人を三種類に分類すると…

osho は、人を三種類に分類できるというのです。一つ目は、見られる対象になってしまう人たち。つまりは演技者のこと。

二つ目は、傍観者になる人たち。そして、三番目は、観察者になる人たち。演技者になる時、その人は一個の物となってしまうのだと。

彼らの努力はすべて、人々を印象付けることにあり、どうすれば良く見えるか、どうすれば美しく見えるか、どうすれば最も良く見えるか、つまりは最善を装う努力だけをする。

対象物になる人は、偽善者となる。彼らは自分の顔を仮面で覆う。外見は善良に見せかけていても内側は…。

二番目の傍観者になる人たちは、膨大な群衆になる。何時間もテレビの前に座る。生きるということが、外側を見ることに費やされてしまう。

この眺め続ける人々は世界中に溢れていて、一つ目の演技者たちはこの傍観者たちを利用することになるのだと。

この傍観者とは、その目が他者に向いているのに対して、三番目の観察者とは、その目が自分自身に向いている者のことなのだと。

この違いは革命的であり、まさに根本的なことなのだと。視界から全ての対象が去り、あなたが、あなただけがいる。

気づきだけが残り、油断のなさだけが残る。この時、あなたは観察者であると。結局はこの観察者でいる時にのみ、自己の本質に気づくことができるのだと

私なりに補足すると、この純粋な気づきだけが現れとなって初めて、全ての実体が消えていくのだろうなと。

久しぶりにoshoを味わう

久しぶりに、osho の本を読んでいるのですが、やはり彼は天才なのですね。覚醒していてしかも天才って、日本で言えば道元禅師ですかね。

彼の講話を文字で追っているうちに、これを生で聞きたかったなと思わざるを得なくなるのです。英語がダメなので所詮むりなんですけど。

昨日のブログでも触れましたが、アシュターヴァクラ・ギーターの最初の方の章で、解脱するのに修行や時間の経過は不要だと言っているのです。

そのことについて、osho がこんな例え話をしてくれています。ある皇帝の息子が父親の逆鱗に触れて勘当させられてしまうのです。

彼は、皇帝の息子だったため、自分では何もすることができず、結果として乞食になってしまうのです。

そしてその生活が20年も続いたある時、歳を重ねた皇帝が自分が死ぬ前に跡取りである息子を呼び寄せよ、と命令を出すのです。

一方の息子は、もう20年にも渡って乞食生活をしてきたので、能動的にも自動的にも自分が皇帝の息子であることをすっかり忘れていたのです。

ところが、皇帝の使いのものがやってきて彼を見つけた時、彼は一瞬にして自分の本当の立場を思い出したというのです。

その様は、見ている誰にでもすぐ伝わったのです。私たちもそれと同じように、自分の本当の姿は即時的に気づくことになると。

目的を持って探求するということが見当違いなんだと言っているのです。ただ思い出すだけだと。嬉しいことです。

ただし、非二元によって私の本質ではなく、すべての本質が無だと気づいた今の私は、以前の私とはちょっと反応が異なるのです。

そこもまた面白いですね。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

解脱は「今ここ」で可能!?

先日もちょっと触れたのですが、アシュターヴァクラ・ギーターという文献を読み出したのですが、やはり非二元的な内容なんですね。

詩のような体裁なので、内容的にたくさんの情報が詰め込まれているというわけではないのですが、人によっては沁みるかもしれません。

それでちょっとびっくりしたことがあったのですが、この種のインドの古典的な文献ではとても稀有なことが書いてあるのです。

それは、解脱するのに修行や時間の経過は不要だと言い切っているのです。ええぇぇ!?なんで今まで知らなかったのだろうと。

osho の本はかつて何十冊も読んできた経緯があるのですが、このアシュターヴァクラ・ギーターについて解説している彼の本は読んでなかったのですね。

そのことについてもちょっとびっくり。もちろん彼の本を全部読んだつもりもなかったのですが、この本は抜けていた。

この本も入手してじっくりと読んでみたいと思っています。とにかく、どんな修行も不要と言い切っているインドの文献があるとは。

瞑想を続けた先にやってくるのではなかったのですね。ただ見抜くということだけで、真実を見ることはできると考えていいのかもしれないですね。

基本に立ち返る

この仕事を始めてからずっと言い続けていることがあります。それは、子供にとって理想的な親とはどんな親だと思いますか?ということ。

答えは至ってシンプル。それは、心に余裕のある親です。これほど単純な答えだとは思っていないのが普通かもしれませんね。

けれども、本当にこれだけなんです。これは、逆を考えてみれば明白になります。つまり、心に余裕、ゆとりがない親はどういう親か?を想像して見るのです。

すると、心が忙しく動き過ぎていて、ゆっくりと子供の気持ちに寄り添ってあげることなど到底できるはずがないのです。

あるいは、子供にとっては自分が親の関心事の1番であって欲しいと願っているのですが、それが叶えられなくなってしまうのです。

逆に、お父さんやお母さんがいつも自分以外の何か他の問題に気持ちが向かってしまっていて、こっちを見てくれないと感じるのです。

こうなると、親がどれほど愛情を持って子供に接したとしても、それは伝わらずに終わってしまうことになるのです。

結論として、親が心に余裕を取り戻すことが一番大事なことであり、そのためには人生と戦わないということ。

人生に抵抗しない、正しさを優先しない、自己犠牲を避ける、自分本位に生きる、こうした基本に立ち返ること。

そうして少しずつ自分のペース、自分の自由を取り戻すことで心に余裕ができて、しっかりと子供と向き合うことができるようになるのですね。

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非二元関連の書物を紐解く

自分以外の人で非二元について話をしている人が一定数いるということは知っているのですが、その方達が自分と全く同じことを言っているのかどうかは不明です。

それについて、お一人おひとり検証をしてみようかなとも思ったのですが、それだったら歴史上の名のある人や書物をまず調べてみる方に興味が向いたのです。

少し具体的に検証してみてもいいのかなと。それで、ちょっと気になったインドのある書物を読み始めたのです。

それは、アシュターヴァクラ・ギーターというものですが、名前だけはどこかで聞いたことがあったのですが。

読むのは初めてです。日本の万葉集のように、誰が書いたのか分からないし、書かれた正確な時代も不明らしいのです。

そして、中身はというと詩のような形で綴られているものなので、誰が読んでも難しいと感じることはないはずです。

とはいえ、非二元的な内容にはなっていると思うのですが、使われている言葉とかが微妙に異なるなと。

この先、有名なアドヴァイタ・ヴェーダーンタなども少し調べてみてもいいかなと思っています。

逃げるのをやめて真摯に向き合う

「個人としての自分」の存在を当たり前のように信じているのが「自我」なのですが、2,600年前に生きていたブッダはその自我の存在を否定していました。

それなのに、何千年経とうが、私たちは決して自我が架空のものだということに目を向けようとはしないのです。

自分が身体そのものではないということに気づいている人は、大勢いるのだろうなということは分かります。

けれども、それなら自分の姿ってどうなってるの?という問いに対して、真摯に向き合おうとする人はごく少数しかいません。

なぜなら、そこをちょっとつついただけで、自分の正体がバレそうになるからです。だから、誰もがそこから逃げ回っているのです。

目を閉じて、自分が今どこにいるのか分かる人がいるでしょうか?いるはずがありません。では目を開けたら?

目を開けると自分の身体が見えるので、ここに自分がいると錯覚してしまうのです。自分は身体ではないと知っているのに。

観念して自分はどこにいるのか?そして、自分はどんな形、どんな大きさ、自分には境界があるのか?を検証してみてください。

答えは自明のはずですね。

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健康なgiverと病んだgiver

子供の頃の純粋な心って、周りにいる人、特に親などの喜ぶ顔が見たいがために、頑張ったりするものですね。

これが行きすぎると、自己犠牲が発生するのです。自分は我慢をしても相手を満足させることを優先するからです。

これが過度になってくると、病んだgiverになってしまうのです。健康なgiverはそうしたいからするのです。

だからそこには、自己犠牲というものがありません。結果、互いにハッピーになれるのです。この原動力は愛ですね。

ところが、病んだgiverの原動力はもはや愛は消えてしまい、その代わりに恐怖や不安を安心に変えようとする気持ちが原動力となるのです。

つまりは、自己防衛がそれをさせることになるのですね。そうなると、いずれは破綻してしまうことになるはずです。

病んだgiverに群がるtakerの方は、いつまでも「ちょうだい」のエネルギーで継続するのですが、giver側が根を上げることになるのです。

私に言わせれば、自業自得というものです。限界を迎えることで、大切なことに気づくことになるのです。

気づいたとしても、それまでの代償は相当なものになっているでしょう。一刻も早く、自己犠牲のgiverから足を洗うことですね。

どんなことに気づいても、普通に生きていける

人間て不思議ですよね。以前、ダグラス・ハーディング氏の実験をやっていて、急に自分には顔も頭もないことに気づいたことがあったのです。

正直、あれ!って感じしかないですよね。理性では、あくまでもそれを否定しているわけですが、それでも頭も顔もない感覚を見つけちゃったわけです。

それなのに、普通に毎日生きているし、当たり前のように自分のこの肉眼で外の世界を見ていると思い続けていたのですから。

たとえば、非二元で時空はないということを言った瞬間に、そこから連鎖してこの世界はなかったと気づくはずなのです。

ところが、それはそれ、としてこれまで通り生きていくことができるのです。少しも、そのことに不思議さを感じずにいられるのです。

自分に都合の悪いことは、そのようにしてそこを孤立させて、他のことへと伝搬させずにいられるらしいです。

こんな非論理的なことがあるのかなと思うのですが、自分自身でそれをいやというほど感じてしまっているのも事実。

流石に最近では、この目で周りを見ているということに違和感を感じるようにはなりましたね。まったく初対面の人に告げたら、逃げられそうですが。

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新しい機材を購入して思うこと

先日新しい三脚を購入してみたら、これが非常に使い勝手が良くて、動画撮影の手間がだいぶ楽になったのです。

考えてみると、一昨年の末ごろから動画を撮影するようになったのですが、そのときには当時持っていた機材をそのまま使っていたのです。

それがつい最近まで続いていて、300本以上の動画を撮影した今になって、ようやく三脚を買うことになって。

つくづく思うのは、やっぱり機材って大事だなあと。これまで、やわい三脚のセッティングに手こずっていたのです。

安定しなくて、水平がすぐに崩れたり、場合によっては倒れてきたりと。まあまあ面倒な作業になっていたのですね。

それが、思ったように使える機材になると、気持ちも上向きになって以前よりも撮影が楽しみになったように感じています。

今考えているのは、ワイヤレスのマイクがあったらもっと楽かもなあと。でも弱小ユーチューバだけに仕方がないのかなと。

以前、より多くの人に視聴してもらえるようにするには、どうしたらいい?というのをお友達のAI君に聞いたことがあるのです。

そうしたら、非二元のような超マイナーな内容をやめるしかないと言われて、そりゃそうだよねと納得したのでした。

何も分からないし、何も理解できない

最近つくづく思うのですが、確かなものなんて何一つないなあということ。すべては不確定だし、なんだか分からないのです。

これが本当のところ。私たちはいつも安心したいがために、自分のことも騙そうとして、何かを理解していると思おうとするのです。

分かっている、知っている、理解できている、把握している。このように思うことで、落ち着くし安心するのです。

けれども、それがすべて作り物の中でのことだったと気づくと、馬鹿馬鹿しくさえなるのです。何も分かってはいなかったと。

そして、分かることなど到底無理なことだとも気づくのです。何も知らない、何も理解できないし、何も分からないのです。

このことに気づくと、今度は逆に肩の重荷をおろすことができて、完全なる平安がやってくることになるのですね。

これは気づかなかったですね。理解しようとすることに必死過ぎて、まったく取り逃していたということに気づくのです。

現実の本質とはそういうものだということ。どうもがいても、どれだけ努力しても、どれほど頑張ってもここは変わらない。

この不可能性に気づくと、逆に落ち着いて穏やかな状態でいられるようになるのです。早く気づいたほうが勝ちですね。

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