今を思い切り楽しむ

私は普段買い物をする時にはどんな少額でもクレジットカードを使うのですが、決まって何回払いかを聞かれるのですが、あれかなり鬱陶しいです。

クレジットの意味は元々信用の意味なので、ローンという考えが前提で作られたのでしょうから仕方がないとは思うのですが。

私は単に小銭のやり取りをして手を汚したくないということと、レジでもたつきたくないだけなんですけどね。

幸か不幸かこれまでの長い人生の中で、ローンを組んで何かを購入したことがないので、そういう発想すら持っていないのです。

何か欲しいものがあってもその瞬間に手に入れることが不可能ならば、それ以上考えないというのが身についているのです。

欲しいな欲しいなと思ったとしても今は無理と考えてしまうのです。そしていつかそれが手に入る時期が来たら買おうと。

それなのに世間では、どこの誰が考え出したのか知りませんが、ローンという手があるのですね。天才的な手法だと思います。

そのおかげで高額なものでも誰でも手に入れられるのですから。ただ私としては、自分が生きているかどうか分からない未来まで支払いが続くというのが考えにくい。

こんな私のような発想の人ばかりだったとしたら、きっと経済は今のような発展を遂げてはいなかったでしょう。

ただローンを払うのは未来の自分に任せて、今手に入ったものを思い切り楽しめばいいという考え方もありですね。

自我は「私」の練習台

私にとって最も理解に苦しむのは「思考」の存在であり、その思考が生み出した「自我」と言ってもいいと思っています。

この自然界の中で、一体全体思考とは何なのだろう?と思わざるを得ないのです。一つのエネルギーの形態だと言えなくもないのですが。

この宇宙を形作っている物質は、すべてエネルギーの一つの形態であるということは、あの有名なアインシュタインの E=mC2 として知られています。

エネルギーの大きさは、物質が持つ質量に光速の2乗を掛けたものなので、たとえ小さな砂粒一つをエネルギーに変えるとしても、とてつもないエネルギーになるということですね。

エネルギーというと一般的なイメージは何らかの力、パワーを思い浮かべると思うのですが、思考が単なるパワーとは思えません。

話しを元に戻して、自分がイメージしているこの自然界に思考が存在するというのが不思議というか、どうしても違和感があるのです。

そしてその得体の知れない思考から、もっと不可思議な自我が作られたのですから、これはもうその驚きは表現のしようもないくらい、奇跡的なことだとも言えます。

ただその自我が生まれたおかげで、人類だけが擬似的な「私」を体験することになったわけです。これこそが覚醒への唯一の道なのだと。

なぜなら、唯一「私」を名乗れるのは私たちの本質である純粋な意識だけだからです。その「私」は勿論全体性のことであって、個人ではありませんが。

受け身の存在として在る

誰でも一度や二度、人生とは一体何のためにあるのだろう?と考えたことがあるのではないでしょうか?

特に若い頃というのは、自分の人生が今後どうなっていくのか不安だったり、やりたいことが見つからずにあれこれと迷ったりすることがあるはず。

年齢に関わらず自分の人生の目的が分からないという人もいて、それを知りたいという目的でセッションに来られる人もいます。

かく言う私も、ずっと自分は何がしたいのかが分からずに生きてきました。だから確たる目的を持って生きている人が羨ましかったです。

けれども、人生に目的があるとすると、つまり何かを達成するために人生を使うとすると、人生を手段として捉えてしまうことに気づいたのです。

それがどうもしっくりこないというか、腑に落ちない気がして。その後ようやく、人生というのはそれ自身が手段でもあり目的でもあるということに気づいたのです。

自我(思考)というのは、どうしても目的志向になってしまうため、手段と目的が一つであることが分からないのです。

自分がいてそこに人生があるのではなく、自分自身も生の一部であることを知ればいいのです。そのためにはoshoの言葉に耳を澄まして、あるがままでいることですね。

ただそこにいなさい、受け身の存在として
自分をひらいて
耳を澄ましながら
ただ見ている
何も考えることなく–

永遠に今この瞬間にただ在る

自我として生きている私たちは、普段はいつも時間の流れを感じながら生活しているのです。何かに没頭したり熱中しているときはその限りではないですが。

時間の中にいると思えば、たとえ1秒前でもそれは過去になるし、たとえ1秒後であってもそれは未来になるのです。

そう考えてみると、過去と未来しかないように見えますね。つまり、ちょうど過去と未来の境目である今この瞬間は、まさに瞬間でしかないのです。

それなら過去か未来にばかり思考が行ったり来たりしてしまうのも尤もなことだと分かります。じゃあどうすれば、その境目の瞬間にいられるのか?

直立した三角形の頂点にボールを静止させておくのがほぼ不可能なのと同じような気がします。どちらかサイドに転がり落ちるのは明白です。

けれどももしも重力の影響下から抜け出したなら、頂点にボールを静止させておくことは可能だと分かります。

それと同じことなのです。今この瞬間という現在とは、実は時間の仲間ではないということ。ここに気づく必要があるのですね。

時間とは思考によって考案されたものであるので、重力から抜けたのと同様、思考から抜けてしまえば今この瞬間だけが残るのです。

つまりは深い瞑想の中に入っていけばそれだけ時間は消えて、今この瞬間だけが全てとなるわけです。没頭や熱中も同じこと。

そして時間が消えてしまえば、時間が止まるということもなくなってしまいます。永遠に今この瞬間にただ在ることになるのですね。

あなた自身であればいい

ある特定の目的を持った場合には制服というのもあった方がいいと思うのですが、一般的な毎日の暮らしに制服を指定されるのはどうかと思っています。

あるいは制服があってもいいけれど、着たい人が着ればいいし、着たくない人はその限りではないというのがいいですね。

私自身は中学生の3年間だけ学生服を着ていて、それ以外で服装を規制されたことが一度もないので、それが当たり前だと思っているのかもしれません。

日本の教育というのは、制服でイメージされる平均的な人を作り出す、あるいは満遍なくそつなくできる人、飛び抜けていなくていいという感じだったと思います。

きっとそれはもう過去の話しであって、今では本人の得意分野を延ばしてあげようという教育に変化してきたのだろうと。

私もそれには賛成ですが、それよりももっと大切なことがあると思っていて、それはやはり期待しないことです。

昨日のブログで愛と期待は裏腹だということを書きましたが、期待は欲望と言い換えることができると分かれば、当たり前のことだと気づきます。

セッションで向き合うクライアントさんに対して、どんなことも期待することはないと断言できますね。

たった一つだけ、あなたがあなた自身であって欲しいということです。そうすれば、あらゆる苦痛から解放されて、より自然で自由な人生を取り戻すことができるからです。

愛は欠点を消してしまう

あなたには大切な人がいますか?大切ということはきっと愛しい人なのだと思います。愛している人ということです。

ただどんな人であれ、欠点と思われるものを持っているはずですね。そこがなくなってくれたらもっと好きになれるのにと考えたりしませんか?

そして密かに変わって欲しいと願うのです。あるいはそれを隠さずに相手に伝えるかもしれませんが、なかなか期待通りにはならないものです。

期待が大きければそれだけその愛には不純物が含まれているということ。なぜなら愛は期待とは正反対のところにあるからです。

そんなことをつらつら考えつつ次のoshoの言葉を読むと、何かが深く刺さりますね。特に最後の一行が好きです。

“もしあなたがひとりの人間を愛していたら
あなたはトータルなその人を受け容れるものだ
あらゆる欠点を含めて
そうした欠点もその人の一部なのだから
しかし、愛にはそれを変える力がある“

なぜ愛にそんな力があるというのでしょう?私が思うに、そもそも愛は相手の欠点を欠点とは見ないというのがあると思います。

そしてもう一つ、愛のエネルギーが相手を包むことでその人の防衛が小さくなって、その人自身の愛が開花するようになるからです。

明らかな欠点というのは、そもそもが防衛によって作り出されるものだからです。人間本来の存在には欠点などないはずですね。

役柄を演じ切る

優れた俳優さんは、与えれらた役柄を徹底的に演じ切ることができるのです。その役柄が好きとか嫌いとかあったとしても、それで演じ方が変化することはありません。

その役に成り切って没頭することで、大きな満足感を得ることができるのでしょうから。そこに満たされた生き方へのヒントがあると思っています。

私たちは誰もが自我という役柄を与えられています。ところが本当の自分のことを忘れてしまったがために、役どころと一体になってしまったのです。

その役を演じていることを忘れてしまい、要するに同化してしまったわけです。そうなると、役柄そのものを批判し始めるのです。

もっとこうだったらいいのにとか、なんで自分は他の人よりも◯◯なのだろうとか、とにかくその役柄のあるがままを認めようとはしないのです。

さらに言えば、その役柄から飛び立って別の役柄になろうと必死になったりするのですから、これでは死ぬまで演じていることを思い出せないままになってしまいます。

清々しく生きるヒントは、どんな役柄であろうとそれをありのままに知ることです。理想と照らし合わせるのではなく、判断せず、咎め立てせず。

そうやって、役柄を深く理解することで結局は本来の自分のことも思い出すことになるのでしょうね。

必要とされたい願望

誰の人生であろうとみんな同じように、自我のない純粋無垢な状態からスタートするのです。自他の区別もないいたって無邪気な頃ですね。

それが自我の芽生えと共に少しずつ自他がはっきりして、自分のことは自分で守らねばという自己防衛の火蓋が切って落とされるのです。

他人に囲まれた自我は、自分の存在を明確にしておきたくて、自分の存在を特別なものだと思いたいのです。そのために、必要とされたいという強い願望が生まれます。

必要とされることによって初めて、自分の存在を認められるからです。逆に言えば、誰からも必要とされない自分ほど惨めなものはありません。

こうした路線は放っておけば、人生の最後まで続くことになるのです。けれども、このような生き方がどれほど馬鹿げたものかに気づいていく人もいます。

必要とされることは、便利で都合がいいということであって、そこには愛がないとはっきり気づけばいいのです。そうなれば、その路線から抜け出すことも可能になるのです。

この世界は自分などいなくても成立するし、自分なしでもうまく存続するに決まっているのです。そしてそれはそういうものです。

そこにはどんな問題もありはしません。結果、競争も不要になるし、自他という間違った分離感からも距離ができるのです。

自我は小さくなって、まったく異なる人生の風合いに目覚めることになるのでしょうね。

受容は無条件

受容する、受け容れるという言葉について考察してみると、かなりそれ自体に自己矛盾を孕んだ言葉だなと思うのです。

どういうことかを少し書いてみたいと思います。例えば、この程度の出来なら受け容れられるけれど、それ以下の場合は受け容れられない、という使い方があります。

あるいは、Aは受け容れるけれど、Bは受け容れないという場合もあります。このように、受け容れる対象と受け容れない対象があるのは、どういうことでしょうか?

それは、受け容れるという言葉は使ってはいるのですが、本当は許すとか許可するといった意味で使っているように思うのです。

テストの結果が70点以上なら合格でそれ以下なら不合格のような感じですね。他の表現を使えば、70点以上なら我慢するけどそれ以下なら我慢できないとも言えます。

本来、受け容れるということは受け容れたり受け容れなかったりという選択がない状態の時にのみ使える言葉なのです。

だから受け容れられるとか受け容れられないなどの可能性の要素が入ると、受容の本来の意味から離れてしまうのです。

受け容れるとはそもそも無条件でなければなりません。そしてもっと深く突き詰めてみると、受容するとは他動詞ではなく、自動詞であるはずです。

つまり目的語を必要としないものです。それは受容している状態を指すからですね。つまり本人の意志とは無関係のところにあるものなのだということです。

もしもあなたが自分のことを受容するなら、それこそどんな自分であろうとも受容していることを意味するのです。このことを深く理解しておくことですね。

無頓着のススメ

昨日のブログの最後の方に、◯◯に無頓着であるほうが却って◯◯に困らないでいられる、ということを書きました。

もう一度読み直してみて、随分と雑な言い方だったなとも思ったのですが、それでもある程度の真理をついているような気もします。

一般的な感覚からすると、無頓着というのはあまりいい意味では使われないように感じるのですが、本来の意味は頓着しないということです。

辞書によると、頓着というのは「心にかけること。気にすること。あるいは深く気にかけてこだわること。執着すること。」とあります。

要するに、「頓着=執着」であると捉えるならば、無頓着=無執着ということになって、それはエネルギー的には清々しい気がします。

一度でも執着してしまうと、そこには必ず不安がやってきて、闘うエネルギーも引き寄せてしまうのです。

執着が不自由を引き寄せてしまうことも容易に理解できますね。ということは、無頓着=自由ということも言えるはずです。

なるほど、だから無頓着でいることは気持ちがいいのですね。ただ、こだわりの◯◯なんていうのもあって、それはそれで自我にとっては魅力的なのです。

こだわる気持ちも大切と思って生きるのか、あるいは無頓着を是として生きるのか、あなたならどちらに軍配をあげるでしょうか?