素粒子の不思議な振る舞い

私が子供の頃は、どんな物質も原子からできていて、その原子は更に中心にある原子核とその周りをグルグル回る電子とでできていると習ったのです。

子供心に何となく太陽系に似ているなあなんて思ったのを覚えています。物理学が進歩した今でも、その原子モデルは決して間違ったものとはなっていません。

けれども、原子よりもさらに小さな素粒子を扱う量子力学の世界では、原子核の周りを電子は回っていないのです。

電子は原子核の周りを覆う靄(もや)のような姿のモデルとして現されているのです。この違いは決定的です。

なぜその二つのモデルがあるのかというと、電子は観測された時にだけ粒子となって原子核の周囲のどこかに位置することになるのです。

観測されない電子は、波動として原子核の周囲に、ある確率として存在するということです。これが素粒子の特徴なのです。

これは電子に限らず、その他の全ての素粒子にも当てはまる不思議な振る舞いなのです。この世界の全てが素粒子からできているのですから、次のことが言えるのです。

つまり、誰かに観測されて初めてこの世界は確定するということ。観測されずにいる間は単に波動として存在するだけなのです。

また最近の実験によって、人が念じることで素粒子の振る舞いに変化が起きるということも実証されています。これは本当に驚くべきことです。

このブログで時々話題にしている引き寄せやエネルギーの法則のようなものも、その一部であれ量子力学の分野で今後証明される日が来るかも知れませんね。

自我のおかげで意識が目覚めた

私たち人間が他のどの動物とも異なる凄いところは、自分とは何か?という問いを持つことができるところです。

その問いはどのようにして生まれるのかというと、当然のことですが「自覚」によってであることは間違いありません。

自覚というのは、自分という存在に気づいているということです。それを自我と呼んでいるのは周知の事実ですね。

その自我の自覚とは、意識が少しだけ目覚めているという言い方もできるのです。ただし、全意識のうちのほんの数パーセントだけ。

残りのほとんどの意識は無意識状態、つまりはぐっすり眠りこけているということです。この部分は他の動物と同じなのです。

自我が生まれる仕組みは、元々備わっていた能力によるものではあるのですが、ただそれだけでは決定的に足りないものがあるのです。

実は、自我を持っている親などに密着して育てられることでしか、自我は生まれては来れないということです。

では思い切り歴史を遡って、自我の始まりはどうだったのかを考えてみると、私の想像力を超えてしまうようで、思考停止が起きてしまいます。

いつもこのブログでは、自我がコテンパンにされているようなので、実は自我のおかげで自覚を持つこともできたし、意識も少しだけ覚醒できたということをお伝えして、自我の名誉挽回を試みました。

マインドは決して救われない

マインドの仕組みを深く理解したなら、マインドが救われる方法はないという絶望的な結論に到達してしまいます。

なぜならマインドは常に動き回る空間を必要としているからです。動き回るためには、何らかの目標が必要となるのです。

そうやっていつも、今この状態は不満足だけれど、いずれは満足することになるはずだという未来への期待で生きているのです。

ところがその望みが手に入ることは決してないのです。それは、osho が言うように地平線を見てそれを目指してどれだけ進んでもそこに到達できないのと同じなのです。

100歩譲って望みが叶ってしまったとしたら、もう行くべきところがなくなり、見つけるべきものがなくなり、なるべきものもなくなってしまうのです。

そうしたら動き回ることが不可能となって、じっと停止した状態でいなければならなくなってしまうのです。

それをイメージすると、私の自我はひどい閉塞感に苦しめられるのです。身動きができずに息もできない無限地獄にいるみたい。

これは自我とマインドの死を意味します。これで分かると思いますが、自我(マインド)は常に動き回って不満足を継続させるか、あるいは死ぬしか方法がないのです。

ただし、あなたは救われる方法が一つだけあります。それは、自我(マインド)から解放されることです。本当の自分に気づけば、初めから救われていると分かってな〜んだと言うことになるのでしょうね。

毒出しのサイン

少し古くなったようなものや、生モノに軽く当たった時には、お腹を壊したり吐いたりして身体は自動的に毒を外に出そうとしてくれますね。

そんな時には、私の場合両手が少し痺れたような感じになるのです。大量に解毒しなければならない時には、激しくジンジン痺れてしまいます。

ひどくなると両手だけではなく、両脚や頬などにもその痺れがやってきたりします。それがなぜなのかは、医学的には素人なので分からないのですが。

けれども、セッションにおいてクライアントさんがかなり強めに感情を解放した後などには、同じような痺れがご本人の身体にやってくるのです。

そういう時には、セッションが終わってもすぐには歩けそうもないので、まずはゆっくりとトレイに行ってもらいます。

ご本人は大丈夫帰れます!とは言ってくれるのですが、トイレまで歩いて行けなければ帰れないですよ、と伝えます。

そのうちには、痺れはゆっくりと引いて行って何とか帰ることができるようになります。そんな感じで、私にとって手足の痺れは毒出しのサインなのです。

みなさんも同じような経験をされたことはないですか?人間の身体の不思議ですが、毒出しした後は爽快な感じになるか、ぐったり疲労するかのどちらかになるようです。

自分をコントロールしようとしない

私たちは、自分をもっともっと改善していきたいと思っているのです。なるべく怒らないようにしようとか、一度決めたことは守れるようになりたい等々。

つまりは自分をどうにかしてコントロールできるようになりたいと願っているのです。だからできなかったことができるようになっただけで、すごく嬉しかったりするのです。

けれども、自分で自分をコントロールできる部分なんて、ほんの表面的なところだけなのです。根本的な部分については、ほとんどがアンコントローラブルなのです。

例えば、自分の否定的な自己イメージを変えようと頑張ってもそう簡単に変わるものではありません。

あるいは、毎日1時間くらいの瞑想をしてできる限り静寂の中にいられるようにする、そう決意したところで現実は思うようにはいかないのです。

大切なことであればあるほど、自分を思い通りにコントロールすることはできません。このことに気づく必要があるのです。

ではどうしたらいいのか、それは発想を転換してマインドを見守る側になるということです。仏教用語で言えば、観照するということです。

マインドを観ることでマインドとの距離が作られ、傍観者の立場になるのです。逆に当事者意識がゆっくりと小さくなっていくのです。

マインドをコントロールしようとすれば、それ自体がマインドの一部になってマインド全体が強くなってしまうことに気づくこと。

直接マインドをコントロールしようとすることなく、ただ観照することこそがマインドのパターンから解放される唯一の方法と知ることですね。

幸せな人生 or 気づきの人生

私たちは誰もが自分の願いを叶えて幸せな人生を生きたい、そんなことをざっくりとした目的として毎日を暮らしています。

中にはそれに対して真っ向から反対意見を述べる人もいるかも知れません。世界平和のためとか、他者の幸せの為に生きるという人もいるでしょう。

いずれにしても人の幸福というものを、それがどう言うものかをあまり追求することなくただ漫然と幸せを求めているのです。

それはそれでいいのですが、そう言うものとは少し違うものを求める人がいるのも事実です。それは幸せを求めないと言うもの。

なぜならそのような人たちは、幸せとは一過性のものでしかないと言うことを理解しているからです。

人生には何が起きるか全く分からないので、自分に都合のいいことばかりが起き続けるなんてことはないと知っているのです。

だとしたら、そう言う人々はどのように生きようとするのか?それは何が起ころうともそれを糧にするような生き方です。

つまり、自分にとって都合のいいことが起きればそれを単純に喜び、逆に都合の悪いことが起きれば、そこから大切な気づきを得るようにするのです。

幸せを求める代わりにそういった気づきの人生を生きようとするわけです。一挙両得で、なかなか抜けめない賢い生き方だと思いますね。

私はそちらの生き方を選択したいと思っています。

惨めさがカギ

私たち人間、つまり自我にとって一番認めたくないのは、自分は惨めな存在だという思いです。みなさんは、惨めさから何を連想されるでしょうか?

哀れだし、情けないし、無力だし、生きてる価値がない等々。こんな劣悪なイメージを大切な自分自身に対して持っていたら、とてもじゃないけれど安心して生きていくことなどできません。

だから人はできるだけ惨めさから遠い存在になろうとするのです。つまり自分は惨めじゃないということを何とかして証明しようとするのです。

その頑張りと努力の連続こそが人生というわけです。少しシンプルに表現し過ぎてしまいましたが、それほど間違ってはいません。

都度惨めさを観ないで済むように、マインドにはある仕掛けがあるのですが、それは怒りです。惨めだという思いがやってきそうになると、間髪を入れずに怒りで蓋をするのです。

本人としては、怒りだけを感じるので惨めさは見えなくなります。けれども、惨めだという思いがなくなるわけではありません。

そのため、怒りの下には惨めさからやってくる悲しみが蓄積することになるのです。このことは、怒りをしっかり感じると最後には悲しみがやってくるということでも分かります。

怒りをしっかり味わってからその下に隠された悲しみを味わうのか、それとも怒りは脇に置いておいて直接悲しみを味わうのか、私はどちらでもいいと思います。

ただし怒りそのものを長いこと抑圧してきてしまった人は、やはりその怒りをまず初めに味わってあげる必要があると思います。

いずれにしても、自分の惨めさから一歩も逃げずに、それは単なる思考であると気づいて、怒りや悲しみを味わうことで、癒しが進んでいくのです。

このことを忘れずに、実践していくことですね。

自我の仕組みを理解する

生きることのあらゆる苦しみというのは、期待することからやってきます。表現を変えれば、欲望とも言えます。

期待(欲望)すれば、そこからいくらでも地獄がやってくるし、それをなくせば今度は天国がやってくると言う寸法です。

ところがそれをなくすことが物凄く難しい。ほとんど不可能と言ってもいいのです。なぜなら、自我がそれを手放そうとはしないからです。

期待をしっかり握りしめたままで、周りを変えようとばかりするのです。たまに期待通りになることもあるので、次もやめられないのです。

全体は自我の期待など全く関知していません。我々がこうなって欲しいとどれほど願ったところで、それが聞き入れられる保証など皆無なのです。

それが分かっているはずなのに、やっぱり期待してしまうのです。このことからも、自我が決して満たされたいとは思っていないことが窺い知れますね。

自我はユートピアなど求めていないことは明白です。そのことをしっかり見抜くことが絶対的に必要です。

自我のやり口を見守ることができれば、それに飲み込まれずにいる方法も分かってきます。そして自我は見守られれば、エネルギーを失っていくのです。

逆に自我に乗っ取られてしまうと、自我は活性化していつまでも自分を苦しめ続けることになるのです。自我にとってはそれが安泰だからですね。

こうした仕組みを深く理解することができれば、自然と期待も自我も小さくなっていくことになるのです。

全体へと溶けていく

自我というのは普通であることを嫌うものだということは、以前このブログで書いたことがあります。

普通というのは、多数派の中に潜り込んでしまい自分の存在が曖昧になってしまうのです。自我はそれを恐れて、極力その反対を目指すわけです。

つまり、自我の願いはいつも「特別でありたい」、これですね。特別であれば、自分の存在感がはっきりと際立つので安心できるのです。

特別であるためには、平均的なものではなくて、その反対である極端さを好むのです。できればポジテイブな方の極端を求める気持ちは分かります。

その特別さと関連して、他者と比較して自分の優越性を感じたり誇示することも、自我としては特に欲しているものですね。

ところがその優越性に目が眩んでいる自我は、必ずその反対の劣等生を受け取ることになるのです。その二つは二元性におけるペアだからです。

逆に言えば、劣等生を隠し持っているからこそ優越性を求めることになるのです。ここで仏陀の中道の格別の安定感を感じるなり想像するなりしてみて下さい。

両極端から最も遠い真ん中こそが本当の非二元の状態であり、究極の普通さはそこにこそあるのです。

ど真ん中の普通の状態、中立でいることで、自我はどうにももたなくなって全体へと溶けていく、そのイメージが大好きですね。

異質な世界を見る

昨日の朝起きて、出かけるまでののんびりしていた時間に、ふと思ったのですが、この部屋には空気が充満していてくれると。

地球上基本的にはどこへ行っても呼吸するのに困ることがないって、なんだかとても恵まれているなという感覚。

そこから芋づる式に、このベッドも誰かが作ってくれたもの、この部屋も大工さんなりが建ててくれたもの、このテレビは誰かすごい人が開発したもの。

どれほどの人々の知恵と努力が積み重なっているのか。クルマで出かけるなら、優秀な人たちがそれを開発してくれた。

道路を計画して整備してくれた人たちのおかげで、スムーズに目的地まで走れる。信号の絶妙なタイミングがすごい。

このようにして、とんでもない数の人々の叡智によって自分の生活が支えられていることに、今更ながら驚くしかありません。

その後何が来たかと言うと、全てが素粒子でできていて、そのレベルで見るとほとんどが空間であり、原子同士もスカスカなのです。

そうしたら、自我がこれが自分だと信じているある一まとまりの存在など、初めからないなという感覚になりましたね。

境界がないという感覚。しばらくそれに浸っていたら、家人から慌てた様子で急ぎ?の質問をされて、普段の自分に戻されてしまいました。

人間て、環境が全く変化しなくても自分のマインド内の考えが変化するだけで、全く異質な世界を見ることができるのですね。