マインドの法則

もしもあなたが自分の正直な気持ちや思いなどをないがしろにしたり、あるいは無視し続けるとしたら、いずれはそれに見合った代償を払うことになります。

この法則は絶対です。ニュートンの万有引力の法則と同じくらいに正確にやってきます。当たり前と言えば当たり前のこと。

一回我慢させるのか、百回我慢させるのか、あるいは千回、一万回なのかによって、それに応じた報いが必ずやってきます。

決して逃げおおせるようなものではなく、そのツケは必ず払わされることになります。それはもうあらゆる手段を使って。

一番分かりやすいのは、物理的な身体の不調であったり継続的な具合の悪さなど。勿論それに病名がつく場合もあります。

あるいは、明らかな病気を患うこともあるのです。私の場合は、全身の皮膚炎と大腸がんを患いました。

がんの手術をした途端に皮膚の痒みが消えて、会社を辞めた途端に皮膚の赤みも消滅してしまいましたが。

そして、わかりづらいのは精神的な様々な苦痛や生きづらさです。代表的なものはウツ症状であったり、その他あらゆる精神疾患も含まれます。

考えてみればとてもシンプルな法則なので、ツケを払い終わったならその後はできる限り現金払いにすることです。

そしてなるべく正直に、より自然に、より自由に、より無邪気に生きるように変えれば、人生そのものもシンプルになってくるはずですね。

精神の飢餓状態

私たちのマインドあるいは自我は、目標や目的なしに生きていくことはできないのです。過去や未来に思考を飛ばすのもそれが理由です。

多忙を極める人たちは、そんなことはない。自分は何もせずにいられる時間が欲しいと言うかも知れません。

けれども彼らが全くフリーな時間を手に入れたとしたら、今度はその時間をどうやって過ごそうかということを考え出すのに、それほどの時間はいらないはずです。

たとえ瞑想するとしても、何の目的もなく瞑想することはできないのです。自覚はなくても何らかの目的がそこにはあるはず。

もしも何もするべきことがなく、何もしたいこともなく、それでも何も特別困ることがない時間が続けば、マインドは悲鳴を上げることになるのです。

老いて認知症になった母親を見ていると、無目的に生きることしかできなくなって本当に困っているのが伝わってきます。

それで無理やりマインド単体でアリもしない不安ネタを作り出しては、それを解決することを目的にするのです。

それと同時に無意識的な状態へと持っていって、その無目的による精神の飢餓状態を忘れるようにするのです。

こうしたことを身近で教えてくれるのが、今の母親の唯一の役目なのかも知れませんが、それにしても物理的には恵まれつつも、精神的には飢えている状態から早く解放してあげたいと思ってしまいます。

自我は天国には住めない

みなさんは、天国とかユートピアなどと聞いてどんなイメージを持つでしょうか?争いのない愛に溢れた場所っていうような感じかと思います。

何千年にわたる人類の歴史が戦争などによる殺戮と略奪の連続であることを考えたら、その反対にある平和な世界をイメージするかもしれません。

自分が生きている間にそうした理想的な世界がやってきてくれたらいいのにと思うかもしれませんが、それは本当ではありません。

なぜなら、戦争のない平和な世界になって誰もが幸せに暮らしているとしても、自分だけが惨めな毎日を生きているとしたら、そんな平和などいらないと思うはずだからです。

つまり私たちが真に求めているのは、自分の心が満たされることなのです。その上で世界全体が平和であれば尚良いと言っているだけ。

これが私たち自我の本質です。それは自分の存在は他者と分離しているという思いから必然的にやってくるものです。

そしてもっと知っておくべきことは、自分の心が分裂していることこそがこの世界の分裂を生み、それが現在の戦争ばかりの世界を作り上げてきたということ。

自我が優位である社会において、争いごとが消えて無くなることは決してないと思って間違いありません。

自我にとっては、争い(防衛)が消えていく世界を理想としながらも、それは同時に自我にとっての死を意味することになるのです。

冒頭に戻って天国やユートピアがあっとして、そこで自我が生き残ることは不可能なのです。この逆説的な事実への深い理解が、きっと自我優位の世界から離れていくためには必要なのでしょうね。

頭隠して尻隠さず

ワンちゃんを可愛がっている人からすると、ちょっと不服かもしれませんが、犬には自我がありません。勿論他の動物も同じです。

犬が自分の尻尾を追ってクルクル回っている姿を時々見ることがあると思います。あれは勿論尻尾を自分の身体の一部だと認識していないからです。

なぜならそもそもが自分という認識がないからこそ、自分の身体というのもないわけです。その自分という認識こそが自我だからですね。

「頭隠して尻隠さず」という諺があるように、犬は相手から隠れようとするときに、相手の姿が見えないようになるだけで隠れている感覚になるのでしょうね。

頭というのは目がある部位だからこそ頭だけは隠すことになって、それ以外の身体はバレバレ状態になってしまうわけです。

それに対して私たち人間は、自我(自分という認識)を持っているので、自分の身体がどこからどこまでかを知っているのです。

ただし目には見えない内面に関しては、この限りではありません。自意識とか顕在意識と言われる部分(正確には意識できるマインドの部分)だけが自分の心だと思い込んでいるのです。

そうなると、潜在意識(自覚できないマインドの部分)については全く気づくことができないため、場合によってはマインドが激しく分裂してしまうのです。

自意識ではとても条件のいい相手だと思ってお付き合いしていても、潜在意識ではとにかく大嫌いと思っているかもしれません。

だとしたら、潜在意識の自分はとても酷い目に遭っていることになりますね。気づかずにその人と結婚したら、いずれは離れることになるはずです。

目の前で起きている事象に振り回されて生きていると、潜在意識の存在をすっかり忘れて自意識だけで人生を泳いで行こうとしてしまうのです。

これはまさに頭隠して尻隠さずの状態と同じだということに気づく必要があるのです。外側よりも内側を見ることが大切である所以ですね。

より自由であるために

誰もが自由に生きたいと願っているはずなのですが、なぜか不自由な人生を生きている人がたくさんいるのです。

自由か不自由かというのはあまりにも雑な言い方ですね。完全に自由な状態から不自由極まりない状態まで、グラデーションがあるのです。

できる限り自由でいようとするためには、何を心がけたらいいのでしょうか?あるいは、不自由な状態とは具体的にはどういうものか?

その辺のことをしばしゆらゆらと考えてみたのですが、自分の場合だと何かに囚われているなと感じた時には不自由なのだろうなと。

人間とはこうあるべきとか、物事の正しさであるとか、何らかのルールであるとか、そう言ったものに縛られているなら、不自由を感じるはずです。

それと少し種類が違うかもしれませんが、好き嫌いが激しいとか、自己主張が強い場合も不自由なはずです。

人間本来の存在は他の動物と同じで野生であるはず。それは自然であるということです。だから不自然さが不自由さを生むとも言えるのですね。

自由であるための最短コースは、きっと選択せずにいること、そして受容することだと思います。

もしもあなたが死にたくないとやったら不自由になるはずですが、死を受容した途端、死から解放されて自由の身になるということです。

また能動的であることよりも受動的な生き方をしている人の方が、そういう意味ではより自由であることは間違いないですね。

自我ど真ん中から抜ける

確か今から6年程も前のことになるのですが、当時新しく発売されたipadとapple penを購入して、遊びで絵を描いたり図面を描いたりしていたのです。

それ以来愛用しているipadですが、apple penの方は全くもって使わなくなってしまっていたのですが、最近またある用途で使いたくなったのです。

ようやく見つけ出していざ充電しようとしたところ、どうも壊れてしまっている模様。なんかそんな気がしていたのですが、まさか何もせずにいて壊れるなんてと…。

事務所隣のapple storeに持って行ったところ、やはり壊れていると。修理には三千円くらいかかるし、おまけに新宿まで持っていく必要があるとのこと。

新しく購入すると一万三千円くらいかかるらしい。え、どうしよう?持ち帰ってきてもう一度試してみたけれど、勝手に治るはずもなく。

修理するなら差額で1万円ほど浮くけれど、新宿まで行く労力を考えると?待てよ、自分の単価っていくらくらいだっけ?

ここで迷ってしまい、お得意のしばらく放置。それでようやく、よくあるどうしたものか迷うという定番の自我のモードに入っていたことに気づくのですね。

どちらがお得かを考えあぐねていることそのものが、エネルギーの無駄遣いなのです。事態を見守るモードに戻るのに少しの時間が必要でした。

一旦このモードに戻ることができると、損得の問題から解放されていくのが分かります。あとは、どうなるかを楽しみに待つのみです。

言葉の限界

若い頃には分からなかったのですが、多分一生は思いのほか短いのだろうということ。最近それをリアルに感じるようになりました。

自分にはまだまだ時間があるという思い込み、それが本当になくなってきたなあと分かるのですが、その実感を言葉などで伝えることはできません。

他にも言葉で伝えられることがとても少ない。特にこれは非常に大切なことだから何としても伝えたい、そう思うものほど伝えられないのです。

それもそのはず、言葉というのは思考であり、それは自我のものだからです。つまり言葉で伝えられる範囲というのは、そもそもが自我の範疇のものだけなのです。

自我が少しの間落ちていた時に一瞬で理解した、「時間はない」というあの感覚。どうやったって、言葉で説明などできない。

ブログでいつも言っている「全体性」にしても、その普遍性、あまねく存在する感覚なども絶対に伝えられません。

そもそも伝えられないものというのは、誰であれその内面に元々持っているものではないだろうかと考えています。

つまりは伝えることができないというよりも、伝える必要がないということ。各自が興味と熱意を持って、自らの内側へと入っていくこと。

方法はそれ以外にないのだろうなと思うのです。やり方はいたってシンプル。静かな時間を作って、ゆっくりと意識を内向きにしてただ在るようにするのです。

ただ在るというのは、過去にも未来にも行くことなく、欲を傍に置いて思考から離れているようにすることです。結果を期待せず、求めず。シンプルだけど難しいですね。

夢人生から目覚めるために

どれほど楽しい夢であろうと、あるいはもう二度と見たくないと思わずにはいられないような悪夢であろうと、いずれは目覚めることで終わりを迎えます。

ただ夢の中では、それが夢であるということにはほとんど気づくことがないし、そういう発想すらできない(つまり無意識)状態なのです。

目覚めて初めてただの夢だったと気づくところがミソですね。私たちの人生もこれとほぼ同じだと言えるのです。

どんな人であれいつかは必ず目覚めがやってくるのです。今回の人生では夢のまま終わったとしても、次の人生、そのまた次の人生という具合にずっと夢は人生を跨いで続くのです。

そしていつかはめでたく目覚めがやってくるということです。睡眠中の夢との違いは、目覚めた時には自我ではなくなるという点です。

この人生という夢の中では、私たちは自分のことを自我だと思い込んで疑うこともしません。だから一向に目覚める気配もしないのです。

けれども、夢人生の中で意識的である訓練を継続していくことで、目覚めた時のことを想像できるようになっていくはずです。

なぜなら目覚めるということは自分は自我ではなく、純粋な意識であったと気づくことだからですね。

自我という役柄を演じる

大学受験に失敗して浪人が決まった時に、予備校に通う決断と同時に俳優になる道はないかと思って、あるオーディションに写真を送ったことがありました。

今思えば若気の至りに過ぎないのですが、そのくらい俳優さんへの憧れみたいなものがあったということですね。

俳優というのは与えらえた役柄を演じ切るのが仕事。苦労も多いのだろうけれど、さまざまな人生を模擬的に体験できる魅力もあります。

名優といわれる人は、できるだけその役柄になりきることができるので、場合によっては本当の自分よりも役の人物のようになってしまうこともあると聞きます。

けれどももっとずば抜けてその役に入り込んでしまっている人がいます。誰だか分かりますか?それが全人類なのです。

私たちは誰もが自分の本質のことをすっかり忘れてしまい、与えられた人生の中心人物としての自分を生きているのです。

役柄を完璧に演じているという点では100点満点に違いありません。ただ残念なことに、その役から抜け出て来れずに死んでいくのです。

では自我という役柄を演じているということに気づくためには、一体どうしたらいいのか?それは自我との距離感を掴むことです。

つまりはできる限り意識的でいて、自我を見守る側にいる時間を長くすることです。自我との同化を外すにはそれしかないのでしょうね。

心が貧しいとは?

多くのものを所有して物理的には裕福であろうと、反対に心が貧しいままであれば人は幸せにはなれない、なんてことを言いますね。

前半は分かるのですが、心が貧しいとは一体どういうことでしょうか?もちろん比喩的な表現であることは確かです。

私の解釈は、心が貧しいとは「もっともっと…」という貪欲さ、強欲さのことではないかと思っています。

元々人間のマインドというのは、真に満たされるということがないのです。つまり、足りたいというのが生きる原動力となっているのです。

まだ手に入れられてないと思っているものを、もっともっとと際限なく求める一方で、すでに手にしたものには興味がないのです。

だからどれほどのものを所有できたとしても、マインドの不満、欠乏感が尽きることはないということです。

逆に表現すれば、いつもこのブログでお伝えしている通り、マインドは満たされてしまったら存続できなくなってしまうのです。

こうしたマインドの仕組みを深く理解することで、どこまでも求め続けてしまう残念な状態から、少しずつでも離れていくことができると考えています。

マインドが小さくなればなるほど、心は豊かになっていくということですね。