自然に回帰する

自我というのは、とにかく何であれ手に入れたいという強い願望を持っています。その理由は、自分は足りないが根っこにあるからです。

足りないという思いからスタートしているので、それが満たされるまで、それを夢見てひたすら外側から手に入れようとするのです。

それが人生ですが、足りないものが足りるようになることは決してありません。だから人生ゲームに上りがないのです。

終わってしまっては、自我の推進力がなくなってしまうため、それは絶対に困るわけです。だから決して満たされては困るのです。

そんなシンプルな仕組みを理解しようともせずに、ひたすら馬車馬のように頑張るのです。このバカバカしいゲームにしっかり気づくこと。

どれほど努力したところで、結果は見えています。癒しというのはその反対の向きに気づいて実践していくことなのです。

つまり、外側から手に入れてきたあらゆるガラクタ、本人は宝物だと思い込んでいるかもしれませんが、そこから脱出すること。

要するに培ってきたものをなるべく使わないようにして、ウブな子供のようになっていくこと。不安は無くならないことを受け入れること。

そうやって癒されていくと、それまでとは全く違った世界が見えてきます。自分の自然な姿が見えてくるからですね。

身体との同一化を外す方法

かつて、「ミクロの決死圏」というアメリカのSF映画があったのをご存知でしょうか?今調べたら、1966年公開だそうです。

ある人の病気を治すために、医療チーム全員がものすごく小さくなってその患者の身体の中へ入って行くというものです。

宇宙船のような乗り物ごと極小になって、確か注射器の中に入って体内へと送り込まれるのだったと思います。

あるときは血管の中を白血球や赤血球を見ながら進んでいったり、抗体に異物だと思われて襲われてみたり。

人の身体の中での大冒険活劇なわけです。なんでこの話しをしたかというと、どうやったら身体への同一化を捨てられるかを考えていたからです。

私たちが、自分は身体だと思う時、一定の大きさの身体をイメージしているはずですね。いつもそばにあるこの大きさがカギです。

遠くから自分の身体を見たり、逆にこの映画のように近距離で身体の中を覗いたりできたとしたら、それでも同一化し続けられるのか?

イメージしてみると、ちょっと疑問な感じがしてきませんか?やっぱり、これが私だと言えるのは、意識だけだと感じる気がします。

もしも映画の中の患者が私であって、体内での様子をリアルタイムで見ることができたとしたら、そこに映し出されている身体の内側を自分だと認めるのは難しいと思いますね。

執着は理解を鈍らす

あなたが拳を握りしめようとすると、そこには必ず執着が生まれてしまいます。一度手にしたものを奪われたくないと。

執着が悪いというのではなく、それは理解を鈍らすということです。このことはあまり知られていないかもしれません。

私たちのマインドは執着をするようにできているし、誰であれ執着するメカニズムを持っているのです。

問題は、その執着する対象に対して、深い理解をすることができなくなるということです。執着によって目が曇ってしまうのです。

例えばお金に執着すれば、お金の本質を見失うことになるし、誰かに執着すれば、その人のことを理解することができなくなるのです。

勇気を持って、その人のことを見守ることができれば、執着は自ずと外れていくものです。だから手のひらを開いたままにしておくこと。

逃すものかと手を握り締めれば、その中を覗き込むことができなくなってしまいます。深く理解すること。

それを気付きと呼ぶこともできます。執着を意志の力で取ろうとするよりも、そのメカニズムを理解することで、それは消えていってくれるはずですね。