はとても馴染めたものではありません。こんな主体性のない毎日でいいはずないじゃないかと思います。

でも、実はこれこそがこの世界を地獄から天国に換えるもっとも有効な方法なのです。聖霊を信じて、少しずつそういう生き方を実践して行って欲しいと思います。

永遠について その2

昨日の続きです。変化するものしかないというこの世界において、愛という漠然としたものをずっとイメージで追っていくと、どうも不変なものだという感覚がやってきます。

真実の愛が変化するというイメージはどうしても湧いてきません。我々の恋愛における愛は、結構コロコロと心変わりするようですが、これはどう考えても真の愛ではありませんね。

そして、もしも愛である神がいて、その存在がこの変化しかあり得ない宇宙を創ったのだとしたら、ヘンだと思いませんか?永遠の愛である神が何でその存在とはかけ離れたこの世界を創るのでしょうか?

答えは二つあると思います。一つは、神はいないとすることです。もう一つは神はいるが、神はこの諸行無常の世界を創ってはいないとすることです。あなたはどちらの考え方が気に入るでしょうか?

もしも前者の方を好むのでしたら、この世界は偶然に生まれたものですから、それが変化し続けようがどうしようが議論の余地はありません。しかし、後者を好む場合はどうでしょう?

神はいるがこの世界を創ってないとすると、またまた二つの疑問が浮かんできます。一つは、ではこの世界はどうやって創られたのかということ、もう一つは、神の世界はこの世界とは違う永遠の世界として実在するのか?ということです。

神はあらゆるいっさいであるとしたら、神以外のものはないのですから、この世界が神の手を離れて別の誰かが創ったとすることは不可能です。とすると、神はいるとするなら、この世界は実在しないということになります。

そして実在するのは、神である永遠の愛の世界だけということになります。でも困ったことに私たちはこの諸行無常の世界に生きているという実感を持ってしまっていますね。これはどう解決したらいいでしょうか?

そこで、例の投影を思い出せばいいのです。エゴは望むとおりの知覚を作ることで、あたかも自分の外側にこの世界があるように実感させているということですね。

ここまで話を引っ張ってくる言動力は何かなと思うと、それはどうやら自分の心の奥のどこかにデンとした愛の存在を感じるからだと分かります。愛の表層の部分だけを感じているのだろうと思いますが、全体を感じなくてもそれがどれほどのものなのかどこかで知っているような感覚もあります。

これがすべての土台のように思います。神というとちょっと違和感がありますが、すべては愛であってそれは不変である、この感覚こそかけがえのないものではないかと思っています。

怖れ、不安、怒り、絶望、渇望、悲しみ、孤独、そういった愛以外のどんなものも永続性を欠いています。だからすべて知覚による錯覚の産物だと捉えるのが一番合理的ではないでしょうか?愛はそういった世界とは関わることができません。

愛だけが実在であって、それ以外はすべて錯覚なんだという結論に到達してしまいました。永続性のないものは、つまりこの世界はすべてまやかしだということです。

本当の幸福とは、永続的な心の平安であるとこのブログでもお話ししているように、真に大切なものは不変なのです。不変なものが一つもないこの世界に生きていると思わされている我々は、どうやったら不変なものを身にまとって生きていくことができるのでしょうか?

それは錯覚から目を覚まして、自分自身の本当の姿を思い出すということになるのではないでしょうか?不変であるものを身にまとう必要はありません。自分自身が不変である存在だということが分かればいいのですから。

自分だけではなく、目の前にいる相手も自分と同じ永遠の存在だということに気づくことでもあります。それを実践を通して、学んでいく方法を提供してくれるのが、「奇跡のコース」なのですね。

永遠について

花の命は短くて…

昨日今日で一気に桜の花が散り出しました。今年は咲き始めた頃に急に寒さが戻ってしまったせいで、満開になるのが一週間くらい遅くなってしまいましたね。そしてやっと咲いたかと思ったらもう桜吹雪になってしまいました。

人はそういった、はかないものに特別の感慨を持つものです。桜が一年中咲いていたら、それはそれで確かにきれいだとは思うかもしれませんが、これほどまでにもてはやされることもないはずです。

仏教用語か何かに、諸行無常というのがありますね。この世界のありとあらゆるものは、変化して一定であることはない、という教えです。そんなことは改めて言われなくても誰しも当たり前のこととして理解しています。

でもそのことをなぜなんだろうと考えることはあまりないと思いませんか?なぜ、不変のものはあり得ないのだろうかと。この広大な宇宙さえも、大昔にビッグバンが起きて誕生して膨張し続けていると言われています。

私たち自身も生まれるという変化から、成長という変化を経て、死という変化を遂げることから逃れることができないと思い知らされています。

私たちは変化を好む傾向と、変化を好まない傾向との両方を同時に持っていると思います。そのどちらも愛がベースというよりも、怖れや不安が原動力となっているのです。

変化を好まない傾向としては、誰しも死を怖れるわけですから、永遠の命というものを欲しています。老いていくことを怖れて、永遠に年をとらない若い身体でいたいとも思うし、別れることを怖れて大好きな人とは永遠に一緒にいたいと思うわけです。

一方で、変化を好む傾向としては、花の命は短いからこそ、貴重だとしてそれを好むし、野球の試合がずっと0対0で何の動きもないようだと見ていても飽きてしまうでしょう。それよりは、変化に富んだエキサイティングなゲーム内容の方が楽しむことができると思っています。

この変化を好む傾向というのを探っていくと、どうも退屈しないで済むとか、我を忘れて楽しむことができるなどのイメージが出てきます。変化がないとマンネリ化するということも知っています。

つまり、この変化を好む気持ちは、満たされない心、何かを渇望している欠乏感のようなものが原動力であるように思えてきます。ということはそこには愛はないですね。

つづく

エゴの防衛を利用する

私たちは、寝てる間も目が覚めてる時も四六時中エゴの世界に取り込まれています。それは確かなのですが、起きた瞬間は自分とエゴの結びつきが若干緩んでいるようです。ですから、その瞬間を利用して、今日はエゴではなくて、聖霊を教師として生活すると決意するのです。

勿論この決意自身もエゴの中でやっているのですが、実はここでエゴの防衛を利用することになるのです。エゴの防衛の一部に、自分をうそつきにはしたくないという部分がありますね。だから、この自分の決意、約束を守らざるを得なくなるというわけです。

これは防衛を利用して防衛を減らしていく作戦と言ってもいいと思います。よく柔道の達人と言われる人だけが使える技の一つに、相手の腕力を利用して相手を倒すという究極の技があるらしいですが、それと同じやり方ですね。ただ、何事も限度を越えると一気に逆襲されるのでそこは気をつける必要があります。

所詮、我々はエゴを利用する以外に、エゴから離れていく手立てはないと思うのです。
私が「奇跡のコース」を学んでいるのだって、特別な自分でいたいというエゴの防衛を利用して勉強を続けていると言ってもいいのですから。

上記の二つの例は、どちらも自分一人の内面でのエゴとの駆け引きの話でしたが、相手のエゴの防衛を利用する方法もあります。

相手が攻撃という種類のエゴの防衛を向けてきた時に、自分も攻撃という防衛をしてしまってはエゴにやられっぱなしになってしまいます。そこで、なるべく純粋な愛で対応するようにするのです。そうすると、相手のエゴをだんまりの状態に仕向けることができ、結果自分は攻撃を受けなくて済むようになるのです。

エゴの最大の弱点は愛なのです。それも純粋な神の愛でなくても大丈夫です。エゴはそこそこの愛でもそれを目の前にすると、あたかもニンニクや十字架を突きつけられたドラキュラのようにたじろいでしまいます。

よほど愛が怖いのでしょうね。この方法は、エゴが愛から身を守ろうとして、まるでカタツムリが攻撃を受けて殻の中に入り込んで死んだようにするのと全く同じになるのを利用します。

エゴの特性をしっかり見抜いて、賢くエゴを利用して生きていくことはとても大切なことではないかと思います。勿論、その目的はエゴから開放されて究極の幸せへと進んでいくことです。

二種類の癒し その2

昨日の続きです。

二つ目の癒しの方法は、長年エゴまみれになって生きてきてしまった自分を客観視することから始まります。この世界の常識やルール、倫理感、人情、そういった心の奥にしっかりと出来上がってしまった信念や信条を冷静な心で見つめ直すのです。

そして、そういったものが本当に自分を幸せにすることができるのか、考えてみるのです。エゴが先導してきた自分の人生の目的が、本当に真の幸福を目指すものだったのかどうかを調べると、実はエゴの目的は自分を守り続けることだったと気づくはずです。

それでは、永続的な心の平安を得ることはできません。逆に一時の安心を得るように仕向け、また明日は不安と怖れの中で防衛するようにとエゴに仕向けられて生きてきたのです。だから、幸せにはなれないのです。

傷ついたインナーチャイルドを利用して、苦しみの中に閉じ込められているのはエゴの作戦だと気づくことです。それは、一つ目の癒しの方法では理解することはできません。

インナーチャイルドの気持ちに寄り添って、共感して受け止める一つ目の癒しの作業と、インナーチャイルドを含めて、エゴの作戦を使わずに無視する二つ目の癒しの作業とは全く矛盾するように感じるはずです。

それは当然なのです。根本的な癒しの立ち位置が違うからです。一方はエゴの内部だし、もう一方はエゴの外側の視点だからです。 この違いをしっかり理解しておくことが大切だと思います。

二つ目の癒しの方法は、エゴから離れる、エゴを使わないようにすることで、エゴを衰退させるのが目的です。そのためには、エゴに取って代わる先導役が必要となります。それが、先日のブログでも書きました、自分の心の中の愛の部分である聖霊なのです。

出来る限り、聖霊に従って生きることを続けていくことで自然と慣れ親しんだエゴの防衛システムから少しずつ離れていくことが究極の癒しの方法なのです。そこには、無防備の自分、赦しを進めて行く自分がいるはずです。

二つの癒しの方法の違いをはっきりと認識して、自分自身の癒しを進めて行って欲しいと思います。

二種類の癒し

日頃セッションの中でクライアントさんにお伝えしている二種類の癒しの方法について、あらためてここでまとめておきたいと思います。

一つ目は、催眠療法などに代表される、過去の抑圧された感情や本音を味わってそれを開放していくという方法ですね。インナーチャイルドなどの考え方を中心に据えて、その子供の意識の思い残しや鬱憤、犠牲、訴えなど、心の闇に隠されていたものを掘り起こして、光に照らすことによって少しずつ闇の部分を減らしていく作業ですね。

そして二つ目は、凝り固まった自分の考え方や生き方を変えていくという、行動療法的な要素のある実践型の癒しの方法です。一つ目の癒しの方法によって、過去の感情を開放していっても、毎日の生活が変わらずにまた新たな感情を溜め込んでいくようだと人生を変えることはできません。

この二つの癒しの方法を平行して進めていくことで相乗効果が期待できます。一つ目の癒しを進めていくことで、二つ目の癒しの作業がより容易になっていくという効果があるのです。その理由は、過去に溜め込んだ感情のパワーがあまりにも強力すぎると、自分を変えようとするパワーが押さえ込まれやすくなってしまうからなのです。

一つ目の癒しの作業の特徴は、万人向きであるということです。そのため、癒し始めは、ほとんどの方がこの一つ目の作業から入っていくと比較的スムーズに癒しを進めていくことができます。

あまりにも大量に感情を溜め込んできた方にとっては、この癒しの作業だけでも相当な変化が期待できます。心の奥に圧縮された感情のパワーは、理性では抑えることが難しくなってしまっている場合があります。そのような場合は、数回程度の催眠療法だけでも大きな変化が期待できます。

しかし、この一つ目の癒しの方法というのは、エゴのシステムの内側で行っている作業ですので、この方法をいくら続けて行ってもどこかで頭打ちになってしまいます。それは、癒しの本質は、エゴのシステムからの脱却だからです。

エゴの中でいくら頑張っても、それは二重三重に騙されていたものが一重に騙されるところまで回復するだけなのです。それ以上先へは進めません。所詮、エゴの内部に居る限りはエゴを必要として生きていくことになるからです。

一方、二つ目の癒しの方法は、自分が幸せになるためには不都合となる考え方や生き方を意識的に訂正していく作業ですので、あまりにも心の状態が悪いような場合には進めて行くことに無理があるかもしれません。ですので、一つ目の癒しの作業をある程度進めていくらか心の余裕が出てきてからの癒しの方法であると言ってもいいかもしれません。

この二つ目の癒しの方法は、実はエゴのシステムからの脱却を目指した癒しの方法なのです。つまり、一つ目の癒しの方法がエゴの内部での作業であったのに対し、こちらの癒しはエゴの外側に自分を置くようにする作業になるのです。

つづく

信じる力 その2

昨日の続きです。昨日のブログでは、自分に都合のいいように知覚を変形させて、その結果感じるものを信じるようになるというお話をしました。

昨日までの話は割合分かりやすいと思いますが、今日は続きとは言っても、少し分かり辛くなるかもしれませんが、とても重要なことですので書いていきたいと思います。

このブログでよく登場する投影という事について、それを別の言葉で表現すると、私たちは見たいものを見、聞きたいものを聞くということになります。

自分が望むものを心に描き、それを使って知覚を捻じ曲げるという昨日の話とは全く違います。自分が望むものを心の中に描き、それを使って知覚そのものを作り出すということを言っているのです。

常識的には、この逆のことを真実だと思い込んでいます。つまり、まずそこに机という物体があって、それを肉眼で見ることによって、そこに机があると認識するとしているのです。

自分はそこに机など見たいと思っていなくても、そこにそれがあるから見ることになるのだと思っています。 五感すべてに対してこのように信じています。ですが、これこそが私たちがずっとエゴに騙されてきたことなのです。

原因と結果が全く逆であるということです。つまり、自分の外側にそれが存在するというのが原因であり、だから、自分はそれを見たり触ったりするというのが結果だと思い込んでいるのです。そうして、それを固く信じています。

でも本当はまったく逆だということですね。自分の内に望むものを描くのが原因であり、その結果それを知覚するようになるということなのです。ここでとても重要なことに気づきます。

つまり、知覚することが結果であるということは、そこに何かが在るということには意味がないということになります。私たちにとって、自分が起こしている知覚がすべてなのです。

知覚とは、自分が心の中で望むことをそのまま信じるようにさせるための錯覚なのだということです。そして、一度信じてしまうと本人にとってはそれが真実となっていくのです。信じる力とは本当に凄まじいものです。

しかし、実際には何を信じようが、信じまいが、それと真実とは無関係です。幸せになるとは、たった一つの真実を信じるようになることしかないのではないかと、奇跡のコースでは言っています。

このことはすぐにはピンと来ないかもしれませんね。これを書いてる私も、このことを分かっている自分は自分の心全体の数パーセントに過ぎないのかもしれないと思っています。

ですが、日頃信じて疑わないことを、まっさらな気持ちになってもう一度見直してみることはとても大切なことなのです。私たちは本当に何が真実で何が間違いなのか分かっていないからです。

自分の肉体が作る五感による知覚を一度、信じるのをやめてみる必要があります。そうしていくことで、自分の人生をできるだけ幸せなものに変えていける道が開けていくのですから。

信じる力

私たちは、普段自分は目覚めていて何らかの活動をしているという自覚を持っています。その自覚は身体の五感を駆使することでトータルな知覚として得ることができるわけです。

水泳をしている、テレビを見ている、誰かと握手しているなど、どんな状況でも身体の知覚によってそれを把握しているわけです。そして、一般的に、自分の知覚というものを信じています。

現代では、テレビや映画、ゲームなどのように視覚や聴覚に対するニセモノによって、実在しないものをあたかも実在するかのように思わせられたりしています。味覚や嗅覚も例えば本当のメロンの代わりになるようなメロンの香りや味のするものがありますね。

触覚だけは複雑すぎてそれを模倣するのがむずかしいのでしょう。触覚は身体の各部分の感覚が総合されたものだからですね。それでも、最近は例えばロボットの遠隔操作など、柔らかいものを掴むときにその力加減ができるように、掴んだ感触を手のひらに伝えてくれるようなものが開発されてきたりしています。

こういったものは、我々はあたかもホンモノのように感じられつつ、でもホンモノではないということを予め知っていますので、何の問題もありません。逆に生活がより豊かになるためには必要なものと言ってもいいですね。

しかし、問題は自分の知覚を信じすぎて、実在とはかけ離れたものをホンモノと信じてしまっているような場合があるということです。

強い思い込みなどによってもこういったことが起きてきます。まず、こうあって欲しいが心に生まれ、それに都合のいいように五感を使って知覚するようになるのです。その結果、それが本人にとっては真実と思えてくるのです。

例えば、ストーカーなどはその典型でしょう。相手からどんなに嫌いと拒絶されても、キミは俺と一緒にいるのが幸せなんだからという思い込みによって、相手の態度もそのように変形させて知覚してしまうのです。

いい例もあります。あまり良い言葉ではないかもしれませんが、あばたもえくぼ、などはそのいい例ですね。恋に落ちて、相手のことを大好きなうちは、とても素敵に感じるように知覚をコントロールしているのです。でも、本人にはその自覚はありません。

そして、ひとたびその恋が破れてしまうと、急に気持ちが覚めてしまって、何であんな人を素敵だなとと思っていたんだろうと本人がびっくりしてしまうのです。

このように、私たちは本当に沢山の間違いを信じて生きています。そして、その信じるという心の力は私たちがイメージしている以上にすごく強力なものなのです。一旦何かを信じてしまうと、それが自分の中で真実になっていきます。

つづく

自分のすることは、全て自分自身にしている その2

昨日の続きですが、この「自分のすることは、全て自分自身にしていることになる。」を本当に理解できたら、先日のブログ『愛について』でお伝えした、「愛を与えることが、愛を受け取ることになる」の意味が分かるはずですね。

私たちはずっと愛されたいと望んで生きてきました。催眠療法などで幼い頃を思い出しては、自分の両親から充分に愛されなかったとして、だから自分には愛がそもそも足りないんだと思うのです。

それは確かにご尤もなことなのですが、大人になった自分が気づかなければならないのは、愛が欲しいといくら叫んでも愛を受け取ることはできないということです。

愛されるためには、つまり愛を受け取るためには、自分が愛する、愛を与えることが必要なのです。愛が足りないといつも不平不満を抱いている人は、絶えず愛を欲する万年受身の状態で生きているのです。

だから、愛を受け取ることには決してならないのです。相手を裁けば、自分が裁かれるし、相手を攻撃すれば自分が攻撃されるのです。人を傷つければ自分が傷つくことになります。

相手を否定すれば、自分が否定されるし、相手を罵倒すれば自分が罵倒されるのです。相手を憎めば自分が憎まれるし、相手を見下せば自分が見下されるのです。

逆に相手を慈しむ心があれば、人から慈しみの心で迎えられるし、相手を尊重すれば自分が尊重されることになります。愛をもって相手に向えば、愛をもって相手から受け止めてもらえます。

なるほど、そうかと思っても、私たちは人から怒りをぶつけられてしまうと、つい怒りで対応してしまいますね。そんな時に、冷静さと取り戻してこの法則を思い出すことができたら人生はすばらしいものになるはずです。

自分のすることは、全て自分自身にしている

よく、イジワルすると巡り巡って自分に戻ってくるなどと言うことがありますね。人に親切にするといずれ何かの形でそれが自分に戻ってくるというのも同じです。いい事も悪いこともそうやって、人に対してした行動は必ず自分にその報いがやってくるということです。

そういうことをカルマの法則のような言葉で表現する場合もあるかもしれません。因果応報という意味ですね。

「奇跡のコース」では、「自分のすることは、全て自分自身にしている。」というもっと直接的な表現で述べられています。そして、この言葉の本当の意味は、カルマの法則や因果応報などとは全く違うのです。

カルマの法則では、悪いことをしたら、その罰が必ずやってくるということになっています。しかし、コースでは罪もなければ罰もないということが前提です。ではなぜ、自分がすることは、全て自分自身にしていることになる、などと言うのでしょうか?

ここでも例の投影のことを思い出して下さい。(ここで言う投影とは、心理学などで使う一般的な意味での投影とは違いますので、詳細は少し前のブログを参照して下さい。)

自分の内面を外側に映し出したものがこの世界だということでした。だから、あなたの周りにAさん、Bさん、Cさんがいるとしたら、それは自分の内面の奥底にそれぞれに対応するようななんらかの部分を持っているということです。

別の言葉で言うと、他人とは自分の潜在意識なのだということになります。私たちは物心が付いた時から、自分と他人とは別の存在だということを無意識的に叩き込まれて生活してきています。

ですから、わけあって、自分が相手を攻撃すると、相手は傷つき、自分は傷つかないと思っていますし、その反対も当然のこととしてあると信じています。しかし、本当は、自分が右のこぶしで相手の頬をなぐったら、同時に相手のこぶしが自分の頬をなぐることになるのです。

なぜなら、相手は自分の潜在意識、自分の内面の一部だからです。愛はそのことをはっきり理解しています。相手と自分は別の存在だと自分に教えてきたのは他でもないエゴなのです。私たちはそれを信じることでその教えに力を与えてしまいました。

幼いチンパンジーに初めて鏡を見せてやると、びっくりして鏡の中の自分を別のチンパンジーだと勘違いして、攻撃を始めます。すると、相手もまったく同じように自分を威嚇してきますので、更に怒ってもっともっと攻撃しようとしてしまいます。

私たちが日頃やっていることもこれと全く同じなのです。人類が戦争をやめないのも、殺し合いを続けてしまうのも全部このチンパンジーと全く同じだということをしっかり分かる必要があります。

聖霊は勿論、このことを充分に把握していますので、聖霊に従って生きることができれば、争いはなくなります。

与えるものを受け取る。 これも言葉を変えただけで、言わんとすることは同じですね。
相手を攻撃すれば、自分が傷つき苦悩するし、その人を赦せば自分が救われるということです。