愛は「慣れる→飽きる」とはならない

自我の大事な能力の一つに「慣れる」というのがあります。私たちは慣れることで、手際が良くなったり、スムーズに物事を扱えるようになるのです。

クルマの運転しかり、楽器の演奏やあらゆるスポーツ、何であれ初めは不慣れなものですが、次第に熟達していけるのは、「慣れる」という能力のおかげです。

ただ、この慣れるということの功罪の罪の方にも目を向ける必要があるのです。慣れると緊張感が欠けるようになって、運転であれば事故を起こしやすくなるのです。

あるいは慣れることから派生して、飽きるという状態がやってくることも多々ありますね。もしもあなたが大切な誰かと一緒にいるとします。

それが毎日毎日繰り返されるとしたら、何だか毎日が単調過ぎて飽きてしまったなとなるかも知れません。

いわゆる出会った頃のあの新鮮な感覚がなくなってしまったと感じるのです。それは互いにハッピーなことではないですね。

なぜ慣れるから飽きるがやってくるのかを見てみたのですが、きっとそこには愛がないからではないかと思うのです。

慣れたとしてもそこに愛の要素があるなら飽きるということには繋がっていかないのだろうと思うのです。

自我は思考つまり過去に生きているのですが、愛は常に今この瞬間であるため、そこに飽きるということがないのです。

もしもあなたが慣れ親しんだものが人であれ仕事であれ、ずっと変わらずに飽きが来ないとしたら、その人その仕事との関係には愛があるということになるのでしょうね。

惨めさからの解放

多くの人の人生でやっていることの中心にあるものは、自分は惨めではないということを証明しようとして頑張ることです。

それはなぜかというと、自分は惨めだということを認めたくないからです。惨めさの反対側に行こうとしているのです。

ところがその原動力自体は、自分は惨めだという思い込みなので、惨めではないことを証明しようとすればするほど、惨めだということが真実のように感じるのです。

もちろん本人が明示的にそれを感じることはありませんが、マインドの奥深いところには惨めさを隠し持っているのです。

人が死にゆく時にも、惨めじゃないと思いたいが残っているので、その思考エネルギーは身体の死をすり抜けて次なる人生へと入っていくのです。

そして次こそは絶対に惨めじゃない自分になるという欲望が動き出すのです。欲望の根源はそういうものでできているのです。

結局そうした思考エネルギーだけが輪廻するのであって、あなたが輪廻するわけではないのです。あなたという個人がいるわけではないのですから。

もしもあなたがもう生まれ変わるのはゴメンだと思うなら、真っ先にやるべきことは自分の惨めさから決して逃げずにいること。

そして惨めさは事実ではなく単なる思考であることに気づくこと。それが理解できれば、思考から離れさえすれば惨めさは消えてしまうと分かるのです。

惨めじゃないことの証明などする必要がないと分かって、これまでの奮闘努力がバカバカしくなったらしめたもの。

あるがままの自分を受容するようになれば、欲望は薄れていくはず。その結果、輪廻からも解放されてあなたの意識は全体性へと吸収されていくはずですね。

黙るという防衛からは何も生まれない

私たちは幼い頃より家庭の中はもちろんのこと、集団生活のあらゆる場面で人とのコミュニケーションが大切であることを知っています。

社会の中で一人で生きていくことはできないし、共に協力しあってさまざまな環境を生き抜いていく必要もあるからですね。

ただコミュニケーションといっても、自己表現の得意な人もいれば、言いたいことをはっきり言えないタイプの人もいます。

口から生まれたように雄弁な人もいれば、口数が少なく物静かな人もいます。コミュニケーションが苦手という人であれ、最終的には相手に思いを伝えられればいいわけです。

けれども、大切な会話の時に黙り込んでしまったり、怒るともう口を閉ざして会話しなくなるという人もいます。

コミュニケーションの得意不得意と、会話をしなくなってしまうこととは全く異なるのです。そんな危機的な状況が親子の間にも沢山起きているのです。

子供の方からは、所詮親に何かを言ったとしても絶対に分かってくれないし、場合によっては否定されることにもなるので、口をつぐむことになるのです。

逆に親が子供に怒る場合の一つの手段として、子供に対して叱るどころか何時間も時には何日も口を開いてくれないというケースもあります。

黙ってしまうことからは何も生まれては来ないどころか、人間関係が破綻してしまうことだってあり得ます。

そうしたことが心の病みからやってくることを理解して、とにかく口を開くというところまではできるように癒していくことが大切ですね。

「ケアマネ」気質について

昨年末から母親が老人ホームに入居してくれたおかげで、自分の部屋で夜を過ごすことが戻ってきました。

ついでに、テレビの大画面でNetflixを観たりすることもできるようになりました。それまでは、階下で何か音がしたら階段を駆け降りていったので、映画を楽しむことも難しかったのです。

今ではテレビからの音をスピーカーから出さないようにして、代わりにヘッドホンに送ってまあまあの大音量で楽しむこともできるようになりました。

自分以外の何かを気にしなくていいというのは、とても安らぐことができますね。そんな自分勝手な私には、到底ペットを飼うなんてできない相談なのです。

ペットが可愛いのは間違い無いのですが、その世話を焼くというところにエネルギーを使うのが苦手なのです。

ペットショップのウインドウの向こう側で遊んでいるワンチャン、にゃんこちゃんたちの姿はまさに釘付けになるくらい可愛いのです。

けれども、世話を焼くことができない自分には彼らを飼う権利もないなと思って、飼うことを諦めています。

人や動物の世話をあれこれと上手に焼ける人がいますが、私からするとそれはもう立派な才能だなと思うのです。

世話焼きの人のことを私は「ケアマネ」気質と呼んでいるのですが、それを防衛のために使うと辛い人生になるけれど、好きなことに使うならそれはそれで楽しい人生にすることができるでしょうね。

マインドは両方を持っている

私は人の内面のことをマインドと表現していますが、皆さんは人の数だけマインドの種類があると思っていませんか?

確かに、さまざまなクライアントさんとのセッションにおいて、全く同じ内容のセッションをしたことは一度もありません。

それは、クライアントさんの持っているDNAと生育環境が全て異なっていたことによるものです。それだけマインドの「見え方」に違いがあるのです。

けれども、それはマインドの仕組みや働きが違うということではありません。あらゆる人間のマインドの仕組みは全く同じなのです。

違いは表面的な部分だけ。不安でたまらない人もいれば、それほど不安を感じないという人もいます。嫉妬深い人もいれば、嫉妬深くない人もいます。

そのような違いは仕組みからやってくるのではないのです。ここまで理解できたら、自分はこうだと決めつけるのは間違いだと気づくはず。

自分は嫉妬などしない、自分は他人と自分を比較しない、自分には怒りなどない等々。その言葉がその人のマインドの一部(一方)しか見てないことを物語っているのです。

マインドは常に両方を持っているのに、ただ自覚できる部分だけを見て隠された部分があることに気付かないだけなのですね。

もしも好きがあれば嫌いも必ず隠し持っているのです。それを知らない人は、好きな人のことを急に嫌いになって驚いてしまうわけです。

どれほど明るい人でも暗い部分を持っているし、怒ったことがないような人でも怒りはあるということです。

マインドをしっかり見つめることができれば、自分のことを安易に一方的に決めつけたりしなくなるはずですね。 

期待 ≠ 愛 その2

昨日のブログで、期待は愛とは真反対であること、期待せずに生きることができれば至福に満ちた毎日になるということを書きました。

もう少し補足してみます。期待には、能動的期待と受動的期待の2種類がありますね。能動的期待とは、期待する側になるということ。◯◯してちょうだいの方です。

そしてもう一方の受動的期待は外からやってくる期待に応えようとすることです。どちらも至福からは程遠い人生になることは間違いありません。

そして、その両方を同時にやってしまう場合、つまり自分に対して多大な期待をして、その期待に応えようと必死に頑張る人生。

こうした自作自演の人生を生きている人が沢山いるのです。これがどれほどバカバカしいことか、本人は一向に気づかないのです。

なぜなら、それこそが素晴らしい人生を手に入れる唯一の方法だと信じて疑わないからです。一度立ち止まって、ちょっと考えればすぐに分かることです。

自分に対する期待値が高ければ、それだけ背伸びをしなければならないし、その期待値と現実の自分との落差に自己否定ばかりがやってくるのです。

それはとても惨めな毎日になるだろうし、いつまでも満足することができずに悔しい思いをして人生を終わらせることになるのは間違いありません。

この無限地獄から抜けるためには、高い期待値を自らに設定する本当の理由を見つけることです。それはたった一つ、このままの自分ではダメダメだという間違った思い込みのせいなのです。

そのバカバカしい思い込みに気づいて、それをドブに捨ててしまえば、高望みの原動力が潰えるので自然な生き方が戻ってくるのです。

自分のままではダメだという存在否定の根っこに気づいて、それを癒していくことで人生の風合いは変化していくはずですね。

期待 ≠ 愛

osho の言葉で、「至福に満ちた人とは、期待せずに生きる人、ただ生きる人、…」というのがあります。

期待せずに生きるようになれば、自ずと至福に満ちた毎日がやってくるということですが、それは自我ゆえにとても難しいのです。

不可能と言っても過言ではありませんね。なぜなら自我は欲望を糧に生きているからです。期待=欲望だとしっかり理解することです。

なぜだか欲望というと否定的なニュアンスになりますが、期待というと肯定的な雰囲気が出てくるのです。

それで期待することはいいことだ、期待されることはもっと素晴らしいことだという間違った解釈が生まれてくるのです。

欲望が純粋な愛ではないことは分かるのですが、期待は愛だと勘違いしているのです。けれども、期待が愛ではないことは明白です。

あるアスリートを応援していて、優勝して欲しい!と願うわけですから、欲望な訳です。言い換えれば、優勝してちょうだい!となります。

応援して何が悪い?という声が聞こえてきそうですが、良い悪いということを言いたいのではなく、そこには愛はないよということ。

愛は◯◯して「ちょうだい」という言葉とは正反対です。溢れてくるのでそれを外側に向けて放つこと、それが愛なので期待とは真逆です。

これでもう分かったと思いますが、人に対する期待、自分に対する期待、誰かの期待に応えようとする、そのどれにも愛はないことを忘れないことですね。

「思考」ってなに?

以前あるクライアントさんから質問された内容が衝撃的でした。それは、「思考って何なんですか?」というもの。

衝撃的というのは、あまりにも身近なものだから当然分かっていると思い込んでいたのに、いざ問われたら全く答えられなかったからです。

セッションの中で私が幾度となく「思考」という言葉を使うので、そのクライアントさんは正直に質問してくださったのでしょう。

それ以来、私の中では「思考」とは一体何なのだろう?どんな現象なのだろうというのがずっと残るようになりました。

このブログでも、数少ないボキャブラリーの中で「自我」などの単語に続いて頻出している単語の一つが「思考」だと感じています。

それほどまでに繰り返して使っている言葉なのに、その実態が一体何なのかは本当は説明できないということですね。

思考が波動だということは何となく理解しているのですが、これほどまでに思考に飲み込まれて生きていることが不思議でたまりません。

このブログの文章を書くときも、思考が動いています。思考がなければ、言葉を表すことはできないのですから。

疑問は疑問のままにしておくという最近の態度があって助かっています。一つだけはっきりしているのは、思考から離れているときは間違いなく爽快で自由で自然だということですね。

簡単な瞑想メソッド

瞑想には興味を持っているのだけれど、どうも実際にやるとなると何だか億劫な気がしてイマイチ本気になれない、こんな人が多いのではないでしょうか?

あるいは目を閉じてただじっとしていても、それが本当に瞑想になっているのかどうかが不安で、長続きしないという人。

瞑想をやり続けないさまざまな言い訳があるものです。私が思うに、瞑想が好きという人もいるかも知れませんが、それは少数派でしょう。

なぜなら原理的に見れば、自我にとっては苦手であるはずだからです。自我は常に刺激を欲しているからです。

外部からの刺激あるいは情報を受け取って、それを処理することで生きているのです。もしも外部からの情報が断たれたら、内側で思考を働かせて処理を継続するのです。

だから目を閉じてしかも何も考えないという状態は、自我にとっては窒息するような感じがして長続きしないのです。

結果として、瞑想が苦手というのは当然のことだとまずは理解すること。その上で、大上段に構えずに次のような方法を試してみてもいいと思います。

まず軽く目を閉じます。すると、それまで見えていた自分の身体の画像が消えてしまいます。その状態で自分の身体があるかどうかを証明できないことを認めるのです。

その次に、身体から切り離された自分に残っているもの、例えば自分の名前や国籍など。この状態でそういったものは全く役に立たないことを感じるのです。

そうやって身体も記憶も無くした状態で、自分が誰だか不明な、ただそのままのあるがままの状態でしばらくいてみるのです。

それだけで非日常性を少しだけ味わうことができるかも知れません。目を閉じて、自分が誰だか分からない、たったこれだけでもいいのです。

こういった経験を繰り返すことで自然と瞑想状態になっていくはずです。無理に思考を止めようとする必要もないので、是非実践してみてください。

どんな人生だってOK

若くて健康な人には響かない言葉かも知れませんが、人はいつだって死ぬ可能性を抱えながら生きているのです。

であるなら、もうまもなく死を迎えるときがやって来たとして、あなたの人生はどんなものだったかと聞かれたらどうでしょう?

総じて良かったんじゃない?と気楽に答える人もいれば、辛く惨めな人生だったと答える人もいるかも知れません。

あるいは、この人生に悔いなし!と断言する人もいれば、もっと◯◯すればよかったと後悔を口にする人もいるでしょう。

私は個人的にはどんな人生であれ、そこに間違いというのはないと思っています。善悪もないし、成功も失敗もないのです。

ただ生まれ、ひとときの人生を生きて、そして死ぬ。これだけです。無からやってきて、また無へ帰る。その間の夢のような出来事が人生です。

だったら何だっていいんです。生真面目に生きるのもよし、破天荒に生きるのもよし。明るく爽快に生きるのも、グダグダに生きるのも全てよし。

人の数だけ人生のバリエーションがあって、その全てを全体性は見守っているのです。どんな人生も誇れるものはないし、卑下するものもない。

価値判断も意味づけも一切が死と共に消失してしまうのですから。これが腑に落ちると、あらゆる人々の人生が愛おしく感じられて不思議な感じがします。