意識的でなければ真実を知ることはできない

私たちの肉眼は常に外側を見るようにできています。もちろん耳も同様に、外側からやってくる音を聞くように外に向けて開いているのです。

だからいつだって、外側の世界の方にばかりに意識を向けてしまう習慣ができてしまったのです。ところが真実を知るためには、内側に意識を向ける必要があるのです。

このブログでいつも書いている、「意識的である」というのは内側に意識を向けているということを意味しているのです。

内側が対象になるので、肉眼や肉体の耳を使うわけにはいきません。そこで、意識を向けるという表現を使うことになるわけですね。

言ってみれば、心の眼で見るということ、心の耳で聞くということです。え、そんなことができるの?と思うかもしれませんが、誰でもできることです。

外側に意識を向けることができるのですから、内側に意識を向けることだってできるのは当然のこと。ただ少し慣れが必要なだけなのです。

ただし、外側の世界に対してすごく気になることがあるとか、不安や困りごとがあってとても安心などしていられないという状態では、当然のこと意識を内側に向けるという余裕がなくなってしまいます。

だからなるべく特別な問題を抱えていないような状態の時にこそ、意識を内側に向ける練習をする必要があるのです。

そうすることで、少しぐらいの不安や困りごとがやってきても、意識的であり続けることが少しずつできるようになるのですね。

自我の正体を見る

最近このブログに度々登場している私の母親のことですが、ちょっと驚くようなことがありました。

とにかく家にいる時には、何もすることがないので、起きていようが寝ていようが不安の攻撃を受けるらしいのです。

特に寝て起きた直後は、もう夢の中の状態が継続してしまうのです。そしてその夢はことごとく潜在意識の中に巣食っている「不安」が題材となっているのです。

どれほどこちらが安心してもらいたいと願って、あれやこれやを提案したり言って聴かせたところで、ほとんど効き目はないのです。

不安を煽るネタが次から次へと無限に出てくるので、なんでも不安の材料にしてしまうんだねと声をかけたところ、突如不安製造機の親分が現れたのです。

そして一言、「生きている限り不安があるんだ!」。普段の穏やかな感じとは大分違ってちょっと怖い感じのするキャラクターでした。

思わず、不安の張本人の本音が出たなと思ったのですが、それも一瞬だけでその後すぐにいつもの穏やかな母親に戻りました。

初めて直にその存在を見ることができました。やっぱりいるんですね、黒幕が。その存在が、不安を操って日々を生きる糧として使っているということです。

自我の正体が見えた気がした体験でした。

覚醒とは自然であること

覚醒すること、あるいはエンライトメントというのは、特別な何かを達成するというものではありません。

生後くっつけてしまったあらゆる余計な概念や正しさ、自分はどうあるべきか等の観念から解放されることです。

他人のことについては、とてもよく理解できるのですが、いざ自分のこととなるとそうは簡単にはいきません。

なぜなら、防衛のために自分に押し付けてきたあるべき姿を捨てられないからです。それほどの勇気を持つことは難しいのです。

もしも私たちがあらゆる拘りから解放されたなら、幼い頃のようなより自然な生き方に戻ることになるでしょうね。

ところが、潜在意識の中には過去に体験して、未消化なままに残ってしまったエネルギーがどっさりと残っているのです。

そういったものが、自然に生きることにブレーキをかけて、不安や孤独、そして惨めさの中に引き戻そうとするのです。

自然にそして自由に生きようとする部分と、不安から逃げて安心を掴もうとする部分とが常に対立しているのが私たちのマインドですね。

心労から解放される

自我にとっての最大の楽しみというのは、哲学なのではないかと思うのです。なぜなら、それはずっと思索の中に入って戯れていることができるからです。

外側には何も必要とせずに、ただただ内側の世界で思索し続けることができるのです。それが終わりを迎えることはありません。

奥深い思索の結果、覚醒に到達するということは決してないからです。これはエンドレスの思考のゲームなのです。

言ってみれば、ゴールのない無限に続けることができるロールブレイングゲームのようなものです。

どれほどの際立ったものに到達したところで、それは思考の世界でのことであり、そこから抜け出すことはできないのです。

それに対して、瞑想においては全く異なる次元に到達することができます。とめどない思考の罠から抜けて、クリーンな実在を見抜くのです。

思考から抜けると時間からも抜けて、ただ現在にあることに気づくことができます。過去と未来から解放された至福を味わえるのです。

なぜなら、過去と未来がなければ、あらゆる心労からも解放されるからですね。

無目的を理解する

どの自我にも共通のある特徴があるのですが、その一つに挙げられるのが目的志向だということです。

それもかなり重症の。この宇宙、この世界は常に活動し続けているのですが、総合してどこかに向かって動いているわけではありません。

ただただ動いているのであって、何もどこにも向かってなどいないのです。自我にはそれが受け入れられないのです。

それなら、なぜ生きているのか?という疑問が噴出するからです。こうして日々生きている以上は、より価値が高く、より成長し、より◯◯を考えるのです。

昨日よりは今日、今日よりは明日はもっと良くなっていくはず。そういった前提を持って生きているのです。

その期待通りの結果が出れば少しは満足することもできるのですが、必ずそうなるわけではなく、また結果が出たとしてもすぐに次なる目的地を作るのです。

そうやって鼻面にぶら下げられた人参を追う馬のごとく、毎日せっせと追い続けるわけです。

そろそろこうした生き方の馬鹿馬鹿しさに気づき、この宇宙には目的などないことを理解することです。

そうすれば、自我よりも本当のあなたのどっしりとした深い安心の毎日を感じることもできるはずですね。

新しい生き方、考え方を試してみる

私たちの自我というのは、大なり小なりの自己否定をしているくせに、その一方では自分の考えを信じる傾向にあるのです。

どれほど自分の人生が上手くいっていないとしても、簡単にはそれは自分の生き方や考え方が間違っているからだとは思わないのです。

もっと試してみないことには結論は出せない。これまではたまたま上手くいかなかっただけで、もっと頑張れば人生は変わるかもしれない。

そのように思ってずっと生きてきて、それでも変わらないでいることにはっきりとした「ノー」を突きつけることをしないのです。

だからどれほど頑張ってもどんなに我慢して、無理を強いたとしても何も変わらないのです。

とても不安で恐ろしいことかもしれませんが、自分の考えや生き方を疑ってかかるということをする必要があるのです。

耳障りのいい、都合のいい言葉に惑わされるのではなく、大変そうだけどもどこかに惹かれるものを感じる言葉に注意を向けることです。

その時に自分のこれまでの正しさを脇に置いて、希望を感じるものに真摯に向き合う勇気を持つことです。

これまでの自分を否定する代わりに、できるだけそれを使わないようにするのです。新しい考え方を取り入れる自分に時間と労力を与えてあげるのです。

そうした勇気ある行動によってのみ、癒しが進むと思って間違いありませんね。実践あるのみです。

ただ夢の中で彷徨っている

短期記憶がほとんど機能しなくなってしまった母親を見ていて分かるのですが、夢から目覚めた後もその夢の中で生きているようなものです。

その日生きた現実の記憶がないので、目覚めても夢の内容しか頼りになるものがないのでしょうね。

その状態では、なかなか理性を働かせるといっても制限されてしまうのです。夢の中の理性なので、現実を受け入れられなくなってしまうのです。

夢の中でも目覚めても無意識の状態になっているので、自我の独壇場ということになりますね。

このようになってしまった母親を見て、ふと思ったことがあるのですが、それは覚醒してしまった人からすると、私のことも同じように見えるのではないかと。

私自身は、少しは意識的であるように心がけているし、この現実世界をしっかり把握しながら生活しているという自負があります。

けれども、例えば覚醒したoshoのような人から見れば、まるで夢の中で生きているかのように見えるのだろうと思うのです。

なぜなら自分が生きている現実とは、その多くが自分(自我)が作り上げたもので彩られているからです。

私たちがやらかしている投影とは、思っている以上に大きなものに違いありません。簡単に言えば、見たい世界を見ているのです。

本当は良いも悪いもないし、善も悪もない。ただ起きることが起きているだけ。こうした中道の見方ができないなら、やはり夢の中でフラフラ彷徨っているようなものなのですね。

病んだ自我を癒す

自我の生い立ちを見れば容易に理解できるのですが、自我は周囲から働きかけられることによって、作られていくのです。

声をかけられ、見つめられ、抱きしめられて、相槌を打ってもらい、受け止められて、尊重されることで健康な自我が出来上がるのです。

なぜなら自我は相手から自分へ向かうあらゆる情報をかき集めることによってのみ、でっち上げられるからです。

自我がひとりでに発生するということは決してありません。家族や両親などの周囲の人との関わりが自我を生み出すのです。

だからその関わりのされ方一つで、生まれる自我が健康か病んでしまうかは決まってしまうと言えるのです。

自我が形成される段階で、両親の内面が未発達だったり余裕がなかったりすれば、当然のごとく尊重される可能性は低くなります。

親の未熟な心は幼子を上から見下ろすか、下から見上げるかしかできないので、対等な関係性を知らずに育つことになるのです。

受け止めてもらえなかった自我は、自分の存在価値に気づくことなく大人へと成長してしまうため、自分に自信が持てない人生を送ることになるのです。

もしもあなたが成長していくときに、理想からは程遠いと思われる親に育てられたとしたら、上記のようなことをしっかり理解した上で癒しをしていくことです。

癒しは誰にでも進めていくことができます。ただし、自分への興味と熱意と粘り強さも必要となるでしょうね。

異なる次元という無限の距離

もしもあなたが、今いる部屋を非常に嫌悪しているとして、一刻も早く離れたいと願ったとしても、一瞬にしてその部屋から脱出できるわけではありませんね。

あなたの嫌いなその部屋の床を歩いて、外へと出ていく必要があるのです。つまりは、問題の解決というのは今あなたが「いる場所」から始めなければならないのです。

どれほど理想を掲げたところで、その嫌いな部屋の空気を吸って、その部屋の音を聞きながら出ていくことになるのです。

癒しというのも同じようなものです。あなたが一個の自我として生きているのであれば、その自我のレベルを通して癒しを進めていく必要があるのです。

つまり、心理療法による心の癒しというのは、つまるところあなたの自我を癒していくということです。

けれども、もしもその部屋から一歩も出ずにかつその嫌悪感からも解放される方法があるとしたらどうでしょう?

可能性は決してゼロではないのです。その方法は、あなたが自分の本質に目覚めることで実現するかもしれないのです。

部屋から出たいと願っているその自我に意識を向けることによって、あなたが観照者の側になることで自我との距離ができるのです。

その距離は物理的にはゼロであっても、異なる次元という意味では無限に遠いのです。あなたの本質は嫌悪感からも無限に遠い状態にあるということ。

意識的であることの究極の目的は、そのような状態になることを想定しています。どうでしょう?意識を自分に向ける練習がしたくなったのではないですか?

本当はその部屋から出る必要などなく、その部屋とは別の次元に本当のあなたがいるということに気づくだけでいいのです。

問題が解決されるのではなく、元々あなたの次元には問題なるものなど存在していなかったということですね。

成ることと在ること

私たちの自我というのは、成るということに精を出すのです。決して在るということに焦点を当てられずにいるのです。

この成ることと在ることの違いを明確にしておく必要があります。自我にとっては成ることに意味があり、真実は在ることでしかないのです。

私たちの頭の中は成ることでいっぱい。成ることで埋め尽くされていると言ってもいいくらいです。

何者でもないものが、何者かに成ることこそが人生に意味を持たせると信じているのですから。

社会はそのようにできているのは分かります。けれども、そのバカバカしさ全体を見つめることです。

なぜなら、成ることの後は消滅しか残ってないのですから。ところが、真に在ることは永遠なのです。

成ることが夢の一部であるなら、在ることは覚醒です。私たちの本質はただ在るということです。

変化するものは全てが夢の一部であり、永続的なものだけが真実であるということ。この感覚をしっかりと自分のものにすることですね。