癒しと非二元の探究は繋がっている

ちょうど1年くらい前から、非二元の動画を挙げるようになって、それまでの癒し中心の動画とは様変わりしたのですね。

セラピストの自分が、癒しとは異なる非二元の内容を伝えるというのは、どうかなとも思ったのですが、その時々で自分が表現したい内容を正直に話して来たのです。

自分がどれほど非二元に傾倒したとしても、これまで通りのクライアントさんとのセッションは問題なくできると分かっていたからです。

とはいうものの、自我の癒しを行うセッションと非二元の探究とは、全く異なるものだと思っていました。

ところが、最近になってかなり共通するモノがあるのではないかと分かって来たのです。それは、どちらも信念を脇に置くということ。

癒しの大切なことの一つは、これまでの生き方を変えることなのですが、それはこれまでに培って来てしまった思い込みや信念を手放すということ。

それと、非二元の探究で必要となるあらゆる信念を脇に置くのとは、全く同じことだと気づいたのですね。

ただし、癒しをおざなりにして一足飛びに非二元の方に意識を向けるのは、あまりお勧めはできない感じがします。

それは、都合の悪いところを見ようとせずに、そこをパスして現実逃避のように非二元へと逃げるようなニュアンスを感じてしまうからです。

いずれにしても、心の癒しと非二元の探究は、相反するモノではなく、繋がっているということですね。

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この世界には自分しかいない?

かなり昔のことになるのですが、大きな声では言えないのですが、この世界には自分しかいないんじゃないの?という感覚を持っていました。

そう言ってしまったら、すごく傲慢な人に思われてしまうことに気づいていたので、独りで心の奥で思っていたのです。

自分でも、それって随分と自分勝手な発想だし、自分が特別な存在だという自我の欲望からきているのかなとも感じていたのです。

この感覚というのは、今思えば自分というこの存在の外側に現実の世界が広がっているということへの違和感だったのだなと。

絶対的にそんなことを知ることはできないはずだと、なんとなく気づいていたということですね。この感覚は、間違ってはいなかったのです。

けれども、ある時期からやはり自分だけが存在するなどという身勝手な発想は幼稚だと思って、ある種封印していたのです。

それが、非二元の探求の中で復活してきたのです。これは、一部使えるなあと。あとはゆっくりと、その中心にいると思っている個人的な自分も思い込みの産物だったと気づけば良いのだと。

非二元の探究は人によって、そのプロセスは様々だと思うので、私の場合は周りを疑うことから進んでいったんだなと分かるのです。

あなたも自分独自のプロセスを歩んで行かれると良いですね。

「非個人的」が鍵

私たちの苦しみの根源は何かと言えば、自分は個人として生きているという考えがあり、それを頑なに信じていることなのです。

たとえば、身体の不快感がやってきたときに、それが痛みであったり痒みであったり、内臓の不具合感であったり様々です。

けれども、それが自分という個人の身の上に起きていることだと思うからこそ、そこに苦しみが付加されてしまうのです。

痛みなどの感覚が非個人的なものであることを見抜いたならば、そこにあるのはその感覚だけであって、苦しみを作り出すことにはならないということです。

個人としての当事者意識というものが、快不快を感じる時のベースとしてあることは、誰も疑うことはないはずです。

精神的な悩みや困難についても同じ事が言えるのです。自分という個人が精神的な攻撃を受けているように感じてしまうのです。

そうすると、自分だけが何故?という気持ちになって、他人との比較をすることにも繋がるわけです。

個人というのが幻想でしかない、つまり「非個人」という真実に気づくことができれば、それだけで全ての苦しみから解放されてしまうはずなんですね。

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少し光が見えてきた

一昨年の7月頃にハワイにある不動産を売却して、そのお金で家を建て直して住み始めたのが去年の8月でした。

アメリカというのは自分勝手な国で、売却した時の税金を多めに天引きしてしまうんですね。そして、後で取り過ぎた分を還付金として返すという仕組み。

その還付金を返すに当たって、本人確認が必要という非常に理不尽な理由によって、送金が遅れていたのです。

昨年の5月頃に、本人確認のために電話をかけて承認をもらえたにも関わらず、ずっと長きに渡って返金されなかったのです。

アメリカってそういう国なのかなと、もう半ば諦めていたところ、昨日ようやく念願の還付金が送金されたのです。

その間、一体どうなっているのかを何度も何度も繰り返し、問い合わせをしなければならなかったのです。

いやあ長かったなあと。アメリカ連邦税務局に電話をしてから、かれこれ1年半が経とうとしていたのです。

日本では絶対にあり得ないことなのですが、アメリカでは普通に起きてしまうのです。今回無事送金されたのも、もしかするとトランプ大統領とイーロン・マスクのおかげかも。

ところで、トランプ大統領から高市さんへの祝辞とともに「日本の皆さま、おめでとう!」というメッセージが届きましたね。これは異例のことだと思います。

暗いトンネルの中にいた日本の経済に、少し光が見えてきたと言うことかもしれないですね。あまり期待せずに情勢を見守っていきたいと思います。

非二元だけがリアル

非二元のことを全く知らずに生活している人にとっては、「世界はそこに存在している」と信じているわけです。

信じているということすら気づかずにいて、そこを疑ったことがきっと一度もないというのが正直なところでしょうね。

だから、それは妄想なんだと言ったとしても、100人中99人は耳を貸さないで終わってしまうはずです。

けれども、そこを疑ってかかることができれば、そこからいずれはあらゆる苦しみから解放されることになる、と言ったら数人は立ち止まって聞いてくれるようになるかもしれません。

それでも、結局はそんなバカな話は、きっとどこかのインチキくさい宗教みたいなもので、自分は騙されないぞ!となるのだろうなと。

ただここで、非二元の探究を続けている身として、正直な感想を言うと、非二元というのはあらゆる人間の嘘を見破るのです。

思考が作り出した、想像、妄想、イメージ、思い込み、概念、観念、信念、可能性、予想、こうしたリアルでないものを全て排除するのです。

非二元ほどリアルなものはないとも言えるのですね。

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熟睡の状態で生きる

昔から寝るのが大好きというのがあって、若いときにはちょっと言いづらい面もありましたが、この年齢になると誰はばかることなく言えますね。

何かものすごく熱中できるものがあるという訳ではないからなのか、これと言ってやりたいことがないからなのか。

とにかく若い頃から、寝るのが大好きでした。そして、今も変わらないのです。これは怠け病ではないと思っています。

きっとどこかで、個人として生きることに絶望しているんだと思うんですが、確たる証拠はありません。

ただ、非二元の探究をしていて思うのは、熟睡という状態においては一切の対象が消えているし、苦しみもない。

とにかくどんな苦しみもないというところに憧れがあるのかなと。熟睡中であっても、気づきである自己は消えないのです。

だから、熟睡から覚めたときにああよく寝た、ということが言えるわけです。つまり、自分は継続しているということ。

目指すのは、目覚めている間にあの熟睡の感覚で生きて行けるようにするということなのかもしれません。

女性の自民党総裁誕生

初めての女性の自民党総裁が誕生しましたね。そのうちには、間違いなく日本の総理大臣になってくれるのだろうなと。

男性だろうが女性だろうが別になんの関係もないのですが、それでもやはり凄いことが起きたなという感じはします。

私なりに情勢を見ていたのですが、高市さんは敵が多いので総裁になるのは難しいのではないかと思っていたのです。

つまり、ほとんど期待していなかったので、それなりにちょっとびっくりしましたね。そしてここからが大変なことになりそうです。

高市さんは大変な政策つうではあるのですが、反日議員の多い日本の政治家の中では、きっと前途多難なことになるだろうなと。

下手したら、◯◯されてしまう可能性すらあって、大手メディアや財務省からの途方もない圧力に屈しないでやっていってほしいと願うのです。

まずは積極財政を実施して、日本全体の景気が上向きになるように頑張って欲しいと思いますね。

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リアルな現実が分からない

自分の中で、非常に重要な気づきへと繋がるかもしれない、でもまだ釈然としない事柄があるのですが、それについて書いてみたいと思います。

視覚についていうと、私たちは毎日毎瞬それこそ様々な色や形を体験し続けているわけです。色の種類も形の種類も無限です。

たとえば、白色を体験し、それが消えた後に、次に青色を体験したとします。このとき、直接の体験に留めるとすると…。

まず、最初の色の体験が起きているときに、それが白色であるという認識は直接の体験としては起きていません。

さらに、次の青色の体験が起きているときも、それが青色であるという認識は直接の体験としては起きていないのです。

となると、一体どのようにして異なる色の体験が起きていると感じることができるのでしょうか?

そもそも色の違いと言ってしまっているので、それは両者を比較する必要が出てきてしまうので、そこには必ず思考(記憶)が必要となるのです。

ここから分かることは、直接の体験だけがリアルだと言うならば、そこには色に限らず、あらゆる種類の「違いという体験」がないということになってしまうのです。

そしてこのことを拡大していくと、色という体験と音という体験の違いも消えてしまうのです。リアルな現実っていうものが、全く分からなくなってしまいますね。

亀の歩みのような探究

最近といっても、もうかなりの期間に渡っているように感じるのですが、眠気が凄まじい状態になっています。

何も疲れるようなことは一切やってないので、おかしいなとは思っていたのですが、先日気づいたことがありました。

それは、ただ本当に眠いというのがやって来たことがあったのです。それは普段感じているあの眠気とは違って、普通に眠いという感覚だったのです。

それで、いつも感じているあの重苦しい眠気は、やっぱり異常なものなんだなと分かったのです。目を開けていられない感じがするのですね。

もしかしたら、非二元の探究が思ったようには進んでくれていないことが、原因なのではないかとも思うのです。

何か新たなほんのちょっとした気づきでもあれば、気分はいいし次はもっといけると思うのですが、停滞感が拭えない。

とはいえ、その異常な眠気の中をかい潜りながらも、亀の歩みのような探究は続けていけるのかなと。

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「あさっての方向」って?

これは比喩的な表現になるのでしょうけれど、「あさっての方向」という言い回しがありますね。実際に使うことは少ないのかもしれませんが。

たとえば、「話があさっての方向に行っている」→ 話題がずれてしまっている、という意味になるかなと。

あるいは、「努力があさっての方向だ」→ やっていることが目的に結びついていない、くらいの意味になるのです。

数年前から、明示的にこの言葉を自分の中で使うことがあったのですね。それは何かというと、「どこでもない場所に意識を向ける」という感じかな。

目を閉じるのではなく、それでも周囲のどれにも視線を向けることなく、想像を絶するどこかに意識(視線)を向けるというくらいのニュアンスなのです。

この自分にはとても理解することができないような、どこか(のレベル)に意識を向けるような感じです。

なぜこんなことをやるかというと、そこにこそ真の自己が在るという感じがしているからです。とても変な話ではあるのですが。

初めて言ってみました。「どんな方向でもない」ということを表現したかったのですね。似たようなことをやっている人がいたら、共感していただけるのかなと。