選択と受容

私たちのマインドにとって、命がかかっているくらい大切なことが究極二つあるのです。それは何だと思いますか?

存続するために絶対に必要なことは、「選択」し続けるということです。だからこそ私たちは日夜、選択をし続けて人生を生きているのです。

選択するということは、あれはいいけどこれはダメという具合に、物事を分離させることになるのです。

その分離こそがマインドの本性であり、思考の根っこにあるものです。マインドのベースは個人として周りと分離している自分がいるという思い込みです。

それが分離対象としての他人の存在をも生み出すわけです。この世界が個別のもので分離していると言うのは、全くの間違いです。

その一方で、マインドにとっての最大の敵は「受容」するということ。受容することは選択しないということでもあるからです。

受容し続けるならいずれは分離が消滅していってしまうからです。それはマインド(自我)の死を意味します。

その結果は全ては一つという状態を思い出すことになるのでしょうね。

常にマインドを見守る

もしもあなたが誰かの言葉に傷つけられたと感じたら、自分の内側を見てみることです。本当にその人があなたを傷つけたのかどうかを知るために。

あるいは、何かのドラマを見ていて悲しい気持ちになったとしたら、やっぱり自分の内側を見てドラマの内容が原因で悲しくなったのかどうかを確認することです。

外側で起きることはあなたの内面を揺さぶる「きっかけ」にはなっているかも知れませんが、本当の原因はあなたの内側にこそあるのです。

それは、ある言葉を投げかけられた時に人によって反応がまちまちである事実を見れば、一目瞭然なのです。

「あなたは◯◯だね」と言われて怒る人もいれば、悲しむ人もいます。怯える人がいれば、無反応な人もいるかも知れません。

どんな反応をするかは、その人の内面にこそその原因があるのです。改めて言われれば確かにそうだと思えるのですが、普段はすっかりそのことを忘れてしまっているのです。

そして外側の事象ばかりに気持ちが向かってしまい、それが原因で心が乱されたと勘違いしてしまうのですね。

1億円の宝くじが当選した時に喜びのあまりに絶叫するとしたら、それもあなたの内側にそうさせる原因があることは明白です。

もしも自分のマインドの反応を注意深く見る練習をしていれば、その原因となるものに気づけるようになるのではないかと思っています。

それはマインドをより深く理解することになるし、それによってどんな反応であれそれが小さくなっていくことに繋がるのではないかと思っています。

何にも興味を持てない

知識欲というのがあるということを知ったのは、確か中学生くらいの時だったと思うのですが、へえそんなものがあるのかあという程度でした。

勉強が性に合わない自分は知識欲などと言われても、全くピンとこなかったのです。ただ何かと物知りな友人などを見ると、ちょっとカッコいいなとは思っていました。

成長して大人になれば自分も知識欲が出てきて、人並みに色々なことを知るようになるのだろうと思って期待していたのですが、そうはなりませんでした。

簡単に言えば子供の時や学生の頃のままなのです。誰でも知っているような日本や世界の歴史にも興味を持てず、地理にも疎いままです。

テレビのクイズ番組などで一般常識的な問題が出て、出演者のみなさんが軽快に答えていくのを、みんなよく知ってるなあと思いながら観ているのです。

経済がどのような仕組みで回っているのかを知ろうと思ったこともあったのですが、続かないのです。

要するに興味がないからです。知識量が異常なほど少ないので、人との雑談というのがとても苦手です。

スポーツや行事にも関心がないし、だから冠婚葬祭にこの年齢になっても対応できないのです。一口で言うと使い物にならないと言うこと。

常識のなさというのは、興味のなさからくるものだと言うのを身をもって証明しているようなものですね。

多くの物事に対して興味を持てない私の自我はなかなか大変です。ただ唯一言えるのは、自我やマインドのことは興味があるので、この仕事の役に立ってよかったです。

意識を内側に向ける

セッションなどでよく「意識を内側に向ける」という言葉を使うのですが、いつもあまり親切な表現ではないなと思っていました。

分かりやすくないというか、もう少し丁寧に説明できたらいいのにと思うのです。その言葉足らずの部分を今日は補足してみようと思います。

私たちは大抵が無意識であれば、外側の方にばかり意識を向けています。肉眼は外側を見るためにできているし、耳も外の音を聞くようにできているからです。

だから内側に意識を向けるためには、まず初めに無意識的であってはならないということです。例えば、すごくシンプルに表現するなら、外側の◯◯を見ている自分を見るのです。

街を歩いていて、道端に咲いているタンポポを見つけたとして、そのまま通り過ぎるのではなく、タンポポを見つけた自分を見てあげるということです。

その時の見るというのが、意識を向けるということになります。普通なら無造作に通り過ぎてしまうところを、意識してその自分を見るということ。

もしくは、外側にある何にも目を向けずにいるように練習すると、意識の向けどころがなくなることで、自然に意識は内側へと向くようになるのです。

初めのうちは外側に意識を向けないように目を閉じるのが普通ですが、慣れてきたら目を開いたままでも意識を内向きにすることができるようになります。

内側に意識を向けることのメリットは計り知れませんが、すぐに効果を感じられるのは内面が静かになってくれるということです。

是非練習して自分のものにして、その成果を楽しめるようになるといいですね。

自我の立場とそれを見守る立場

知り合いの人で70歳を優に過ぎているのに、これから新規にビジネスを立ち上げようと計画している人がいます。

幾つになっても挑戦し続ける人生って素晴らしいですね、というのがそれを聞いた時の私の口から思わず出た言葉です。

その言葉には嘘偽りはありません。私たち人間には、常に目標のようなものが必要であって、それがなくなってしまうと精神的に病んでしまったり、急に老け込んだりする可能性だってあるからです。

ところが一方では、以下のようなoshoの言葉にもあるように、自我を見つめる側に立てば全く言うことが変わってしまうのです。

『もし自然に逆らったら、あなたの自我は強まるだろう。それがチャレンジというものだ。人々が挑戦を好むのはそのせいだ。

挑戦のない人生は退屈なものになってしまう。自我が空腹を感じるからだ。自我は食べ物を必要とする。挑戦がその食べ物を供給する。そこで人々は挑戦を求める。』

つまり人が挑戦することの是非は別として、その理由は明確に自我にとって必要なことだと言っているのです。

こんな感じでいつも自分の中に自我の立場からの物事の見方と、自我を見守る側からの見方とがあって、それらは共存しているのです。

社会がそうだからというのではなく、100%自分の内側の状態がそうなっているということです。この二重生活は今後もずっと続きそうです。 

インナーチャイルドを癒す

一度も聞いたことがないという人はいないのではないかと思うくらい、インナーチャイルドという言葉は一般的に認知されていると思います。

直訳すると「内なる子供」となるのですが、要するに大人になったあなたの内側に隠れて存在している幼い頃の自分ということです。

隠れてと表現した理由は、その存在が見えないからです。過ぎ去った過去に生きていた、あの頃の自分ですから見えるはずはありません。

勿論実在するものではなく、いわゆる比喩として使われる言葉だろうと誰もが思っているはずです。けれども、実は比喩ではありません。

あなたが存在するのと同じ程度に確実にインナーチャイルドは存在しています。姿形が可視化できないだけです。

肉体を持っているのは現在のあなただけだからです。肉体はなくても、マインドの中に過去はエネルギーとして存続しているのです。

リアルに存在するものだからこそ、現在のあなたがそれに飲み込まれてしまったりして問題が起きてくるわけです。

癒しとはあなたを癒すのではなく、あなたのインナーチャイルドを癒していくことなのです。そこを明確にする必要があります。

そのためには、インナーチャイルドは自分の一部ではあるものの、現在の自分ではないということに気づくことです。

多くの人にとって自分を大切にするということは意外に難しいことなので、大人の自分からは切り離すこと。

他人だと思って接することができると、それとの距離をとることができるようになって、自分の中でその存在がはっきり見えてくるのです。

そうすることでイメージの中で抱きしめることもできるし、声かけをしたり、受け止めることもできるようになっていくのです。

その結果、不安や寂しさの中で震えていたインナーチャイルドが、少しずつ穏やかに落ち着いてくるようになるのです。それが癒しですね。

愛もどきを見抜く

人を好きになるという体験はとても嬉しいし素晴らしいものですが、自我ゆえに辛く苦しい思いをすることも多々あるはずですね。

なぜなら自我の愛はあくまでも愛のようなものであって、ただ与える側である真の愛とは異なるからです。

そのために、愛する人を独占しておきたいという独占欲が発生するし、もしもそれが叶えられないとなると、今度は激しい嫉妬心が目を覚ますのです。

どちらも純粋な愛からはかけ離れたものですが、それゆえに相手の自由を尊重することもできなくなってしまうのです。

こうしたことがあるからこそ、ドラマチックなラブストーリーが起きるわけですね。側で見ている分には面白いですが、当事者は大変です。

愛のようなものと純粋な愛の見分け方はいたって簡単です。「◯◯してちょうだい」は全てがなんちゃって愛です。

一緒にいてちょうだい、私だけを見ていてちょうだい、愛してちょうだい、優しくしてちょうだい等々。こうして相手に求めている限りは愛ではないです。

大切なのはそれが悪いということではなく、それは愛ではないと気づいていること。そして、相手の自由を尊重できない惨めさから逃げないこと。

そこから一歩も逃げずにいられるなら、自然と自分も相手もともに自由でいられるようになっていくでしょうね。

極端をやめる

自我の成長と共に私たちは社会性を身につけていくのですが、それは社会の一員として問題なく生きていくために絶対必要なことですね。

ところで、その社会性があまりにも極端になって、自分らしさを失ってしまうようになると、必ずやそのしっぺ返しがやってきます。

つまりは極端な社会性は、その真逆である極端な反社会性へと持っていかれてしまうのです。そうなると、社会的な言動を嫌ったりできなくなったりするのです。

朝起きられない、何もやる気になれない、約束や時間を守れない、活力がなくなって寝てばかりになってしまう等々。

自覚としては1日も早く社会性のある自分に戻りたいのですが、どうにもこうにも自分が言うことを聞かなくなってしまうのです。

この状態を鬱と呼ぶわけです。しばらく休養してもう大丈夫となって、社会に復帰したとしても以前と同じ極端な社会性で生きるなら、当然のように再び反社会性へと引き戻されてしまいます。

そうやって反省ができない人は、何度も鬱を繰り返すことになるのです。そうしたループから抜け出すためには、極端な生き方や考え方を改めることです。

両極端のちょうど真ん中が理想ですが、それは非社会性あるいは無社会性と呼んでもいいかも知れません。

幼児のような無邪気さを取り戻すことができれば、真ん中付近で生きることができるようになるでしょうね。そうなったらもう二度と鬱になることはないはずです。

必ず残っている正気の部分

老人ホームに入居している母親のところに、娘が一緒に面会に行ってくれたのですが、普段は娘の名前を聞いてもなかなか思い出せなかったのに、娘の顔を見て母親の表情がパーっと明るくなったのです。

娘の名前を呼びながら、いっとき認知症が全快したかのような感じで正気に戻った感じがしたのでびっくりしました。

いつものように私が母親の脚のマッサージをしつつ、一方では同時に整体師の経験がある娘が肩のあたりをマッサージしたのです。

息子と孫に同時に身体をほぐしてもらって、贅沢だねえと声をかけると、本当に気持ちがいいといって喜んでくれたのです。

さすがに母親なりに娘には気を遣って、疲れるからもういいよと何度か言っていたのですが、私はその言葉をかけてもらったことがないなあと。

私が面会に行っても普段はそれほど喜ぶ表情を見せない母親なのに、やはり孫の存在は格別なんだろうなと。こればかりはかなわない。

それでも、母親の中にまだしっかりと残っている正気の部分を見ることができて、ありがたかったです。

誰の心の中にも、必ずその部分が残っているに違いないと思うのですが、それを引き出してあげることが難しいのでしょうね。

謝罪が苦手な人たち

人は生きていれば必ず、謝罪しなければならない事態に遭遇するものですね。謝るというのはとても自然な人間的な行為のはずです。

謝罪には申し訳ない、ごめんなさい、すみませんでした等々、色々な便利な言い回しがあるにも関わらず、どうもうまく謝ることができない人も沢山いるのです。

文言は同じでも、その言い回しや態度などに嫌々謝ってる感が露呈してしまう場合もあります。その中でも、どうせ私が悪いんでしょ!という厄介なものもあります。

これって本当に謝っているのかと、疑わしく感じてしまいます。実は、うまく謝罪ができない理由はたった一つ。

それは、自分は正しい、自分は間違っていないという、つまり正しさという鎧を着て生きている場合です。

正しいことに自分の価値を見出そうとする防衛が続けば、素直に謝罪することができなくなっても当然なのです。

謝るということは自分が悪かったと認めることなので、本人にとってはとてつもなく身を切られるような思いがするのでしょうね。

自分は悪くないという思いが強ければ、相手から何かを指摘されても素直には受け入れられなくなってしまうのは当たり前です。

そのため、人からのアドバイスや大切な言葉に耳を傾け難くなってしまい、学びの少ない人生になってしまうかも知れません。

正しさによる防衛は、このように百害あって一利なしだということを、深く理解しておく必要がありますね。