世界は人の数だけある

あなたが暮らしている世界、ワールドの全てがあなたのものです。あなたのために設えたあなた専用のワールドなのです。

そう言われても、そんな馬鹿げた話を信じることはできないと言うでしょうね。なぜなら、この世界にあなたしかいないと言われているようなものだからです。

けれども、そうではありません。あなた以外の全ての人も、それぞれの人専用の独自のワールドを持っているのです。

そして、一人一人がそれぞれのワールドで暮らしているのです。でもそれでは矛盾が生じますよね。

それぞれのワールドで生きているのであれば、例えばあなたと誰かもう一人が共にいる空間というのはどっちのワールドなのでしょう?

それは、互いのワールドがダブっていると言えばいいのか、要するにその瞬間は互いが互いのワールドを共有している状態なのです。

そして宇宙はとてもうまい具合に、そこに矛盾が生じないようにできているのです。このように考えてみてください。

明日、あなたはAさん、Bさん、Cさんの三人と順番に会うことになっているとします。すると、Aさんのワールドでもあなたと会うためにワールドが調整されるのです。

同様にして、BさんもCさんもあなたと会うためにワールドが調整されるのです。二つの円の一部が重なっている状態をイメージすればいいのです。

その重なった部分が共有されているワールドということになるでしょうね。最後に言いますが、ワールドと言っても地球とか宇宙という意味ではありません。

あなたが認識しているもの、それこそがあなたのワールドなのですね。ご興味があれば、じっくりそれを味わってみてくださいね。

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死と隣り合わせに生きる

歳を重ねるごとに月日の経つのが早く感じるようになると、巷では言われているようですが、これ本当ですね。

最近、一年があっという間に経ってしまうというのが比喩ではなく、現実に自分の身に起きていることだなと。

だから、これではあっという間に死がやって来るなというと、本当にそうだねという人と、そんなこと言わないでという人とがいます。

後者の人は、きっと死ぬことを恐れているか、まだまだ死にたくないと思っている人であることは間違いありませんね。

これは当然、本人の年齢にも関係してくることですので、一概には言えないのですが、この年齢になって思うことがあるのです。

それは、本質的には何歳であろうと、死と隣あわせで生きていくことがいいのだろうということです。

死ぬことは私にはとりあえず関係ないとして生きるのか、それともいつ死が訪れるか分からないとして生きるのか。

きっと後者の方が、より生きている瞬間瞬間をしっかりと感じつつ、意識的に生きることができるのではないかと。

死を忌み嫌うのではなく、いつやってきても大丈夫という心持ちで生きることができたら、防衛はかなり小さくなるはずです。

そのほうが確実に充実した自由な感覚の中で、生きていけるような気がしますね。

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お気楽な人生へと舵を切る

私たち自我の一般的な、あるいは代表的な生き方には、「自分が頑張らねばならない」というちょっとした悲壮感があるのです。

様々な義務と責任を可哀想な両肩に背負って、ヒーヒー言いながら頑張るのです。決して人生は楽しいものではないと。

苦労して、我慢して正しい人間として生きたその先に、ようやく憧れの幸せが待っているのだというわけです。

『そんなの、絶対来ませんよ〜』って誰かに言われても、ひるむことはありません。そのくらい、固く信じて疑うことがないのです。

悪いことに、そうした人生を続けていると心に余裕がなくなってしまい、全てを決まりきった近視眼的な見方でしか見ないようになってしまうのです。

その人生の行先に、どうしたら幸せが待っていると思えるのか不思議です。少し冷静になれば、気がつくことなのに。

けれども、そんな人生を生きている人であっても、いずれは気づくチャンスはやってきてくれると思っています。

例えば、限界を超えてしまえば、路線を変えるしかなくなるからです。それは広い意味で自然治癒力と言ってもいいかもしれませんね。

どんな石頭の人にでも、午後の人生への転換点はやってくるのです。そのとき、人生を生きる極意に気づくのです。

人生全体を「お任せするぅ」に変えてしまえば、どれほど肩の荷が降りることか。そしてお気楽な人生へと舵を切るのですね。

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今日のあなたの波動が明日を作る

あなたは生まれてから、何回今日と言う1日を生きてきたでしょうか?私の年齢で計算すると、ざっと2万5千回です。

この数を多いと思うのか、それともそんなものかと感じるのか、どちらだか分からないのですが、ともかくそれだけの回数の今日を迎えたわけです。

しかも、どんな今日がやってくるのかはその都度分からない訳で、その日何に遭遇したのかについては、たまたま、偶然というように考えがちです。

つまり、自分という存在に対して、未来から次々と1日が送られてくるのですが、その内容は自分では決められないというわけです。

けれども、本当はそうではありません。実は、明日やってくる1日も、明後日やってくる1日も、その先も全部、これまでの自分の生き方が生み出しているのです。

これまでどのように生きてきたかと、明日以降に起きることは無関係ではないということに気づくことです。

もしも明日、ものすごく楽しい1日を過ごしたいと望むのであれば、今日をそのように生きるように意識することです。

そうすれば、今日のあなたが明日のあなたを作り出すわけですから、明日も楽しい1日になる可能性が大なのです。

その逆も然り。だから、明日の幸せを掴むために、今日という1日は歯を食いしばって辛く苦しくても頑張る。

これをやったら、決して楽しい明日はやってきません。これは明らかですよね。ところが、そんな毎日を送っている人が意外にも多いのです。

未来のために今日を犠牲にするなら、その犠牲的エネルギーが明日以降を作り出してあなたにプレゼントするということを忘れないことですね。

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親の正しさを押し付けられた子供は…

子供がまだ幼くて、一人前になれていない頃というのは、親としては子供をなるべく正しい方向へと導こうとするものです。

親としては、より良い人生、より幸せな人生へと向かって行って欲しいので、そうなるためにはという考えのもとに、子供に接するわけです。

そこで、親は親なりの子供に対する期待値を持っており、子供は必ずしもその期待値通りではないことがほとんどです。

そうなると、その落差に対して、親は落胆したり悲しんだり、あるいは怒りで自分の気持ちを表現したりします。

よく言えば、叱る、悪く言えば自分の怒りをムキ出しにして怒鳴るなどです。親は自分が正しいと信じているので、この態度はなかなか変わりません。

子供は、特に素直な子供ほどですが、親の期待に応えられていない自分を悪者扱いしてしまうのです。

そして、親のことが怖いと感じているなら、素直な自己表現を抑えてしまうようになるのです。つまりは、怒られっぱなしの状態。

そうなれば、子供の心には怒りが鬱積して、それを表現する代わりにあらゆる問題行動を起こすようになるのです。

そうなると、その問題行動を見てさらに親は怒るようになって、負の連鎖がここで起きるようになってしまいます。

こうなると、その子供の未来に待っているのは、社会に出てから年上の人たちから散々怒られる人生なのです。

そうなる前に、ことの本質に気づいて日々の親子関係を改善する必要があるのですが、親の方が気づかなければなかなか難しいでしょうね。

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幼い子供って天使なの?

街を歩いていて、綺麗なおねえさんにも目が止まるけれど、それよりも頻度が高いのは幼い子供たちやワンちゃんたちの方。

幼い子供や動物たちに共通するのは、みんな無邪気だということですね。防衛が少ない、つまり無防備だということ。

その状態が愛のエネルギーであることは間違いないことです。その愛を感じさせてくれるので、可愛いなあと感じるわけです。

あるとき、ものすごく無邪気でまるで天使のような可愛い女の子がお母さんと歩いていたのですが、神はすごい存在を創るなと。

そしてふとイメージがやってきたのです。もしも、その子に何かの危険が迫ってきたとしたら、自分は身を挺して助けるに違いないと。

それは決してカッコつけでも何でもなくて、その瞬間は無我夢中の状態、つまり自我が一瞬消えている状態になるのだろうと。

だから、怖くもないし、自己犠牲も何もないのだなと。自分自身も自我が消えている状態では、無防備になれるわけで。

そうなったら、ただただ飛び込んでいって助けることになるのだろうなと。あれ、歳とったからなのかなと。

若い頃は子供は苦手な部類だったのですが、年齢を重ねていくうちにものすごく可愛らしく感じるようになってきた感じがしていて不思議です。

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音楽と共に瞑想するメリット

瞑想するときには、全く音のない環境でするべきという勝手な思い込み、ルールがあったのですが、それを取っ払ったのです。

そうしたら、物凄く気持ちよく瞑想をすることができて、何だもっと早くから気がついていればよかったなと。

ちょっとしたお気に入りの曲を連続でかけて、それにある程度耳を傾けながら瞑想すると、いい具合に集中するのです。

もちろん気が散ってしまうような曲を選ぶと、逆効果になってしまうので注意が必要ではあるのですが。

音楽を聴きながら瞑想するメリットはいくつかありますね。あまり、深く入れないなあという日であっても、嫌にならずにできること。

いい状態になるのに時間がかかるなと思っても、苦にならずに続けていられるのです。それと、もう一つ。

それは、自動思考がほとんど気にならなくなることですね。このメリットは大きい。何なら自動思考がなくなってしまったかもと思えるのです。

そして、たまに曲をかけずに瞑想してみると、まだ自動思考があることに気づきます。それも不思議なことに、自分ではない知らない誰かの声でやってきます。

普段聞こえてくる自動思考の声は、自分の声に似ているために自分が考えていると騙されてしまうのですが。

知らない奴の声で聞こえてくる自動思考、そのおかげで自動思考は100%自分(自我)ではない、別の何かの思考だということがわかるのです。

きっと、左脳そのものが繰り出す思考なのでしょうね。だとすると、相当に不気味な感じがしてきますね。

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意識が誘う高次元

瞑想をしていて感じるのは、どこへも行くところがないという感覚。これを感じているのは、おそらくは自我なんでしょうね。

なぜなら、自我は時間的には過去と未来という広がりを持っているし、空間的にはこの宇宙の広がりを持っているからです。

その広がりの中を自由に動き回ることができる、あるいはそうしたイメージを作り出すことができるわけです。

もちろん、現実的には時間は過去から未来への一方通行だけなのですが。イメージとしては無限の時間的広がりの中で遊べます。

ところが、瞑想中にはその時空的な広がりが徐々に狭められていって、終いにはただ今この瞬間だけになってしまうのです。

時間が消えて、空間が消えて、どこへも移動することができなくなってしまうと自我が感じるのは、当然のことかもしれません。

けれども、その時にこそやっと純粋な意識がしっかりと姿を現すことができるのですね。普段邪魔されて十分に表舞台へ出てこれなかった意識。

意識が時空を移動できないのは当然で、それはその上位の次元にあるからです。全ての時間と空間を満たしていると言えばいいのか。

その意識が時空を超えた高次元へと誘ってくれるので、それがとてつもなく気持ちいいのです。不思議なことに、自我もそれは好きなようです。

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最強の便利ワード発見

なくて七癖というくらい、人にはそれぞれに特有のクセがありますね。クセの中でも特に気になってしまうのが、言葉のクセ。

自分にはそんなものはあまりないのではないかと思っていたところ、この数ヶ月の間に繰り返し動画を配信していたら、気づいてしまいました。

やたらと、「なんか」と言ってしまうのです。他にもいろいろあることはあるのですが、でもこれが一番気になります。

それで友人と、その言葉を多用してしまう理由やら、その言葉の持つ意味やニュアンスなどについて話し合ってみたのです。

すると、意外なことに気づきました。実は、自分が「なんか」を多用していることに気づいてから、他人のYouTubeを観てチェックしたのです。

すると、この言葉を使っている人の何と多いことか。厳密に測定したわけではないのですが、比較的若い人の方が多いかもしれません。

そして、この言葉を使うと言葉の持つパワーが柔らかくなるということを発見したのです。明確にするよりも、その反対に曖昧にする力があるようなのです。

例えば、ただ「楽しい」というよりも、「なんか楽しい」と表現した方が緩やかな感じがしませんか?

日本人特有の、物事を断定するよりも、「かもしれない」のようなニュアンスにして、角が立たないようにする感じ。

ネガティブに言えば、自信がない場合の表現とも言えますね。だから若い人に多いのかも。これ、気になりだすと止まらない。

その人がいつ「なんか」を繰り出すのかを待ってしまったり。一本の動画で、私が何回「なんか」を口走ってしまうのか、チェックなどしないように!

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偉大な力にお任せする

下記のoshoの言葉、言っている意味は重々分かるのですが、これを受け止めるには信頼が必要となるのでしょうね。

『瞑想し、祈り、待ちなさい
何ごとも欲しないこと
あなたのなかには
あなた自身のどんな力よりも偉大な力があるのだから
ただし、それはあなたの意志がはたらいていないときに
はじめて現れるものだ』

これを言われてしまうと、もう元も子もないのですが、自我として生きている限りは常にこのジレンマを感じながら生きるしかないのです。

自我のどんな努力や意志力を駆使したところで、太刀打ちできるようなものではない偉大な力が隠れているということ。

しかもその力が現れるのは、自我の欲望を使わない時に限られると。それを感じたいのですが、それを感じたがっている自我が唯一の邪魔だと言われては、どうすることもできない。

瞑想し、祈り、待つ。どれも自我にとっては、苦手意識があるものばかり。それで思いつくのは、「お任せ」という言葉。

その偉大な力を信頼して、それに委ねてお任せすることができれば、何もかもがスムーズに進行し出すことは、どこかで分かっているのですが。

せっかく地球に来たのですから、自我のバカバカしさを満喫するのか、あるいは自我から離れて本質の力を感じながら生きるのか。

どちらも間違ってないし、どちらが正解ということでもないのでしょうね。

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