唯識論のこと

以前にも確か一度ブログに書いたことがあったと思うのですが、仏教哲学の思想の中に唯識論というのがあります。

到底誰かに説明できるような知識は持ち合わせていないので、内容については深く触れることはできませんが、その唯識のなかに「阿頼耶識」というのがあるのです。

この阿頼耶識という言葉を聴いた時に、不思議に初めて聴いた感じがまったくしなくて、変だなあと思ったことがあったのです。

言葉の既視感(デジャヴ)なんて実際あるのかなあと。学生の時か何かにどこかで聞き齧ったことがあったのかも知れません。

今回少し調べてみたら、唯識論というのは非二元と近いようなことを言っていて、この世は幻想だと。

世界のあらゆる現象は、究極的には意識の表れに過ぎないのだと。非二元と異なるのは、阿頼耶識にある情報が瞬間瞬間に表出するのだと。

そしてそこから得たフィードバックが阿頼耶識に返されて、瞬間ごとに阿頼耶識の内容がアップデートされるらしいです。

非二元はとことん正直な態度をとるので、そういった阿頼耶識のような普通に認識することのできないものはイメージとして却下するのです。

そして、表れについてはまったく理解不能としておくわけです。そこを何とか解決しようとして、阿頼耶識なるものを考え出した人々がいたということかも知れませんね。

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ただ視覚が起こっているだけ!!

私たちがモノを見る時に使う視覚ですが、それがどのように起きているのかを見てみると、大抵以下のようなことになると思います。

その大前提は、空間の中にモノがあるという世界観です。この世界観を否定する人はほぼいないはずですね。

そしてその空間の中に存在する自分という主体が、空間的に隔たった向こう側に存在する対象物を視覚を用いて捉えるということ。

これが見る、見えるということを意味するわけです。けれども、この大前提となる空間と物質という世界観を一旦脇に置くのです。

そしてどんな前提もなしに見えるということを探究してみると、視覚だけが勝手に起きているということに気付きます。

これにはどんな努力もいらないし、ただそうなっているだけなので、当たり前過ぎて気付けないのかもしれません。

ただ見えている、あるいはただそういった現れだけがある、あるいはそういう気づきだけがあるとも言えます。

だから、甚だ非常識に感じるかもしれませんが、視覚には主体も対象物も必要ないということに気づけます。

あるいは、視覚には空間さえもいらないのです。これは衝撃的な事実ですね。これを見抜けば非二元が身近になるはずです。

鏡の向こうの自分はこの自分ではない

最近年齢も年齢になってきたこともあるのかも知れませんが、鏡を見てこれが自分だとは到底思いえないというのがやってくるようになったのです。

特に時間のある時に、鏡に向かって至近距離から自分の顔を見つめると、どう考えても普段感じている自分自身の感覚とは違うなと。

ああ、これではっきりしましたね。普段これが自分だと思っている肉体というのは自分では決してなかったということ。

自分自身は、誰でもないという感覚が大きくなってきていて、特定の誰かではないということが分かってきているのですね。

それなのに、鏡を覗いてみると何やら疲れた若いふりをした老人の顔が見て取れるわけです。これは自分ではないとハッキリ分かる。

それでこの年齢になってようやく、鏡に写っている風貌をした人物は自分ではないということに気付けるようになるのです。

自分とは、形も大きさも何もなくて、ただその一部では個人としての自己だと思い込んでいるわけですが、それは作り物だなあと。

形も大きさもないということは、この空間のどこをどのように占めているということも言えなくなるわけです。

つまりは自分という個別の自己などどこにもいなかったんだなあとなるのです。この感覚が以前よりも増してきているなと。

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痛みや痒みの正体は?

その昔、父親が生きている頃に言っていた言葉があるのですが、それがとても面白いのでちょっと紹介します。

彼曰く、「蚊っていうのはバカだな〜、刺しても痒くならなければこれほどムキになって殺されることもないのに」と。

ああ確かになと思ったものです。顔のあたりをブンブン飛ばれるとうるさいので、嫌ではあるけれど、何よりも問題なのは刺された後のあの痒み。

だから、刺されてもただ皮膚が赤くなるだけであれば、それほど嫌われることもなかったはずなのです。

今身体のあちこちに湿疹のようなものができていて、痒くて仕方ないのですが、ちょうど蚊に刺されたときのような痒さなのです。

それで、ス〜としてその痒さを感じられなくする塗り薬のようなものを患部に塗布して、その痒さをしのいだりしています。

その時に不思議だなと思うのですが、痒みとスーッとする感覚を混ぜただけで、痒みを感じなくなるわけです。

その両方を感じても良さそうなものなのに。意外と脳というのはおバカなのかもしれませんね。そんな単純なことに騙されてしまうのですから。

とはいえ、スーッとする効果は大して長続きしないので、しばらくするとまた痒みがやってきます。そこで今度は、痒みの正体とは一体何なのだろうと考えるわけです。

痛みにしろ、痒みにしろ、その正体を突き止めた人は未だに誰もいません。私たちが日頃感じている感覚というのは、科学では脳が作っていることになっています。

けれども、それは本当のことでしょうか?私の考えでは、感覚をどこまで追及したところで、その正体を暴くことは不可能なのではないかと。

このことからも、非二元が浮かび上がってくるのですね。

一日一回リセットする

日々の生活のリズムというのは、一日活躍してそれなりの労働によって疲労した心身を、睡眠によって回復させるという繰り返しです。

もしも睡眠を取らなければ、数日で我々は病的な状態になってしまいます。ただ睡眠だけで、すべての疲労や負荷が100%回復できればいいのですが。

それができなければ、瞑想などを通してより深い回復の手続きが必要となるわけです。瞑想をすることで、身体のリラックスと同時に頭の中を空っぽにすることができます。

ここからが今日の本題なのですが、最近はあまり瞑想をすることもなくなった代わりに、非二元の感覚を利用するようになりました。

夜寝る前や夜一人で静かな時間を過ごしている時に、非二元に意識を向けるようにしていると、あっという間に頭をリセットできるのです。

瞑想と違うのは、瞑想は身体が先行してリラックスすることで、結果として頭も空っぽになるのですが、一方で非二元は身体は使わずに直接頭をからっぽにできるのです。

その時間だけは、無に帰るようにできるし、真実に触れることもできるのです。瞑想よりもよりお手軽に短時間でできるのがメリットかもしれません。

それに加えて、これしかないということの気づきによって、明日を心配したり不安に思うようなことが激減します。

何もないし誰もいないし、何も起きていない。ただこれだけがあることのシンプルさ、比べるもののないことの気楽さがやってくるということですね。

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「小さいおじさん」の正体!?

「小さいおじさん」って聴いたことありますか?一種の都市伝説的な話なのかどうかは分かりませんが。

私も以前小さなおじさんに会いたいなと思っていたことがあるのですが、これまで一度も遭遇したことはありません。

皆さんの中で小さいおじさんを見たことがあるという人がいたら、是非教えていただけたら嬉しいです。

人によっては、小さいおじさんというのは妖精なんだという人もいるようですが、それとは正反対のことをいう人もいます。

いわゆる餓鬼界に落ちた人の姿なんだと。餓鬼界というのは、あれが欲しいこれが欲しいという欲望に飲み込まれて生きていた人だそうで。

そういう人が餓鬼界にはまり込んでしまった姿の一つが小さなおじさんなんだと。なかなか面白い話ですよね。

人間の欲望というのは、本当に尽きることがなくて、何かを手に入れたと思えば、すぐに次のものが欲しくなる。

このループは果てることがありません。どこかで、もう気づけばいいようなものですが、それがなかなか難しいのですね。

そんなことを聞いてからは、別に小さなおじさんに会いたいとは思わなくなりました。この会いたいという願いも一種の欲望かも知れないですね。 

人の言葉よりも自分の内側の声を聴く

私たちは生まれてからずっと、周りの大人たち、親や先生や先輩などから様々なことを教えてもらってきましたね。

社会にでれば、社会という得体の知れない何かから、たくさんの事柄を教えられて、無数の事柄を培ってきたわけです。

そうしたものの中で、本当に自分の毎日を気持ちよく、豊かなものにしてくれることに役立ってきたものってどれほどあるんだろうか?

そう考えてみると、正直言葉は悪いかも知れませんが、ほとんど何もないんじゃないのかなと思ってしまいます。

私の場合であれば、真に自分のためになることを教えてもらったなと思っているのは、会社をやめた後に今の仕事をするようになってからなのです。

多くの人たちとともにセッションを通して、実体験を題材にしつつ学ばせてもらったんだなと思うのです。

それと、oshoの言葉からも深い知恵の言葉を繰り返し学んできたなと。となると、人生の前半は一体なんだったのかなと。

幼稚園から始まる集団生活、ほとんどが気の進まないことをやらされたりして、とにかく好きなことをやらせて貰えることの少なさだけが印象に残っていて。

それはワガママだと言われたらそれまでなのですが、でも人はそうあっていいのだと今なら胸を張って言えますね。

私は運良く親からどんな強制もされなかったのですが、それでも社会人ともなればそれなりの抑圧もあり、自分の居場所はここじゃないと何度も感じたりしていました。

もうだいぶ人生の終盤に差し掛かってきたので、若い人や生きづらいと感じているたちに言いたいのは、もっともっと自由奔放に生きるべきだよと。

人の評価や噂を気にせず、誰かの顔色を伺うことをやめて、自分の内側の声に耳を傾けてあげて、できるかぎりそれに従っていくことですね。  

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見る角度なんてない

小学生の時に、大嫌いな写生の授業があって、みんながてんでんバラバラに学校のあちこちに散らばって、思い思いの絵を描き始めたのです。

自分は数人の仲間と一緒に、大きな枯れたような木をど真ん中に持ってくる位置で画角を決めて、見たままの風景を描いたのです。

後日、図工の先生が全員の絵を一枚一枚見ながら批評をするのですが、自分の絵に対してこの大木を中心に持ってきた意味が分からないと。

つまり、絵の上手い下手ではなくて、風景の切り取り方を否定してきたわけです。そんなこと言われたって、こっちゃあ素人なんだし。

こんな昔の事をしっかり覚えているということは、その否定のされ方に自分のセンスを完全ダメ出しされた感じがして悔しかったのでしょうね。

そして今思うに、私たちは色々な角度で目の前の景色を見ることができると思い込んでいるのですが、そうではないなと。

今この瞬間に見えているものがすべてなんだと。ところが、私たちは経験上、見る位置や角度を変えれば、見えるものの見え方は変わると信じています。

たとえば、テレビを観ている時には、テレビの画面つまり前面が見えているのですが、後ろに回ればテレビの背面が見えると信じています。

これが違うという事です。なぜならテレビという物体には実体がないので、それは想定しているだけだという事です。

この辺のことが分かってくると、より空間やモノの実体というのはないということが明確になってくるはずですね。 

そもそも、コレは何なんだ?

何歳の頃から始まったことなのか、まったく定かではないのですが、記憶の限りではかなり遠い過去だと思うのですが。

ふとした瞬間に、本当になんの脈絡もなく両手を広げて、「そもそも、コレってなんなんだ!」とやるのです。

誰かに訴えているという気持ちがあるような、ないような。記憶では、誰もいないところで一人こっそりとやっていたかも。

生きていると、色々わからないことや変なことがあったりするものですが、そんなことよりもという気持ちで、そもそもって言っていたような。

非二元の話をするときの、「ただコレだけがある」というときのコレと似た感じがするのは確かですね。

けれども、一方でこの自分ありきで言っていたと思うので、そこは中途半端だったんだろうなと思うのです。

つまり、自分という存在はあるままに、周囲だけを見てこれは一体何?とやっていたということですね。

それでも、いったい全体コレは何なんだ?という疑問というか、訳がわからないという気持ちは今に通じるものがありましたね。

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昨日も今日も明日もない

このブログを書いている今この瞬間、ここにどんな体験があるのかをちょっとお話ししてみようと思います。

リアルなのは、ただ静かな部屋のソファに腰掛けてipadに向かってキーを打っているという体験が起きています。

これだけが本物であって、それ以外のことはすべて妄想です。この妄想にはどんなことがあるかというと…。

頭の中で、帰宅途中の車中で聴いていた曲が流れているという体験。この曲が流れているというのはリアル。

けれども、帰りのクルマのなかで聴いていた曲というのが妄想ですね。もちろん、その妄想をしているというのはリアル。

普段まったく買わない安価な白ワインを飲みながら、これはコスパが最高と思って喜んでいるのですが…。

喜んでいるのはリアル。けれども、ワインにまつわることは妄想です。その妄想をしているという体験はリアルですが。

こんなことをやりながら、気分がいいなあと感じているのはリアル。そしてコレしかないんだという感覚もリアル。

この瞬間、宇宙は消えてすべてはコレだけだという感覚がやってくるのですね。昨日も今日も明日もありません。