我々人間は、お母さんのお腹からオギャーと生まれてくるときには、本能として親に対する絶大なる信頼と無限の愛を与えてもらえると期待してやってきます。そこには、疑いや怖れなど微塵もありません。生まれた後、肉体的には母親と別々になりはしましたが、心の中では一体感を感じながら安心して生きているのです。
しかし、成長するにつれて、母親と自分は別の存在なのだということに少しずつ気づくようになっていきます。この段階において十分な愛で心が繋がっていると、親との一体感を持ったまま自立の道を進むことができます。ところが、なんらかの理由により愛で心が十分に繋がっていない状態でいると、親との間に分離が生じてきます。これは肉体的な分離ではなく、感覚的な分離です。
分離の正体は恐怖です。充分に愛を感じない状態のままだと、子供は恐怖の元で生きていくことになります。愛のない恐怖の状態から身を守るためには、親との間に更なる分離を作って危険を回避しようとするのです。この時に生まれる意識がエゴと呼ばれるものです。エゴは恐怖の中で何とか自分を生き続けさせようとするために、自分以外の存在との間に対立関係を作り出します。
エゴが頑張って何とか生きようとすればするほど、親との一体感が薄れていってしまいます。こうして、気づかぬうちに、心をエゴに乗っ取られたまま大人になっていくのです。エゴによって対立を作り出しているとき、人は孤立するために孤独感や恐怖、不安、絶望感、怒り、憎しみ、悲しみ、嫉妬、無価値感、無力感などあらゆるネガティブな感覚の中に突き落とされてしまいます。
この状態では、何を手に入れようとも地獄なのです。愛するパートナーが見つかったと思っても、時間とともにその偽物の愛の化けの皮がはがれたときに、対立している相手をそこに見出してしまうのです。沢山のお金や名声、地位、社会的な成功を得ることができたとしても、心は満たされません。それは一瞬の喜びや安心感、そして麻薬的な耽溺でしかないのです。エゴで生きているときは何をしても心底満たされるということはありません。そこには愛がないからです。
あなたはエゴで生きているでしょうか?それとも愛で生きているのでしょうか?実はよほど注意深く自分の行動や心のあり方を見つめていないと、自分は愛で生きているのではないかと勘違いさせられてしまいます。エゴは、巧妙な作戦を使いながら、愛で生きている自分に似せて、実はその裏でエゴが活躍できるように仕向けているのです。だから気がついたら自分の人生は何でこんなに辛いんだろうということになってしまうのです。
エゴはいつも目的志向なのです。例えば、誰かを助けたいという気持ちがあったときに、ここになんらかの目的があるとしたらそれはエゴの仕業です。本来の自分はただただ衝動的に助けたいのです。そこには利己的な何の目的もありません。溺れている人が目の前にいたら、間髪を入れずに助けようとするはずですね。そこには目的など一つもありません。それが人間本来の愛の姿だからです。
あまりにも急であるために、エゴが介入してくる時間がなかったために衝動的に助けようとすることができたのです。しかし、エゴが介入する十分な時間があったとしたら、助けたいという気持ちに目的が出てくる可能性があります。例えば、人を助けて自分はいいことをしたと思える、人からもいい人と思われるかもしれない。世の中の役に立って自分を認められる。あるいは、英雄になれるかもしれないなどです。
以前のコラム『役に立ちたい症候群』でお話ししたのもこれと同じエゴの作戦なのです。このようにエゴの存在を分かりづらくしてる理由の一つが、目に見える行動パターンだけでは愛ベースなのか、エゴなのか見分けがつかないというのがあります。
エゴのその他の特徴としては、愛の代わりに取引を使うというのがあります。ありとあらゆる人や物とのかかわりのすべての土台が取引で成り立っているのです。例えば、
-私がこれだけ愛しているのだから、あなたも私を愛してね
-誰のおかげで食わしてもらってると思ってるんだ、言うことを聞け
-これだけ努力して頑張ってるのだから、認めて欲しい
-いい子になるから、お父さんお母さん私を愛してね
-あなた約束を破ったんだから、ブランド品を買ってよね
-言いたいことを我慢して言わないでいることで、安心を得ようとする
-私はこんなにひどい目に遭ったといって、文句を言うことができる
このように書き出したらきりがないのです。生活のすべての局面で取引が行われていることになります。仕事をしてその対価を受け取る場合はどのように考えればいいでしょうか?そこにエゴがある場合には、文字通り労働に対する対価という位置づけとして報酬を得るのですが、愛の場合にはあまり対価をもらうという意識にはならないのです。
自分のやりたいことを興味を持ってさせていただいて、その上に報酬までもらえて嬉しいというのが愛ベースなのです。またエゴは取引ベースですから、そこにはなんらかの自己犠牲が必ず発生するのです。ボランティアなどをする場合に、何となく心が晴れ晴れとせずにどこかに自己犠牲を感じるとしたら、その活動はエゴがやっていることになります。
エゴは元々人との分離から発生するものですから、そこには必ず対立という状態が起こってきます。対立しているからこそ、愛が使えずにその代わりとして取引を使うことになるのです。対立している状態とはどんな気持ちでしょうか?対立は孤独を意味します。寂しい人とはエゴで生きている人です。他のすべての人と対立して孤独になっているエゴにとって、必要不可欠なのは他人から自分を守らねばならないと言うことです。
それはいつもビクビクしながら生きている不安な心の状態をも作り出すし、また対立する相手に常に敵意を持って向き合っている状態をも作り出します。エゴが勝敗にこだわるのはこのためです。エゴは絶対に勝たなければならないのです。勝たなければ対立する相手から自分を守ることができなくなってしまうからです。勝つためには、見下しやプライド、正当性など、私が心の鎧と呼ぶあらゆるものを総動員します。
エゴは対立する敵にぐるりと囲まれて生きているのですから、人の中にいて安心していられることはありません。すきを見せないようにいつも構えている必要があります。だから必然的に一人でいることが楽になって、出かけるのが億劫になったりします。ただし、孤独であるためその寂しさを紛らすために人と一緒にいたいという相反する気持ちをも持っているのです。
エゴは自分を守るために自分を被害者でいさせようと企みます。被害者でいることによって、対立する相手を加害者として責めることができるからです。そうやって対立関係をしっかり維持しようとするのです。エゴにとっての大敵は愛ですから、相手に対して常に敵対心を持っていられるようにすることで、自分を愛から遠ざけておく必要があるのです。
エゴを手放しているとき、人は愛で生きることができるのです。なぜなら、人は元々愛でできている存在だからです。エゴが活動している時、エゴは人との間に対立を作り出し、愛を心の奥に押し込んでしまうため、愛を使うことも感じることもできなくなってしまうのです。自分を守らなければならないと感じたとき、エゴは激しく活動しだして心全体を覆いつくしてしまいます。
しかし、また安全が確認されたら、エゴの力が緩んでその代わりに愛が活動を始めます。このように、心の中のエゴと愛はいつも状況に応じてその割合が変動します。人から愛されていると感じたときには、エゴは静まり心の中は愛で満たされてゆきます。しかし、人にエゴをぶつけられると、自分の中にいるエゴが一気に活動を開始してしまうため、エゴとエゴのぶつかり合いになってしまうのです。
このようにして、エゴはエゴの連鎖を生むようにできています。これが戦争の原因なのです。エゴは愛で接してもらうと参ってしまいますので、それを阻止するために自分と同じエゴを相手の中に誘発させるのです。クライアントさんとのセッション中に、クライアントさんのエゴに反応して私のエゴがうごめき出すのを感じることができます。放っておけばエゴに占領されてしまうかもしれません。そこから抜け出す一番いい方法は愛を使うのです。
自分の中に生まれたときから備わっている愛を信じることです。そこに助けを求めれば、必ず愛はエゴの罠から救い出してくれます。エゴを取るか、愛を取るかはその時その時の自分の選択にかかっているのです。しかし、長い人生の中で、どっぷりとエゴに操られて生きてきてしまっている人にとって、エゴに負けずに愛を選択することは至難の技かもしれません。
なぜなら、エゴは自分を孤立させてありとあらゆるマイナスの感情を摂取し、次第に自己増殖をしていく存在だからです。つまり、エゴのパワーの源はマイナスの感情のエネルギーなのです。長いことエゴ主導で生きてきてしまうと、エゴは強大なパワーを身に着けてしまうのです。だからこそ、愛を選択することがそれだけ難しくなってしまうのです。
愛を選択しようとしても、赤子の手をひねるかのようにいとも簡単にエゴに戻されてしまうのはこうした理由からなのです。ではどうしたらいいのでしょうか?エゴを手放して愛で生きない限り、満ち足りた人生を手に入れることは不可能です。それにはエゴのパワーを小さくすることがどうしても必要なのです。だからこそ、感情を味わうことが絶対に必要なのです。
よほどショックな出来事、例えば戦争や天変地異などによって日々の生活が根本から壊されるようなことでも起きれば、感情の開放をしなくともエゴから愛にシフトすることが可能になるかもしれません。それは極限まで追い込まれると、人の心の中にある愛に火が点いてエゴを使わなくしてしまうからです。人が追い詰められると癒しが始まるのはこのためです。
しかしそんな特別な事件を待っているわけにはいきません。やはり、エゴを支えているネガティブな感情を繰り返し味わって開放していくことが一番の近道なのです。あなたの心はエゴと愛のどちらがより主導権を持っていると思われますか?南の島の豪華なリゾートで、おいしいシャンパンを飲みながらプライベートビーチでくつろいでいても、エゴで生きていたら満ち足りることはありません。
逆に、罪を償うために終身刑で刑務所に服役している人でも、愛で生きているなら心は満ち足りているはずです。極端な例を示したのは、愛で生きることがすべての災いや病気、苦悩から救われる唯一の方法であることを分かって欲しかったからです。大切な自分の人生の残りをエゴで生きるか、エゴを開放して愛で生きるか、命がけで決意する必要があるのではないでしょうか?是非大切な自分の人生を救ってあげて下さい。